わたしが初めて合気道の門をくぐったのは40何年か前の大学一年のとき、O道場においてでした。その頃は主任師範として本部から奥村繁信先生がおいでになっており、その温厚なお人柄に接することができたのは幸せでした。
そのときの教えのひとつとして、『勝ちには三種類あり、下から順に、相手を殺して勝つこと、次がケガをさせて勝つこと、最も上等なのは無傷で取り押さえることで、合気道が目指すのはそれです』という講話がありました。そのときは、『あぁ、そういうものですか』という程度の理解でしたが、それが合気道の美徳であり、かつ最大の縛りでもあることに思い至ったのはそれからずいぶんたってからのことでした。
その間の意識の変化は同時に技法の変遷を伴います。最初は教えの通り無傷で押さえようと、各技の終末部分、つまり投げたり押さえたりという動作に意を用います。それを続けていくうちに、相手との出会い頭にうまく対処できなければ終末もくそもないのではないか、と思うようになります。そこで関心を持つのが当身や崩しです。たぶんわたしの現在地はこのあたりではないかと感じています。
ところがそれ(特に当身)は、相手にケガをさせたり場合によっては死に至らしめる可能性もある技法なので、合気道の理想とはだいぶかけ離れたものになる恐れがあります。合気道技法の習得とは、つまるところこの矛盾を克服できるかどうかに帰結します。しかもそれは修行者一人びとりの課題であるとともに、合気道のような武道の源流である柔術系武術それ自体の課題でもありました。
それらはそもそも生死を賭けた戦いのなかで、素手で戦わざるを得ない状況に対応するために発展してきたものです。後にそれが捕り手術として、今度は相手の命を奪うことなく制圧する技法として整備されます。ここが武器術との大きな差異で、一口に武術といっても、命を奪うか奪わないかでは勝ち口の方向性といいますか、ベクトルがまったく違います。
そう考えると、合気道の理合いは剣の理合いだといっても、一方は命を奪う技法、かたや奪わない技法で、どこに両者の接点(あるいは共通する領域)を求めるか、それを施術者ははっきり認識しておく必要があります。その接点というものは(共通する領域と考えれば)おそらくひとつではないでしょうから各人それぞれの判断があろうと思いますが、話の展開上わたしの考えを述べておくのが筋でしょう。
わたしの考える剣の理合いとは、最も単純化すれば《触れれば即ち斬れる》ということです。それは相手と接したその瞬間のことであり、そこをもって勝負ありとなります。ですから、合気道において剣の理合いを言うのであれば、片手取りであれ正面打ちであれその他なんであっても、相手と触れたその瞬間を最も重要な局面として取り扱わねばならないと、そう考えています。
そして、触れた瞬間を重視するためには、その前段としての間合いを意識する必要があります。以前にも述べたように、合気道の各技法は間合いの習得のために作られているようなものです。そこがわからないと、相手の手首をつかむというような、実戦ではあまり考えられない動作の意義がわからないでしょう。
以上が、理合いにおける合気道と剣との接点だというのがわたしの理解です。
さて、そうしたことの理解の上に、最終的には双方無傷で勝ちを収めるという最高のかたちを実現することになるのでしょうが、正直に言ってわたしはその道程の半分も行っていないようです。
ですが、この道のり、ちょっとだけ前が見えてきているような気もしています。何かわかったらまた報告いたしましょう。
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