合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

106≫ 再現性

2009-07-28 15:55:37 | インポート

 先日、某(武道愛好者の間では有名な)武道誌で、いわゆる《合気上げ》の特集をしていたので、興味をひかれて(本当は諦めの気持ちで)読んでみました。その感想を述べてみようと思いますが、合気上げは大東流の技法であり、いささか合気道に関係があるといっても他流儀のものですから、よく知りもせず門外漢が批評をするのは礼を欠くことになります。ですから、わたしは合気上げという技法そのものではなく、それに関わる技法の伝授という部分で思うところを述べてみようと思います。 

 そこでは何人かの指導的立場にある武道家の方々が、それぞれの技法を紹介していました(合気道家も二人登場しておられました)。それを読んでの一番の感想は、この記事を編集された方は大変だったろうなということです。どういうことかというと、本を出すほうは、これを多くの読者に読んでもらって、少しでも役に立ててほしいわけです、がしかし、案の定、そこに登場する先生方の技法にも考え方にもほとんど共通性がなく、何かをつかみとろうとする人にとってはかえって混乱するばかりではないかと思ったのです。この共通性のなさは、上級者向けとか初心者向けといったようなレベルの違いによるものではなく、本質のところで異なっているのです。犬を見て一人は猫だと言い、また一人は熊だというのと似ています。これは言葉の定義から始めないといけない種類の問題です。実はこのての記事は以前からその傾向があり、読者に消化不良を起させます。ただしこれは、記者や編集者の責任ではありません。いつにかかって、そこに登場する武道家の責任です。

 たぶん、ご自分はちゃんとおできになるのでしょう。しかし問題は(やり方よりは)それが何を意味するか、なぜ伝える必要があるのかをきちんと説明するだけの言葉をお持ちになっていないところにあります。このようなことを言うと、武道は理屈ではないし、実際に手ずから教えを受けないと肝心なところはわからないのだ、という反論があるでしょう。雑誌を読んだくらいでわかるなら誰も苦労しない、と。たしかにそういうこともあるかもしれません。しかし、そこをなんとか工夫して伝えなければ指導者とはいえないし、読者に失礼というものです。それができなければ取材など受けなければよいのです。まして、合気上げは基本中の基本だとおっしゃっている方もあるのですから。基本である理由と意義(それだけで本一冊分はあるでしょうが)をきちんと伝えられないようでは、その先は推して知るべしです。そんなこと知らなくても実際にできればよいというのなら傍がとやかく言うことではないのかもしれませんが。

 このごろは、《合気》に着目した武道誌のおかげで、合気道愛好者でも合気上げに関心を持つ人が増えたようですが、もともと合気道では修練の過程で合気上げという項目はありません。常々やっている座り技の呼吸法は合気上げとは似て非なるものです。これは大先生や吉祥丸先生が合気道のために、文字通り呼吸法(呼吸と動作の一致)に重点を置いて工夫された鍛錬法で、相手の手が上がったとか上がらないとかは、実際どうでもよいのです。

 さて、どんな技法でも、やり方がわかればヘタはヘタなりにできるようになるものです。それが、再現性があるということです。再現性は科学の最も基本的な条件ですが、武道でもそれは当てはまらなければいけません。なぜならばそれは伝授の本質に直接関わるものだからです。上手下手はあっても、修練によってだれにも同じことができるのでなければ、技法の伝達なんて無意味です。同じように再現できないなら、みんなバラバラに好き勝手なことをやるしかありませんが、合気上げの現状はまさにそのような様相を呈しているように感じられました。

 ただ、冒頭述べたように、わたしたちにとって、これは他流儀の技法ですから合気道家はこの企画には参加すべきではなかったのではないかと思います。高段者といえども、他流儀の技法については部外の者であり、あえて言うなら教えを請う側にいるわけですから、家伝の方と並列的にものを言うのは差し控えるほうがよかろうと思いました。

 以上のようなことを踏まえれば、合気道は極力科学的でなければいけないと思います。技法の意味をきちんと理解し、技そのものは初歩の数学(算数かな)や物理(それに若干の心理学)で合理的に説明できなければいけません。

 合気道は合気上げを採用しませんでしたが(正確には、大先生の修行時代には、現在のような意味合いでの合気上げはなかったでしょうから、そもそも受け継ぐはずがないのです)、そのかわり技法説明に《氣》を便利に使いまわすことになってしまいました。合気系の武道に親しむ人たちは、合理的解釈というものに敵意でもあるのでしょうか。なんだかなぁ、ですよ。

 本旨は以上ですが、この先あくまでも遊びとして読んでください。

 合気上げと称するものが、表現上は人の重心を浮かせる技法だとしたら、それはたいして難儀なことではありません。もちろんひと一人の体重を腕力で持ち上げるのは容易ではありませんが、相手を浮かせる(要するに受けが自分で立つのです、実際は)のは雑作ありません。ためしに、こんな遊びをやってみてください。

 こちらは座って膝の上に手を置きます。その両手首を相手に握ってもらい、そのまま腕立て伏せの姿勢をとってもらうのです。見た目にはこちらの手にものすごい重さがかかっているように見えますが、相手は体重を足と手で分担して支えていますから、手にかかっている重さは案外たいしたことがないのです。取りが普通に懸垂や腕立てができる人なら、簡単に手を膝から上げることができるはずです。そのようにして少し相手の手を浮かせてやると、相手は不安定さから逃れるために途中から自分で勝手に立ち上がってしまいます。これを、理屈を知らない人が見たらずいぶん感心してくれるかもしれませんが、普通に考えれば何も不思議はありません。腕立て伏せではなく中腰や正座だったらなおさら軽いものです。要するに、人は簡単に浮くのです。ま、あくまでも遊びです。

 


105≫ 剣の理合と言うけれど

2009-07-14 12:50:09 | インポート

 合気道の理合は剣の理合と同じだと言われます。それを説明するとき、合気道で錬った体で剣を持てば合気剣になるという言い方をします。しかし、杖を持てば合気杖であるとも言いますから、それなら合気道は杖の理合と言ってもいいわけですが、そうは言いません。

 辞書によれば理合とは、わけあい、理由、道理というふうに説明されています。ということは、理合とは理屈、考え方のことであって、動き方そのものを指すわけではないということになります。

 ですが、合気道で剣の理合をとりあげる場合、大方は、合気道の動きで剣も扱えると言っているにすぎません。そもそもヒトの動きなんて、何をするにしろ同じような関節を同じように動かすのですから、動きが共通だからといって理合が同じだということにはなりません。たとえば鍬をふるっている人や掃除機を使っている人を見て、動きが似ているから剣術や槍術に通じるなんて普通は考えません。ところが合気道において、それに似たようなことが《剣の理合》という一言で許されるとしたら、そうとう脳天気だと思いませんか。

 伝統武術のなかでも、いわゆる総合武術といわれる流派においては、武器技や柔術などを並修するなかで各種技法の統合や連携を実現させています。ただしその場合でも、体の遣い方が同じということであって、理合の共通化といったことはあまり耳にしません(一部の優れた武術家は傾聴に値すべき理論を主張しておられますが)。もちろん、特に理合を意識しないまま技法に収斂されているといったことはあり得るでしょう。しかし《理屈》ですから、やはり意識されないことには、同じとも違うとも検討のしようがないわけです。

 さてそれでは、いったい何をもって理合が同じと(開祖は)おっしゃったのでしょう。思うに、剣の理合とは《触れれば斬れる》ということではないでしょうか。そのことを前提に技を組み立て、技を磨くことが大切だという教えではないかと思うのです。

 一般的に、現在の合気道は掴むことにこだわりすぎていると感じられます。受けは掴んだ手を離さないのだという仕組みに、取り、受け双方がなんの疑問も抱かずに技が進行していきます。そのような稽古方法にも大いに意味はありますから、一概に否定するものではありませんが、その場合、意味や仕組みをよく理解して行うことが大切ではないかと思うのです。

 受けに掴ませて技を施す稽古法は、いわゆる虚の稽古であり鍛錬法として意味があるのであって、触れた途端に勝負が決まるというような剣の理合からは大分離れたところにあるということは理解しておく必要があります。

 さて、このブログで再三述べているように、受けを振り回すような技法をわたしは好みません。また、力まかせでもなんでもとにかく受けを畳に押さえつければよいというようなやり方や、間合いの内で平気で相手にこちらの正面をさらけ出すような体捌きも、とても受け容れられません。それらはつまり剣の理合に適わないからです(それをわかっていて、何らかの目的のためにあえてそうする分には良いのです)。

 結局、合気道における剣の理合というのは、そのような、合気道が合気道であるための(武術であるための)基本的条件といったかたちで表されるもので、単に剣を振り回すことが理合の共通性を物語るわけではないということを申し上げておきたいと思います。

 大先生は合気道は当身が七分とおっしゃったそうですが、合気道開祖として、この言葉は大きな、あるいは複数の意味を持たせて発言されたのではないでしょうか。だいたい、柔術系の体術であると思われている合気道で、当身が優先するような発言は、へたをすれば流儀の存続を脅かしかねません。しかし、そう言わざるを得ない特質を合気道が持っているとすれば、それこそが隠された真実であろうと思われます。

 《当身が七分》、これがすなわち触れれば斬れる《剣の理合》なのでありましょう。自分からは当てることのできる位置に、相手からは当てられない位置に身を置くようにしなさいということで、おそらくこれを忠実に行おうとしたのが故西尾昭二先生です。

 それについて、わが師黒岩洋志雄先生は『相手に打たれるところまで入っていかないと、こちらも打てない』とおっしゃっていますが、これは(危険領域である)間境を越える稽古や経験をたくさんされた方のご発言であり、簡単にマネのできることではないように感じます(バックナンバー⑨もう一つ 2007/3/16)。先生にとっては当身七分どころではないのかもしれません。

 蛇足ですが、今回の文章を書くにあたって、過去のブログを読み返していたところ、文意の力点は違いますが、同じようなことを述べている回がありました。意外にぶれてないなと思った半面、なんと進歩のないことかと、やや情けなく思いました。