合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

⑯ 不条理

2007-04-26 12:51:11 | インポート

 合気道には決まったカタがあるのに、実際は十人十色で、これが同じ合気道かと思うほどですが、本人が満足であれば、それはそれでいいのだと思います。ですから、頼まれもしないのに自分流の技の施し方などを親切のつもりで他人に教えるなんていうのは、ホントお節介もいいところなのです。斯く言うわたしもその中の一人ですが。

 それを重々承知の上で、今回は各技が孕む不条理性について考えてみます(わたしは重要だと思っていますが、ひとによってはどうでもいいこと)。

 黒岩先生のお話では、大先生は『正面打ち一教の表はできない。やるなら裏』とおっしゃっていたそうです。これは、一教に限らず、無造作に相手の正面に出て行ってはいけないという教えだと思います。それでも、どうしてもやらなければいけない時は、自分のほうから打っていくのだと教えて頂いたとのことです。たしかに現在もそのように指導しておられる師範方がいらっしゃいます。でも、この話の一番のポイントは、大先生は一教表は《難しい》と言ったのではなく、《できない》と言ったことなのです。

 そしてもうひとつ。大先生は『いまどき、手刀を振りかぶって頭めがけて打ってくる者はいない』とも言っておられたそうです。そして、『今はこうだ』とやって見せてくれたのが、ほとんどボクシングのストレートような顔面へのパンチだったそうです。

 そういうことからすると、わたしたちが基本中の基本だと信じて疑わない《正面打ち一教表技》というのは、実現可能性のごく低い幻の秘技だということですね。それでも毎回、繰り返し繰り返し稽古することの意義は、これまで多少述べてきましたが、結局のところは、皆さんがそれぞれ判断されるべきものと考えます。

 お次は四方投げ。これも代表的な基本技ですが、相手の腋の下をくぐるというのは、実に窮屈なものです。大先生はじめ武田惣角氏、塩田剛三先生などこの世界で名人、達人といわれる方はみんな背が低いですよね。だから相手の腋の下をくぐるような技を重要技として伝承してこられたというのは、うがちすぎでしょうか。開祖が身の丈6尺豊かな人だったら、一番に捨ててしまったのではないかとわたしは思っています。

 それでも、現実に基本技としてある以上、なんとか工夫してこなしていかないといけません。要するに、自分が低く入っていくしかないのです。ですから、一般的な教本にあるように《手刀を振りかぶって》はいけないのです。それでは自分が倒されるか、相手もいっしょにくるりと回ったら技が成立しません。よく、刀を使って四方投げの動きを表すことがあります。普通は正眼の構えから突きを繰り出し、刀はそのままに体は右回りに振り返り、そこから大きく斬り下げるように指導されます。これがよくないのです。これではどうしても両手を頭上に振りかぶってしまいます。黒岩先生は、四方投げは抜き打ちだと説明しておられます。居合のように、相手の振りかぶりに合わせて横に抜刀し胴を払ってしまうのです。あとはゆっくり振り向いて相手の首筋に刀を添えるようにします。このやり方なら大きく振りかぶることはありません。これが徒手なら、くぐる時は自分の手の甲が額に着くくらいまでしか上げません。

 そして入り身投げです。これは大きく動くと見栄えがいいので、どうしても受けを振り回してしまいがちですが、しかしそれはやはり演武用と考えるべきでしょう。とにかく、きちんと崩さないと人は倒れません。くるくる回っただけではだめなのです。黒岩先生は、通常の入り身投げにおいて、不用意に喉へ腕をかけては、相手が柔道家なら一本背負いを食ってしまうと言っておられます。そのための工夫も教えていただきましたが、わたしにはそれを正しく伝えるだけの文章力もありませんし、不正確なものは言わないほうがまだましなので、これだけにしておきますが、とにかく他の武道家に見られても恥ずかしくない動きができるまでは人前にさらさないほうが賢明だと思っています(そうすると一生演武ができないことになってしまいますが)。

 考えてみれば、このブログなんてものも、誰に頼まれたわけでもない、原稿料が入るわけでもないのにせっせと書き溜めていくわけで、我が事ながら、物好き、暇人を絵に描いたようなものです。こういうのをお節介というのです。


⑮ 《ウソ》

2007-04-19 18:20:23 | インポート

 黒岩先生は入門三日目にして『合気道の稽古ではウソを教えているんだ』と看破しました。

 『え、じゃ、わたしたちはウソを習うために月謝を払っているの?』

 はい、その通りです。

 合気道の普段の稽古で、片手取りなどは、相手に手を掴んでもらって技をかけていきます。そのとき転換などの体捌きをすると、受けは掴んだ手が離れないように必死になってついてきます。手を離すと先生に注意されます。でも、普通の人は手を離しますよね、振り回されるのイヤだから。

 これは、受けを導くというふうに説明されることが多いようですが、《⑪ 空間》の稿で言った通り、合気道の稽古は相手と同調しつつ武道的空間を共に創造する作業なのですから、双方の立場は平等で、一方が牽引するようなものではありません(端的に言えば、受けが拒否したら何もできません)。

 転換で受けがついてくる必然性のひとつの解釈として、取りが抜刀しようと柄に右手をかけたところを受けが手首を掴んで阻止する場合があげられます。取りは転換することによって刀を抜こうとし、受けは抜かせまいとさらに回りこんでついて行くという筋書きです(最後は腰を切って抜刀し払い斬りします)。これは、やってみるとなかなかカッコいいのですが、あまりにも状況が限定され過ぎていて、重要な体捌きの存在理由としては弱いと言わざるを得ません。

 もうひとつは、受けが取りの手を離したら、取りがその手で打ってくるから離せないという考え方もありますが、これは受けが離そうと思うのと、取りが離れたと感じるのと、どちらが早いかを考えれば成り立たない理屈であることは明白です。手を離して打たれるくらいなら自分から先に打っていけばいいわけですから。

 そもそも、片手を取りにいくのは、相手の動きを制した上でもう一方の手で打ち込むためだというのが伝統的解釈です。だから掴まれたほうは転換して攻撃を避けるわけです。しかも、掴まれた手を切り離す技術、いわゆる手解き(てほどき)をするのです。したがって、掴んだほうがついて行くということはありません。

 さて、それでは転換で受けがついて行く本当の理由は何でしょう。まず、本来の動きはずっと小さいものです。たがいの前腕が近付く程度、移動距離も数十cmです。二人の腕をつないだ長さが回転半径になるような、あんな大きな動きではありません(あれは演武用です。足腰の鍛錬にはいいでしょう)。そして、これが一番肝心なところですが、相手の手首を掴むのは、本当は受けではなく取りなのです。取りが受けの手首を掴んで転換しながら、相手を前方に押し出し、バランスを崩してやるのです(相撲の出し投げをイメージしてください)。この場合、受けは取りについて行ってるわけではなく、前に押し出されて崩れた体勢を立て直しているのです。まあ、掴まれているんだからしょうがないわけですが。

 ここまで説明したところで、合気道を虚実(辞書では《うそとまこと》と書いてあるものもありますね)で表現します。受けに手を掴んでもらい、そこから押さえたり投げたりする稽古は《虚》の稽古で、取りが自分から相手を掴みにいって技をしかけていくのが《実》の稽古です。

 黒岩先生は、戦前に陸軍戸山学校で大先生の指導を受けた方に、当時の様子を尋ねたことがありました。そのころの大先生は、自分から前に出て、掴んでは投げ掴んでは投げというやり方をしておられたと聞いて、やっぱり予想していた通りだと納得したそうです。これが実の稽古です。一部の達人志向の方のように、腕に氣が通っていれば手は離れないなどとは指導しておられなかったのです。

 一方、普段わたしたちがしているのは、虚の稽古ということになります。虚という表現はネガティブな印象を与えますが、もちろん虚の稽古にも利点があります。そうでなければいくらなんでも淘汰されてしまいますから。受けに手を掴んでもらってする稽古は、余計な力みがなく、正しい動きを身に付けるのに有効です。また、武術本来のありかたとしては、外部の人に本当の姿を見せないで済むという理由があります。他人には虚の技を見せておくのです(弟子にさえ)。少なくとも大先生の時代までは、これは切実なことでした。

そういうわけで、《ウソ》とは虚の稽古のことです。ただしそれは真実にたどり着くための方便としてのウソです。それと表裏一体に実の稽古というものがあるのです(実際にやらなくてもいいですから、せめて知っているだけでも意味があります)。

 そういえば、《虚》の稽古を口先だけで正当化しようとすると《嘘》になるのですねぇ(わたしのことか?)。

 


⑭ 黒岩学校

2007-04-13 16:14:10 | インポート

 黒岩先生はいわゆる内弟子ではありませんでした。ご自宅から都電を乗り継いで通われたそうです。当時は、住み込みの人も単に道場に寝泊りしているというだけで、通いの弟子と異なる特別の稽古をつけてもらっているわけではなかったそうです。だいたい稽古者自体が少なく、本部道場といいながら、5,6人も集まれば、『きょうは人が多いな』という感じだったとお聞きしました。

 内弟子の方々の食事は、初めの頃は吉祥丸先生の奥様が世話をしてくださっていたようですが、人数が増えてきた頃から自分たちで作るようになったのだそうです。みんなお金がなかったので、ぎりぎりの生活をしておられたようです。近所の八百屋さんに行くと、野菜の切り落としやハネ物などを籠にいっぱいくれるのですが、それでも乞食ではないからと何円か置いてくるのだそうです。それを生でかじったり、自炊したりして食べるのです。あるとき、稽古の後に食べようと作っておいたご飯やおかずがきれいさっぱり無くなっていたことがありました。先輩格のA先生(これは匿名にしておきましょう)が全部食べてしまったのです。それ以後、見張りがつくようになったということです(料理にかA先生にかは聞きそびれました)。

 また、当時は道場破りを警戒して、内弟子の中には、布団に木刀を忍ばせて寝ている者もいたということです。どうにもならない時は噛みついて離さないくらいの気概はあったようです。昭和30年頃は奥村繁信先生が三段で、あとはせいぜい初段程度のへなちょこ合気(黒岩先生談)だったので、逆に技にこだわらず、どんなことをしても勝たねばならないと覚悟をきめていたのでしょう。

 前にもお話した通り、そのころ、大先生はたまに来られて、一回だけ技を見せて、すぐいなくなってしまうので、お弟子さん方は技を覚えるのにずいぶん苦労されたようです。しかし、そんな中で黒岩先生は見取り稽古の能力が高かったらしく、技の手順とその意味するところが一見で理解でき、稽古仲間に教えてあげることがしばしばだったようです。そのようなことが続くうちに、誰言うとなく《黒岩学校》と名づけられ、定時の稽古時間以外に黒岩先生を中心に据えた自主稽古会が開かれるようになっていきました。黒岩先生が道場に来る日に合わせて、みんな集まってきたそうです。通いの弟子が内弟子に教えるという、なんとも面白い状況でした。

 一回見てすぐ理解できるということで思い出したのですが、わたしはだいぶ以前に、『合気道の技の意味をわかるには最低一年くらいはかかりますね』と先生に尋ねたことがあります。そのとき『そういうのはせめて一週間でわからないとモノにならないですよ。わたしは入門三日目でわかっちゃいましたから。合気道はウソを教えているんだってことをね。それに気づかない人は何年やってもダメです。』と先生から聞いて唖然としたことがあります(ウソの意味は稿を改めてお話します)。

 いずれにしろ、ひとの動きというものは、掴むにしろ殴るにしろ、ある種の共通するパターンに則って展開されるものです。それを瞬時につかんでしまうのが見取り能力で、手先や足先だけを個別に見ていてもわからないことがあるのです。それで、その共通項に気づくために、武道や格闘技でなくてもいいからなにか他のスポーツもやってみたほうが良いと先生はおっしゃっています。

 黒岩先生の技術論は独特であると同時に本質的であり、合気道が武道であり続けるために是非留意すべき事柄だと思っていますが、その始まりは黒岩学校にあったのです。ともあれ、そういう人たちが、各地にいくつかでき始めた道場に指導員として派遣されたのだそうです。四方投げを教えてもらい一週間くらい稽古して、こんどは自分が教えに行くのです。それ以外の技は知らないので、それ一つだけ。度胸はたいしたものです。さすが直弟子。


⑬ 力持ち

2007-04-06 16:37:53 | インポート

 合気道は力に頼らない武道だと言われますが、どうしてどうして大先生はじめ、お弟子さん方は力持ちが多かったようです。これも黒岩先生から伺った話です。

 今もお元気でご活躍の多田宏先生は、若かりし頃ご自宅の庭で鉄の棒や六角鍛錬棒を振り回したり、散歩といえばドーベルマン二匹を引き連れて歩くほどの壮気みなぎる方だったそうです。

 その力自慢の多田先生が、岩間で一ヶ月ほど大先生の身の回りのお世話をなさった時のこと。雨が降りそうなので、庭に積み重ねてある米俵を物置に取り込むようにと大先生から言いつけられました。やりかけの用事を済ませてからと思っているうちに雨が降り始めたので、あわてて米俵のところまで行ったら、既に大先生が両手に一俵ずつ、合計120kgをぶら下げて運んでいたということです。そのとき大先生は60代後半でした。

 大先生はまた、有川定輝先生ら弟子が4人がかりでも抜きかねていた桑の木を、ひとりで抜いてしまったこともあったそうです。

 力持ちといえば、フランスでご活躍の野呂昌道先生は、バネ式の握力鍛錬器具のバネを、一ヶ月にひとつは折ってしまうくらい常に握力を鍛えておられたということです。現実に道場破りがあった時代ですから、自分が受けて立つ時には、相手の腕をつかんだら骨(もちろん相手の)が折れるまで絶対離さないんだと言っておられたとか。

 さて、このての話ではやはり藤平光一先生にとどめを刺すようです。戦後、まだ闇米が幅をきかせていたころ、岩間から本部道場まで、両手のトランクに米をいっぱいに詰めて運んだことがあるそうです。重そうにトランクを持っていると怪しまれて検査されるので、駅の狭い改札口では、ヒョイと両手を肩の高さくらいまで上げ、空のトランクに見せかけて通り過ぎるのだそうです。そして、駅員の目につかない所まで行ってから、『ああ重かった』と言って下ろすようにしたということです。力もさることながら、その集中力はすごいものだと黒岩先生も感心しておられました。

 わたしの所属していたO道場の先輩Aさんは、道場に置いてあった40kgのバーベルを上下ではなく胸の高さで前後に動かしていました。こういう人たちを見ていると、合気道に力はいらないなんて、いったい誰が言ったんだと思いますよね。

 ところで、わたし自身は力持ちでもなんでもありません。父方も母方も、けっこう力持ちがいたのですが、わたしには遺伝しなかったようです。なにしろ高校2年くらいまでは祖父(母方の。そのころ70歳)に腕相撲で勝てなかったくらいですから。長年農作業で鍛えられた腕は、へ理屈ばっかりこねている高校生なんかではとてもかなわないほど強かったのです。それに我が家の仕事は建築関係でしたから、まわりは仕事で鍛えられた腕っ節の強い人だらけでした。

 そういえば高校時代、県の総合体育大会で、わが母校は柔道と相撲で優勝を飾りました。うちは普通の進学校で、他にもっと強そうな実業系の学校がたくさんあったんですけどね。わたしの学年だけ力持ちが集まっていたのかな。そんなこんなで腕力に関しては少々いじけていました。

 そんな具合ですから、高校の頃、クラスの仲間と腕相撲をしても、勝てるのは10人にひとりくらいのものでした。それが、大学に入って友人と腕相撲をしてみたら、こんどは負けるのが10人にひとりになってしまいました。わたし自身が急に強くなったわけでもないので、まわりが変わったのでしょう。昭和の田舎には、普段の生活で鍛えられた力持ちがいっぱいいたということです。