合気道には決まったカタがあるのに、実際は十人十色で、これが同じ合気道かと思うほどですが、本人が満足であれば、それはそれでいいのだと思います。ですから、頼まれもしないのに自分流の技の施し方などを親切のつもりで他人に教えるなんていうのは、ホントお節介もいいところなのです。斯く言うわたしもその中の一人ですが。
それを重々承知の上で、今回は各技が孕む不条理性について考えてみます(わたしは重要だと思っていますが、ひとによってはどうでもいいこと)。
黒岩先生のお話では、大先生は『正面打ち一教の表はできない。やるなら裏』とおっしゃっていたそうです。これは、一教に限らず、無造作に相手の正面に出て行ってはいけないという教えだと思います。それでも、どうしてもやらなければいけない時は、自分のほうから打っていくのだと教えて頂いたとのことです。たしかに現在もそのように指導しておられる師範方がいらっしゃいます。でも、この話の一番のポイントは、大先生は一教表は《難しい》と言ったのではなく、《できない》と言ったことなのです。
そしてもうひとつ。大先生は『いまどき、手刀を振りかぶって頭めがけて打ってくる者はいない』とも言っておられたそうです。そして、『今はこうだ』とやって見せてくれたのが、ほとんどボクシングのストレートような顔面へのパンチだったそうです。
そういうことからすると、わたしたちが基本中の基本だと信じて疑わない《正面打ち一教表技》というのは、実現可能性のごく低い幻の秘技だということですね。それでも毎回、繰り返し繰り返し稽古することの意義は、これまで多少述べてきましたが、結局のところは、皆さんがそれぞれ判断されるべきものと考えます。
お次は四方投げ。これも代表的な基本技ですが、相手の腋の下をくぐるというのは、実に窮屈なものです。大先生はじめ武田惣角氏、塩田剛三先生などこの世界で名人、達人といわれる方はみんな背が低いですよね。だから相手の腋の下をくぐるような技を重要技として伝承してこられたというのは、うがちすぎでしょうか。開祖が身の丈6尺豊かな人だったら、一番に捨ててしまったのではないかとわたしは思っています。
それでも、現実に基本技としてある以上、なんとか工夫してこなしていかないといけません。要するに、自分が低く入っていくしかないのです。ですから、一般的な教本にあるように《手刀を振りかぶって》はいけないのです。それでは自分が倒されるか、相手もいっしょにくるりと回ったら技が成立しません。よく、刀を使って四方投げの動きを表すことがあります。普通は正眼の構えから突きを繰り出し、刀はそのままに体は右回りに振り返り、そこから大きく斬り下げるように指導されます。これがよくないのです。これではどうしても両手を頭上に振りかぶってしまいます。黒岩先生は、四方投げは抜き打ちだと説明しておられます。居合のように、相手の振りかぶりに合わせて横に抜刀し胴を払ってしまうのです。あとはゆっくり振り向いて相手の首筋に刀を添えるようにします。このやり方なら大きく振りかぶることはありません。これが徒手なら、くぐる時は自分の手の甲が額に着くくらいまでしか上げません。
そして入り身投げです。これは大きく動くと見栄えがいいので、どうしても受けを振り回してしまいがちですが、しかしそれはやはり演武用と考えるべきでしょう。とにかく、きちんと崩さないと人は倒れません。くるくる回っただけではだめなのです。黒岩先生は、通常の入り身投げにおいて、不用意に喉へ腕をかけては、相手が柔道家なら一本背負いを食ってしまうと言っておられます。そのための工夫も教えていただきましたが、わたしにはそれを正しく伝えるだけの文章力もありませんし、不正確なものは言わないほうがまだましなので、これだけにしておきますが、とにかく他の武道家に見られても恥ずかしくない動きができるまでは人前にさらさないほうが賢明だと思っています(そうすると一生演武ができないことになってしまいますが)。
考えてみれば、このブログなんてものも、誰に頼まれたわけでもない、原稿料が入るわけでもないのにせっせと書き溜めていくわけで、我が事ながら、物好き、暇人を絵に描いたようなものです。こういうのをお節介というのです。