このブログで好き勝手なことを言わせていただいている者として、あらためて自分の考えやそれにもとづく技法を整理しておきたいと思います。つまり、自分の素性や立ち位置を、以前の記事なども紹介しながら明らかにしておこうということです。
わたしが合気道の門に入ってかれこれ40年を超えました。その間に教えを賜った先生方や、ともに切磋琢磨するなかで上達の手助けをしてくださった道友には感謝の念でいっぱいです。とりわけ大きな影響を受けたのが一昨年に逝去された黒岩洋志雄先生です。わたしの技法や理論の多くは黒岩先生の教えをベースにしていますので、まずはそれをお示ししておきましょう。
それは大きくは次の2点です。
1) 一般に知られているのは『虚』の技法であり、その陰に『実』の技法がある
【 参考 : 15≫ 《ウソ》
http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/19/index.html 】
2) 合気道技法はヨコの崩しかタテの崩しを含む
【 参考 : 7≫ 名前
http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/09/index.html 】
【 参考 : 8≫ 四方八方
http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/13/index.html 】
と、まあこんな簡単なことなのです。
黒岩先生は形而上的なことはあまりおっしゃらなかった方で、『気』についても語ることはほとんどありませんでした。あえてわたしが『気』とはどんなものかと伺った時のお答えが『気は自分の都合で出したり引っ込めたりするようなものではなく、修練の程度に合わせて自ずと顕れるものです』ということでした。大正末年頃(14年春とか)、開祖植芝盛平先生(大先生)が黄金の気に包まれ、ご自身が黄金体になったという体験をされたのも、そのように望んだからではなく普段の修練の結果として顕れたものです。
それはそれとして、上に示したような技法を展開すると、普通に知られている動きとはいささか異なったものになります。それが、言うなれば黒岩式ということになるのでしょう。このブログでもなんとか理解していただけるように解説してきているつもりですが、しかし、わたしの文章力の限界もあり、また映像を用いても、結局直に説明しないことには本当のところはわかっていただけないのではないかと最近は感じています。それで拙いながらも講習会を催したりしているわけですが、なにしろ東北の片田舎ですから、皆さんおいで下さいとはなかなかいかないのが現実です。
黒岩先生は話好きでしたので、学生時分からいろいろ興味深い話を伺いましたが、そのほとんどはご自分の経験談か技法に関するものでした。世間一般で考えられているような意味での高尚な話というのはあまり聞いた記憶がありません。しかし口調や表情など、いわゆる佇まいそのものが人格というのか人間性を表していて、合気道精神そのものを体現しているように思われました。それは最晩年まで変わらず、孫のような年ごろの学生にも、名前は『さん』づけで呼んでおられた一事からもわかります。わたしも、先生を真似るのならそういうところを真似ればいいのでしょうがね。
しかし、黒岩式合気道技法はそのような好々爺然としたお人柄からは想像しにくい実戦的なものです。
【 参考 : 146≫ 実戦論
http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2011/01/17/index.html 】
実戦という表現を使うとなにか殺伐とした状況を想像しますが、これは武道である以上どうしても引き受けなければならない観念です。武道の、それがそもそもの出自だからです。それを考えない武道というのはありえません。しかし現代において、それが究極の目的でないことは明らかです。殺伐たる技術を人の生きる道にまで高めた先人に敬意をはらわなければなりません。
ところで、黄金体験をされた大先生の後半生は多分に宗教的雰囲気をまとっておられたようですが、黒岩先生のお話を伺うと、どうもそれだけの理解では、わたしたちはまんまと大先生の策略に乗せられてしまっているのではないかという気がします。大先生の説かれた合気道の教えは崇高で、時に難解なものです。しかし、それは頭で理解しようとするとそうなのであって、わたしたちはひたすら動きに動いて大先生のおっしゃる宇宙の経綸なるものにつながれば良いのでしょう。
大先生は戦前、周囲の希望により制敵技法としての合気道を軍人たちに指導されましたが、後年それを悔やんでおられたようです。愚かな者がこれを悪用すればせっかくの神武がかえって世を汚す手段に成り果てるというご心配があったのでしょう。ただ、これを逆に見れば、合気道にはそれだけの実戦性が隠されているということです。戦後は愛と和合を合言葉に現代武道としての地歩を築いてきた合気道ですが、武道本来の技法を練磨することが結局は大先生の思いに適うのでしょうし、そうであらねばならないのだと思います。
そういう意味では、あえて思想性を引きずらない黒岩式合気道はかえって真理に近いと言えるのではないかと思っています。
つづく