合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

171≫ わたしの立ち位置 Ⅰ

2012-01-23 13:56:12 | インポート

 このブログで好き勝手なことを言わせていただいている者として、あらためて自分の考えやそれにもとづく技法を整理しておきたいと思います。つまり、自分の素性や立ち位置を、以前の記事なども紹介しながら明らかにしておこうということです。

 わたしが合気道の門に入ってかれこれ40年を超えました。その間に教えを賜った先生方や、ともに切磋琢磨するなかで上達の手助けをしてくださった道友には感謝の念でいっぱいです。とりわけ大きな影響を受けたのが一昨年に逝去された黒岩洋志雄先生です。わたしの技法や理論の多くは黒岩先生の教えをベースにしていますので、まずはそれをお示ししておきましょう。

 それは大きくは次の2点です。

 1) 一般に知られているのは『虚』の技法であり、その陰に『実』の技法がある

    【 参考 : 15≫ 《ウソ》

    http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/19/index.html 】

 2) 合気道技法はヨコの崩しかタテの崩しを含む 

    【 参考 : 7≫ 名前

    http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/09/index.html 】

    【 参考 :   8≫ 四方八方

    http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/13/index.html 】

と、まあこんな簡単なことなのです。

 黒岩先生は形而上的なことはあまりおっしゃらなかった方で、『気』についても語ることはほとんどありませんでした。あえてわたしが『気』とはどんなものかと伺った時のお答えが『気は自分の都合で出したり引っ込めたりするようなものではなく、修練の程度に合わせて自ずと顕れるものです』ということでした。大正末年頃(14年春とか)、開祖植芝盛平先生(大先生)が黄金の気に包まれ、ご自身が黄金体になったという体験をされたのも、そのように望んだからではなく普段の修練の結果として顕れたものです。

 それはそれとして、上に示したような技法を展開すると、普通に知られている動きとはいささか異なったものになります。それが、言うなれば黒岩式ということになるのでしょう。このブログでもなんとか理解していただけるように解説してきているつもりですが、しかし、わたしの文章力の限界もあり、また映像を用いても、結局直に説明しないことには本当のところはわかっていただけないのではないかと最近は感じています。それで拙いながらも講習会を催したりしているわけですが、なにしろ東北の片田舎ですから、皆さんおいで下さいとはなかなかいかないのが現実です。

 黒岩先生は話好きでしたので、学生時分からいろいろ興味深い話を伺いましたが、そのほとんどはご自分の経験談か技法に関するものでした。世間一般で考えられているような意味での高尚な話というのはあまり聞いた記憶がありません。しかし口調や表情など、いわゆる佇まいそのものが人格というのか人間性を表していて、合気道精神そのものを体現しているように思われました。それは最晩年まで変わらず、孫のような年ごろの学生にも、名前は『さん』づけで呼んでおられた一事からもわかります。わたしも、先生を真似るのならそういうところを真似ればいいのでしょうがね。

 しかし、黒岩式合気道技法はそのような好々爺然としたお人柄からは想像しにくい実戦的なものです。

   【 参考 : 146≫ 実戦論

   http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2011/01/17/index.html 】

 実戦という表現を使うとなにか殺伐とした状況を想像しますが、これは武道である以上どうしても引き受けなければならない観念です。武道の、それがそもそもの出自だからです。それを考えない武道というのはありえません。しかし現代において、それが究極の目的でないことは明らかです。殺伐たる技術を人の生きる道にまで高めた先人に敬意をはらわなければなりません。

 ところで、黄金体験をされた大先生の後半生は多分に宗教的雰囲気をまとっておられたようですが、黒岩先生のお話を伺うと、どうもそれだけの理解では、わたしたちはまんまと大先生の策略に乗せられてしまっているのではないかという気がします。大先生の説かれた合気道の教えは崇高で、時に難解なものです。しかし、それは頭で理解しようとするとそうなのであって、わたしたちはひたすら動きに動いて大先生のおっしゃる宇宙の経綸なるものにつながれば良いのでしょう。

 大先生は戦前、周囲の希望により制敵技法としての合気道を軍人たちに指導されましたが、後年それを悔やんでおられたようです。愚かな者がこれを悪用すればせっかくの神武がかえって世を汚す手段に成り果てるというご心配があったのでしょう。ただ、これを逆に見れば、合気道にはそれだけの実戦性が隠されているということです。戦後は愛と和合を合言葉に現代武道としての地歩を築いてきた合気道ですが、武道本来の技法を練磨することが結局は大先生の思いに適うのでしょうし、そうであらねばならないのだと思います。

 そういう意味では、あえて思想性を引きずらない黒岩式合気道はかえって真理に近いと言えるのではないかと思っています。

つづく

 

   


170≫ それでも初春

2012-01-08 14:22:09 | インポート

 七日の松があけました。皆様、お元気で新年を迎えられたことと存じます。今年も本ブログでの意見交流を通じて、人間として、また合気道家としての見識を高められたら嬉しく思います。

 さて、震災から10ヶ月、いまだに困難の只中にある方たちのことを考えると、さすがにおめでとうとは申し上げにくいのですが、困っていない人までが歩みを止める必要はありません。むしろより力強い一歩を進めることが今の日本には大切です。そのための覚悟をこそ求められているのではないでしょうか。

 当地では、いまも毎日のニュースに何らかのかたちで被災地の様子が紹介されています。かれら被災者は力を振りしぼって立ち上がろうとしています。どうぞ引き続きお心をお寄せくださいますようお願いいたします。

 しかるに、本邦の政治家は神武建国以来最低最悪といえるほどの無能ぶりをさらけだしています。様々な課題を処理できず、国のあちこちで不協和音が鳴り響いていることは皆さんご存知のとおりです。また、その無能ぶりは外交にも申し分なく発揮され、あらゆる局面で国家の主権と国民の誇りをおおいに傷つけています。

 そういう政治家を選んだ国民にも責任がある、なんていうのはいかにも一理ありそうですが、終戦直後の一億総懺悔と同じで責任の所在を曖昧にする詭弁でしかありません。彼らはリーダーたらんと自分で手をあげたのです。その結果が栄誉ではなく批判だったとしても、それは彼らの責任です。わたしたちはもっと怒ってよいのです。

 また、一流と思われる企業家や学者も、あるいはまた官僚も、この国家的危機において『バカじゃないのか』と思うしかない体たらくで、まことに情けない限りです。そんなわけで、日本人はもっと潔く賢い民族だと思ってきたのですが、定義を変えないといけないようです。根幹となる教育が誤っていたということに気づかないといけません。

 幸い、わたしたちの進むべき道、とるべき方法はとうの昔に大先生がお示しになっています。かいつまんで言えば、宇宙の真理に則った合気道こそ世界の平和と心の安寧をもたらす極意の技であり、その稽古に励むことは自分自身が宇宙の中心に立つこと、世界をより良い方向に導くことと同義であるということです。

 どうしてそう言えるのか、その教えを科学的に証明できるのかという疑問や試みは現代人の悪癖です。ここは素直に教えに従えばよろしい。大先生の教えは難しくてなかなかわかりにくいものです。わたしも、そのすべてをわかろうとは考えていませんが、ひとつわかったことがあります。それは、大先生は時間としての『今』と主体者の『個』ということを大事に考えておられるということです。現に生きているこのわたしたちの生身の体にこそ神が宿っているとおっしゃっていることからそれは明らかです。理想や希望は遠くにあるのではない、今ここに、一人びとりの内にあるということです。そういうことですから、困難の時代であるいまこそ合気道家の器量が試されるときではないでしょうか。もちろん、政治家になろうなどという話ではありません。自分の生き方を通じて合気道精神を発揮しようということです。

 閑話休題、昨日、当会の稽古始めをささやかに少人数でおこないました。この時季になると思い出すのが、40年近くも前、道場の隅っこでストーブを挟んでわが師 黒岩洋志雄先生が淹れてくださったインスタントコーヒーをすすりながら聞く合気道談義です。このブログを始めようと思ったのも、そこでの話を多くの方に伝えたいと考えたからでした。見返してみると第1回が2007年2月のことで、それから数えてそろそろまる5年になろうとしています。

 本ブログは若干長めの文章で特段の工夫もなく、その内容もいささか偏っており、興味のない方には本当にどうでもよい内容であると自認しております。それでも飽きずにお付き合いいただいている皆様には心から感謝申し上げます。

 ところで、本ブログのリードというのかイントロというのか、とにかくタイトルに続く部分に、『初回から通して読んでいただくと趣旨がわかる』というような意味合いのことを書いています。それは確かにそうなのですけれど、ここまで回を重ねると途中から読み始めてくださった方にとってはそれは単なる負担でしかないでしょう。

 それで、あらためて合気道に関してのわたしの考えや技法等、すなわち立ち位置を明らかにすることが必要かもしれません。そのために、これまで掲載してきた文章から重要と思われる部分を抜き出し、若干手を加えて要約し、何回かに分けて再掲示したいと思います。全編お読みいただいている方にとっても何かあらたなメッセージをお届けしますので、どうぞお付き合いください。

 もっとも、頼まれもしないのに何を好んで合気道の価値を声高に叫ぶ必要があるのかと思う人もいるでしょう。その方には次のような新聞記事をご紹介します。

 昨年末の12月24日の朝日新聞の読者投稿欄に、医師で某大学柔道部の指導者と称する人が中学校での武道教育導入に関し意見を述べていました。その論旨の中心は、安全のため、事故を惹き起こしやすい乱取りをしないことを提言するものでした。わたしもその論には賛成です。武道というのは一撃必殺の可能性を秘めた技法体系ですから一般の生徒にすべてを求めるのはそもそも無理なのです。そのために教授法を工夫するのは当然です。事実、わたしが高校や大学の授業で習った柔道での乱取りは、高校では細則にもとづいた能力別、大学では立ち技なしという制限付きでした。すでにそういう前例があるのに今ごろ安全策が論じられるというのも間の抜けた話ですし、投稿者の指摘を待つまでもなく文科省もそれくらいのことは事前に協議しておくべきです。

 しかしそれ以上にわたしの関心を引いたのは、その論者の武道認識です。かれが乱取りなしの柔道の安全性を表現するとき、『合気道やダンスのように』と評していたことです。通常の稽古を想定しての安全性に限って言えばたしかに大きく間違ってはいません。でもそれだけでは読者に対し、合気道やダンスに関して間違ったイメージを抱かせかねません。ダンサーの身体能力にも合気道の実力にも言及しない、あるいは知らない、柔道指導者でさえもそれが通常の認識なのです。一般の方の認識もまあそれと大差ないのではないでしょうか。

 先に述べたように、世界の建て直しに合気道の果たすべき役割は大きいとわたしは思っています。多くの方にその意義をわかっていただきたい、そのためにはわたしたち合気道家自身が合気道をよく理解していなければならないでしょう。そのために蟷螂の斧でも振るう馬鹿者がいてもいいじゃないか、それが本ブログの役目かもしれないと、そういうことです。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。