剣道の決まり手は面・胴・小手・突きの4種類、ボクシングなら大きくはフック・ストレート・アッパ-カットの3種類、柔道や相撲は技数はたくさんありますが個々人の技として実際に遣えるのは数種類くらいなものでしょう。さらに得意技となれば一つか二つに限られてきます。試合のあるものはそうならざるを得ません。
それにひきかえ合気道の技数は二千とも三千ともいわれますが、はっきり言ってわたしはその詳細はわかりません。ここでは、合気道には試合がないのでそのようなたくさんの技を手段・道具として体を練ることができるということをわかっていただければ結構です。
ただし、他武道やスポーツで技といっているのは攻撃のための方法という意味ですが、合気道の場合、そのような意味での攻撃の技というのは厳密にいえば≪受け≫の人が仕掛けてくる正面打ちだとか片手取りだとか、いわゆる掛かり(攻め方)です。試合のない合気道ではその掛かりも何種類もあることになります。
ここ何回かのテーマは技法考察ですが、技法とはいっても、いわゆる投げたり押さえたりといった技法ではなく、上記のように、受けの側の掛かりの方法を中心に考察してきています。今回は両手取り・諸手取りですが、これは掛かりのなかでもとりわけ鍛錬用の趣きが強い技法です。
回りくどい言い方をやめれば、実際的ではない掛かりだということです。相手の動きを制約するために自分の両手を使って相手の手首を掴むというのは、実際の闘争の場面ではあまり賢いやり方とは言えません。ですからこれは鍛錬用だということです。技の起源においては刀や槍を持った敵を想定していたのかもしれませんが、それは現代武道としては過剰品質でしょう。
ですからこれは素直に鍛錬法だといえば無理がありません。それではどんなところに気をつけて鍛錬するのがよいか、これが今回の肝です。
それは、取りの側が両手の働きやバランスを感じ取ることが重要ということでほぼ間違いないでしょう。取りにとって、手は、普通は左右のどちらかが主でどちらかが従の働きをします。それが次の時点では逆になるというふうに役割を交代させながら働きます。しかし、両手取りの場合は左右の手がほぼ同等の働きをしなければなりません。しかも、ある程度のレベル以上にある人には、その働きがより精妙なものであることを求められます。
天地投げを例にとれば、天の手と地の手はただ上下に分かれればよいというものではなく、それぞれがしっかりと受けを崩していなければなりません。崩しをかけるためには両手がどう働かなければならないか、それを稽古を通じて身につけるわけですが、どちらか片方だけに意識が集中してはうまくいきません。それがなかなか難しいのです。かたちばかりの天地投げをしていてはその難しさはわかりません。
また、諸手取りですが、この場合、取りにとって掴まれている方の手を動かすことばかりに注意を向けがちですが、それもまた思慮が足りないと言わざるを得ません。自分の片手を相手は両手で押さえているわけですから、それをどうにかしようとすれば単純に考えてもなかなか困難であることは容易にわかります。それをなんとか克服していくのが稽古の目的です。相手の2倍の腕力をつければよいなんてのは論外ですよ。
たとえば、掴まれた手を振りかぶろうとする場合、その手だけを振りかぶるのではなく、掴まれていないほうの手も同時に振りかぶると力が出て、しかも自分の体勢を崩すことなく上がるのです。実際にやってみれば誰でもわかると思います。これは、両手を同時に振りかぶることで、力の出どころが体の中心になり、その結果バランスが良くなることに起因すると思います。
ちなみに、今では多くの人がやっていることですが、諸手取りで、接触部(手首)をあまり動かさず、そこを回転の中心にして肘を下げて顔の前に手刀を立てるようにする方法は黒岩洋志雄先生がやり始めたことです。先生が乞われてアメリカで指導をされた折、体が大きく力の強そうな人にがっちりと諸手取りをされた時、そのようにして技をかけると相手はしっかり持っていた分なおさら派手にひっくり返って、『日本から来た先生はスゴイ』と感心していたそうです。『でもね、そうでもしなきゃビクともしないんですから苦労しましたよ。あまり感心されて、かえってこちらが驚きましたよ』とおっしゃっていました。帰国後その話をしたら、みんなそのように動きを変えたということです。
いずれにしろ、両手取りや諸手取りは、その起源はそれなりの理由があるとしても、稽古法としては他の掛かりとはいささか趣を異にして、両手を合理的に遣うための一法であるということを覚えておいていただくと、そこからさらに新たな展開が望めると思います。