辞書によれば、豪傑とは才知、武勇に並外れて優れていて、度胸のある人物とあります。また一風変わった人という意味も含まれるようです。単なる肉体的な強さだけではなく個性や知性も求められるんですね。うん、合気道家にふさわしい肩書きかもしれない。
ところで、まことに失礼で不謹慎ではありますが、合気道入門者というのは、武道をしたいけど柔道するほど体力がない、剣道するほど敏捷でない、空手をするには度胸がない、そんな人が多いのではないかと、かつてわたしは思っていました(自分がそうだったからです。それらをちょっとずつかじったから感じたことではあるのですが)。ところが、他の武道やスポーツでそこそこの実績をあげ、わたしの基準からすればなんで合気道を始めたんだろうと思うような人が身の回りにたくさんいることを知り、自分の認識が誤りであることに気づきました。
これはつまり、合気道を好む人には、他の運動等では満たされない、独特の価値観、美意識を持っている方が多いということなのかもしれません。武道の中では特筆される優美さとか、対手を傷つけずに制する技術であるとか、深い精神性とか、それはいろいろあると思います。
そのような合気道を作り上げてきた先人の中には、かつてのわたしの認識を覆す豪傑といってよい方がたくさんいらっしゃいます。《大人》でご紹介した大澤喜三郎先生がある意味その最右翼であろうと思っていますが、この際、軟弱な自分を省み、その対極にある幾人かをご紹介します。
まずは、《力持ち》でも触れた藤平光一先生が大先生の御前で演武をした時の話です。その時受けをとった黒岩洋志雄先生からお聞きしました(以下、他の話も同様です)。何本か投げ技を続けているうちに、気づくと受けが飛んでいく方向に大先生が座っていらっしゃったのだそうです。とっさに藤平先生は技を止め、黒岩先生の両襟を掴むや、フッと宙に持ち上げ、くるりと反転して別の方向に投げたというのです。『そのころわたしは80kg近く体重があったんですよ。驚きましたねえ、こどもを抱き上げるみたいでしたから』。
お次は話題豊富な塩田剛三先生の逸話の中から道場破り破り(?)です。養神館設立から間もないころのことだと思いますが、案の定道場破りが現れたのだそうです。道場破りといっても、別に暴れこんでくるわけではなく、一手ご指南くださいというふうに、一応礼儀は通すのです。塩田先生はそれを丁重に道場に案内し、対座しました。それではお願いしますということで、相手が頭を下げたところを、塩田先生は上から強く押さえつけ、相手の顔面を畳に打ちつけてやったのです。もちろん相手は怒りましたが、『敵に向き合って顔を伏せる馬鹿がいるか。本来なら殺されても文句は言えないんだぞ。出直して来い』と一喝して帰したということです。
それに似たような話が斉藤守弘先生にもあります。戦後間もない頃、東北在住の某柔術家(著書などもあって少々名の知られた方です)が東京滝野川に道場を開設しました。ちょうどそのころ本部道場に来られていた斉藤先生が、『東京に道場を開いておきながら植芝先生に挨拶がないのは無礼である』と、その道場に単身乗り込んでいったのです。そして応対したその柔術家の頭を押さえつけ、床に何度か打ちつけてやったのだそうです。数日後、その柔術家が本部道場の前を行ったり来たりして中に入りづらそうにしていたのが見えたので、招き入れてやりました。すると、ちゃんと大先生に挨拶をして、手土産の酒を2本置いていきました。それは二級酒だったということで、斉藤先生は『一級酒を1本持ってくればいいじゃないか。気の利かないやつだ』と話しておられたそうです。
大先生ご自身がいろんな逸話の持ち主ですが、お弟子の方々も負けず劣らずユニークなエピソードをたくさんお持ちです。いまや平和の武道、愛の武道ということで社会的に認知された合気道ですが、黎明期の人物群像は、とても行儀の良い現代の合気道家とはひと味もふた味も違っていたようです。そのころ入門していたら怖かったでしょうね。