先週末の二日間、わたしが関係する合気道団体の講習会がありました。優秀な講師陣にまじってわたしも(わたしは別段優秀ではありませんが)講義と実技を各一時間ずつ担当させていただきました。思い返してみると、わたしはその中で『達人』という言葉を数回使っていたようです。合気道には達人養成システムが組み込まれているとか、みんな達人を目指そうといった案配です。
武の道において達人と評される人は歴史上幾人もいますが、それでも全体からみればほんの一握りの驚異的技量を持つ人に許された称号です。その人たちと並び称されるように頑張りましょうというのですから、まともな人は『何を寝ぼけたことを言ってるんだ』と思うことでしょう。
実際に達人になれるかなれないか、たぶん、わたしも含めてほとんどの人は極めてその可能性が小さいでしょう。しかし、それでもやはりわたしは全ての合気道家に向かってそのように言いたいと思っています。1パーセントでも見込みがあるのなら。
なぜならばわたしたちはまがりなりにも植芝盛平翁に連なる合気道家だからです。大先生は合気道という愛と和合の武道を創り、育て上げられました。そして、わたしたちにはそれをもって地上天国(理想の社会)を建設せよとおっしゃったのです。それが達人の仕業でなくてなんでしょう。合気道家一人びとりが達人であってはじめて可能になります。
ところで、この一年くらいの間に、わたくしが主宰を務める会に60代の方が3人(男性2人、女性1人)入会されました。子供も含めて全部で実動20人くらいの会ですから、これはとても珍しい出来事です。入会の事情はそれぞれでしょうが、それまでの社会的立場に一区切りつけ、何か新しいことを始めようと考えたときに合気道を選択していただいたことをわたしは嬉しく思いますし、その前向きな姿勢に敬意を表したく思っています。
これまでも時々は60代の方の入会はありましたが、在来のメンバーが歳を重ねてきたこともあり、全体の年齢構成が高齢化してきました。大げさに言えば、われわれに残された時間はそう潤沢ではないのです。限られた時間で一歩でも達人に近づく、その手伝いをする義務がわたしにはあります。
そのような状況で、ますます『達人』ということの意味を吟味してみようと考えています。まずそれは決して観念の産物ではなく、現実の身体とその動きで表されるものです。つまり、わたしたちは合気道の技法を通じて『達人』を実現させる必要があるということです。
そう言うとなにか人間離れした能力を求められるのではないかと思われるかもしれません。もちろん誰でもできるとは言いませんが、合気道技法を正確に、精密に身体に染み込ませていけば、その一端に触れることは不可能ではありません。たとえ60代で入会した人でもです。少しでも触れることができれば『ああ、こういうことか』と納得し、限られた時間を有意義に使ったことに満足できるでしょう。それが合気道の達人養成システムです。
ただしこのシステムは、ただ汗を流すだけの稽古や力任まかせの稽古では果実を与えてくれません。目の前で受けをとってくれる人をただ投げたり押さえつけたりしたってダメです。一つひとつの動きの意味を理解し、それを正しくトレースすることでしか成果を得られません。
その場合、どのような動きを正しい動きというのかということが明確でなければなりません。それについて、細かいことを言えばいろいろありますし、それを全て文章でお伝えすることも困難ですから、ひとつだけヒントを申し上げます。それは取りも受けも、体の一部だけに負担がかかるということがない動きであり、その結果、投げられたり押さえられたりしている受けの人にニッコリ笑みが浮かべば大成功です。
そのときその人はこういいます。『やられるのがわかっているのに抵抗しようとは思わないんだよね。自分は何をしているんだろうと、思わず笑ってしまった』と。