合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

240≫ 達人になろうよ

2014-06-26 15:59:47 | インポート

 先週末の二日間、わたしが関係する合気道団体の講習会がありました。優秀な講師陣にまじってわたしも(わたしは別段優秀ではありませんが)講義と実技を各一時間ずつ担当させていただきました。思い返してみると、わたしはその中で『達人』という言葉を数回使っていたようです。合気道には達人養成システムが組み込まれているとか、みんな達人を目指そうといった案配です。

 武の道において達人と評される人は歴史上幾人もいますが、それでも全体からみればほんの一握りの驚異的技量を持つ人に許された称号です。その人たちと並び称されるように頑張りましょうというのですから、まともな人は『何を寝ぼけたことを言ってるんだ』と思うことでしょう。

 実際に達人になれるかなれないか、たぶん、わたしも含めてほとんどの人は極めてその可能性が小さいでしょう。しかし、それでもやはりわたしは全ての合気道家に向かってそのように言いたいと思っています。1パーセントでも見込みがあるのなら。

 なぜならばわたしたちはまがりなりにも植芝盛平翁に連なる合気道家だからです。大先生は合気道という愛と和合の武道を創り、育て上げられました。そして、わたしたちにはそれをもって地上天国(理想の社会)を建設せよとおっしゃったのです。それが達人の仕業でなくてなんでしょう。合気道家一人びとりが達人であってはじめて可能になります。

 ところで、この一年くらいの間に、わたくしが主宰を務める会に60代の方が3人(男性2人、女性1人)入会されました。子供も含めて全部で実動20人くらいの会ですから、これはとても珍しい出来事です。入会の事情はそれぞれでしょうが、それまでの社会的立場に一区切りつけ、何か新しいことを始めようと考えたときに合気道を選択していただいたことをわたしは嬉しく思いますし、その前向きな姿勢に敬意を表したく思っています。

 これまでも時々は60代の方の入会はありましたが、在来のメンバーが歳を重ねてきたこともあり、全体の年齢構成が高齢化してきました。大げさに言えば、われわれに残された時間はそう潤沢ではないのです。限られた時間で一歩でも達人に近づく、その手伝いをする義務がわたしにはあります。

 そのような状況で、ますます『達人』ということの意味を吟味してみようと考えています。まずそれは決して観念の産物ではなく、現実の身体とその動きで表されるものです。つまり、わたしたちは合気道の技法を通じて『達人』を実現させる必要があるということです。

 そう言うとなにか人間離れした能力を求められるのではないかと思われるかもしれません。もちろん誰でもできるとは言いませんが、合気道技法を正確に、精密に身体に染み込ませていけば、その一端に触れることは不可能ではありません。たとえ60代で入会した人でもです。少しでも触れることができれば『ああ、こういうことか』と納得し、限られた時間を有意義に使ったことに満足できるでしょう。それが合気道の達人養成システムです。

 ただしこのシステムは、ただ汗を流すだけの稽古や力任まかせの稽古では果実を与えてくれません。目の前で受けをとってくれる人をただ投げたり押さえつけたりしたってダメです。一つひとつの動きの意味を理解し、それを正しくトレースすることでしか成果を得られません。

 その場合、どのような動きを正しい動きというのかということが明確でなければなりません。それについて、細かいことを言えばいろいろありますし、それを全て文章でお伝えすることも困難ですから、ひとつだけヒントを申し上げます。それは取りも受けも、体の一部だけに負担がかかるということがない動きであり、その結果、投げられたり押さえられたりしている受けの人にニッコリ笑みが浮かべば大成功です。

 そのときその人はこういいます。『やられるのがわかっているのに抵抗しようとは思わないんだよね。自分は何をしているんだろうと、思わず笑ってしまった』と。


239≫ 名前と実体

2014-06-15 16:04:22 | インポート
 黒岩洋志雄先生考案の棒切れ術というのがあります。1メートルくらいの棒切れを使って合気道の動きそのままに技をほどこすもので、以前にも書きましたが、これは一時期、大澤喜三郎先生によって禁止されたいわく付きのものです〔⑱ 大人(たいじん)参照〕。ここ何回かの稽古でそれをやっているのですが、名称を短棒術とかステッキ術としなかった黒岩先生の慧眼にあらためて感心しています。

 名前というものはある事物を象徴的に表現する簡便な手段ですが、ややもすればその一面のみを強調し、他の部分の意義や存在を消し去ってしまう嫌いがあります。世の中にあるほとんどのものは必ず複数の働きを持っています。たとえば新聞紙は毎日ニュースを届けてくれるほかに、包み紙になったり焚きつけになったり、あるいは防寒や保湿その他いろいろに使えます。

 このような事例は長い間に培われた生活の知恵のひとつですが、最近は現代的生活の名のもとに単機能の商品があふれ、かえって不便なこともままあります。冬に活躍する一般的な暖房器具などは、我が家の場合、石油が燃料なのに電気につながないと働かない温風ヒーターで、それではお湯も沸かないので別に湯沸かし器を使い、湯気が出ないので加湿器を使うということになります。昔のストーブではこんなことはありませんでしたから、本当に便利になったのかどうか疑わしい状況です。ここには、暖房器具なのだから暖房さえできれば良いという単純な思想しかありません。ちなみに、東日本大震災のときは、雪が舞う状況なのに停電で暖房器具としてさえ使い物になりませんでした。

 合気道でもそれと似た状況が生まれたかもしれない事態があったことは本欄〔⑦ 名前〕で触れました。とにかく、実体としての事物が主で名前はその付属物でしかないのに、逆に名前がものごとのありようを限定してしまうという本末転倒が世間にはあふれています。

 話が横道にそれました。本来のテーマに戻れば、棒切れ術は、身近にある棒状のものを使って護身の役にたてようという技法ですから、あえて短棒とかステッキとか特定の品物の名前を付けなかったわけで、そのことは前述〔⑦ 名前〕でおわかりの通り黒岩合気道の思想に直結する作法だったのです。ここであえて思想などと大仰に言うのは、昨今、技法であれ理念であれ、それを貫く術者の考えが伝わってこないことが多いからです。上手とか下手とかではなく、これはこうであらねばならないという理屈が大切だとわたしは考えています。その一貫した理屈を思想と表現しました。

 ある技において、なぜ右足が前なのか、なぜ手のひらが上向きなのか、その隠された理由を知らないまま数を重ねるだけの稽古はいかにももったいないと思うのです。結局それでは技名に誘導された動きをするだけの単機能技法でしかありません。本当はいろいろな変化が可能なのに。

 ある有名な古流武術の流派は、剣術の型の一本々々の手数が多く長いことで知られていますが、それはあくまで体と動きの鍛錬用で、実際は、一瞬で勝負が決まる『崩し』という変化型があります。これは免許者にだけ伝えられる実戦技で、あえて外部には真実を見せないように工夫されたものです。長い伝統を持つ武技には多かれ少なかれそのように複数の働きを持たせたものがいくらでもあります。合気道もその技法の淵源は古の武術である以上、表の顔と裏の顔があるくらいのことはわからなければいけません。黒岩先生言うところの『合気道はウソを教えている』という直感はこのあたりの消息を踏まえてのことでしょう。

 四方投げはこう、一教はこうなどと名前にとらわれなければ、違うように見える合気道技法の多くがほぼ共通の体遣いによって成り立っていることもわかるでしょう。それを解き明かしていくことが技の核心に迫る秘訣です。