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合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

247≫ 上等の勝ち口

2014-09-21 16:52:04 | インポート

 わたしが初めて合気道の門をくぐったのは40何年か前の大学一年のとき、道場においてでした。その頃は主任師範として本部から奥村繁信先生がおいでになっており、その温厚なお人柄に接することができたのは幸せでした。

 そのときの教えのひとつとして、『勝ちには三種類あり、下から順に、相手を殺して勝つこと、次がケガをさせて勝つこと、最も上等なのは無傷で取り押さえることで、合気道が目指すのはそれです』という講話がありました。そのときは、『あぁ、そういうものですか』という程度の理解でしたが、それが合気道の美徳であり、かつ最大の縛りでもあることに思い至ったのはそれからずいぶんたってからのことでした。

 その間の意識の変化は同時に技法の変遷を伴います。最初は教えの通り無傷で押さえようと、各技の終末部分、つまり投げたり押さえたりという動作に意を用います。それを続けていくうちに、相手との出会い頭にうまく対処できなければ終末もくそもないのではないか、と思うようになります。そこで関心を持つのが当身や崩しです。たぶんわたしの現在地はこのあたりではないかと感じています。

 ところがそれ(特に当身)は、相手にケガをさせたり場合によっては死に至らしめる可能性もある技法なので、合気道の理想とはだいぶかけ離れたものになる恐れがあります。合気道技法の習得とは、つまるところこの矛盾を克服できるかどうかに帰結します。しかもそれは修行者一人びとりの課題であるとともに、合気道のような武道の源流である柔術系武術それ自体の課題でもありました。

 それらはそもそも生死を賭けた戦いのなかで、素手で戦わざるを得ない状況に対応するために発展してきたものです。後にそれが捕り手術として、今度は相手の命を奪うことなく制圧する技法として整備されます。ここが武器術との大きな差異で、一口に武術といっても、命を奪うか奪わないかでは勝ち口の方向性といいますか、ベクトルがまったく違います。

 そう考えると、合気道の理合いは剣の理合いだといっても、一方は命を奪う技法、かたや奪わない技法で、どこに両者の接点(あるいは共通する領域)を求めるか、それを施術者ははっきり認識しておく必要があります。その接点というものは(共通する領域と考えれば)おそらくひとつではないでしょうから各人それぞれの判断があろうと思いますが、話の展開上わたしの考えを述べておくのが筋でしょう。

 わたしの考える剣の理合いとは、最も単純化すれば《触れれば即ち斬れる》ということです。それは相手と接したその瞬間のことであり、そこをもって勝負ありとなります。ですから、合気道において剣の理合いを言うのであれば、片手取りであれ正面打ちであれその他なんであっても、相手と触れたその瞬間を最も重要な局面として取り扱わねばならないと、そう考えています。

 そして、触れた瞬間を重視するためには、その前段としての間合いを意識する必要があります。以前にも述べたように、合気道の各技法は間合いの習得のために作られているようなものです。そこがわからないと、相手の手首をつかむというような、実戦ではあまり考えられない動作の意義がわからないでしょう。

 以上が、理合いにおける合気道と剣との接点だというのがわたしの理解です。

 さて、そうしたことの理解の上に、最終的には双方無傷で勝ちを収めるという最高のかたちを実現することになるのでしょうが、正直に言ってわたしはその道程の半分も行っていないようです。

 ですが、この道のり、ちょっとだけ前が見えてきているような気もしています。何かわかったらまた報告いたしましょう。

【お知らせ】

=第9回 特別講習会のご案内=

黒岩洋志雄先生の合気道理論に則った講習会を11月16日(日)に開催いたします。

詳細は《大崎合気会》ホームページをご覧ください。


246≫ 適応力

2014-09-08 12:26:22 | インポート

 このたび、当県合気道連盟主催の講習会・演武会があり、講習会ではわたしが講師を務めました。力足らずは自覚していますが、相対的に指導者数が少ない地方において、いろいろなスタイルの合気道があることを知っていただくためならわたしのような者が出しゃばることにも多少は意味があると考えお引き受けしたものです。
 
 当日は、黒岩洋志雄先生から教えていただいた松竹梅の剣と、その体捌きを用いた合気道技法を主にやってみました。ところで、これら松竹梅の剣の体捌き(足遣い)を最も忠実に体術に組み入れて表したのは、わたしの知る限りにおいては西尾昭二先生の遺された技法です。それで、松には横面うち四方投げ、竹には正面打ち一教、梅には突きの入り身投げというふうに採り上げました。ですので、40年ほども前に指導していただいた体遣いを展示、紹介し講習の材料として参加者に提供しました。

 参加者は普段それぞれの先生のもとで、それぞれに個性ある技法を稽古しているはずで、こちらが提供する、たとえば黒岩式、あるいは西尾式の動きには少なからぬ違和感を持つはずです。当然、多くの方はたどたどしい動きにならざるを得ませんし、それで結構なのです。講習で伝えるべきは、具体的、実際的動きではなく、その動きに含まれる意味、意義のようなもので、それなら教え、また教えられる価値があると思います。『なるほど、この技にはこういう意味があるのか』と受け止めてもらえれば講師冥利に尽きます。

 ところで、今回の参加者のなかで、こちらが要求した動きを忠実になぞろうとし、迷いながらも正確に技を展開しているグループがありました。技そのものは基本の技に分類されるものですから一通りこなすのは難しいことではありませんが、一番肝心の足運び(体捌き)は、普段の稽古では恐らくわたしのやり方とだいぶ異なる稽古法を採用しているはずで、技法の距離感という意味では他の道場と比べてもわたしとの差異が大きいはずです。
 そのグループの方々が、おそらくは初めて出会ったであろう技法展開にもかかわらず、うまく適応していたので、正直なところ驚きました。そのことを指導しておられるY氏に話したところ、『稽古では、ただ同じ動きを繰り返して条件反射的に身に付けるということよりも、動きや技、間合いの意味などを説明し、また考えてもらいながらの指導をしている』という趣旨の返答をいただきました。したがって、稽古生の方たちは普段から主体的に考え、しかも数をこなし、つまりは質と量を兼ね備えた稽古をしているということです。
 技法のスタイルは違いますが。稽古の考え方はまったくわたしと同じですし、メンバーの年齢構成が若い分、いずれ有望な合気道家がたくさん誕生するでしょう。

 そこでわかったのは、つまり、型あるいは約束稽古では技法の意味をしっかり理解しながら精確な動きを積み重ねることにより、経験したことのない動きにも柔軟に適応できる能力が養われているという事実であり、そのことはわたしがこれまで言ってきた《合気道には達人養成システムが組み込まれている》という、いまのところ私的な理屈でしかないものを実際に証明してくれる事例となるのではないかということです。というわけで、わたしは少々意を強くしています。

 もちろん達人というのは遥かかなたの目標で、そこにたどり着くには弛まざる鍛錬のほかに運も必要でしょう。何万人、何十万人にひとり行けるかどうかという境地ですから、まったく甘い話ではないのですが、しっかり目標が設定されていることで、いまやっていることの意味を常に認識させてくれますから、必ずや次へのステップアップに有効なはずです。

 ところで、正直なところ、合気道入門当初からわたしはどのような先生の指導を受けても下手は下手なりにすぐ対応できたのです。所属道場には何人もの先生が日替わりでおいでになっていて、指導してくださる先生の教えにできるだけ忠実に動くのが礼儀だとも思っていましたから、先生の動きを頭の中で映像化しそれをなぞって動くのはそれほど難しいことではありませんでしたし、だれでもそうしていると思っていました。しかし、いっしょに稽古している人の動きを見るにつけ、みんながみんなそのように動けるわけではないのだとわかってきました。むしろわたしは小器用というべきもので、それは別に褒められたことではないのかもしれません。稽古における正攻法とは、主体的に考えるという条件付で、正しい動きを愚直に積み重ねることに他ならないと今は思います。

 さて、そういうわけで、教えるつもりが教えられることもあり、こちらにとっても意義ある講習会だったと手前味噌なことを思っていますが、普段からもっと技法の交流ができる環境があると良いと感じています。とりわけ地方においては年に一回の演武会や講習会を除くと他道場ではどのような稽古をしているかわからないのが普通です。道場運営上の都合もあるでしょうが、将来の合気道界を担っていくべき人材が広い視野に立って、いろいろな価値観を知ることは貴重です。わたしはわたしのできる範囲でその役割を果たしていきたいと考えています。

 


245≫ 息長く

2014-08-22 14:08:24 | インポート

 広島での豪雨による土砂崩れでは多くの人命と財産を失いました。ご関係の皆様には謹んでお悔やみとお見舞いを申し上げます。

 土石流は時間がたっても水のように引いていくことはないので、捜索や復旧には大変な時間と手間がかかることと思います。これから先のご苦労がしのばれます。

 東北の地に住むわたしたちは東日本大震災の折には全国から慰労のお志を頂戴しましたので、今回の被災者の中にもわたしたちをご心配くださった方がたくさんいらっしゃるだろうと思うと、まったくもって他人事ではありません。

 当時を思い返してみて思うのは、情報を一番欲している人に情報が届かないというもどかしさです。震災の時もそうでしたが今回も、遠方の人たちはテレビ等で被害の様子がわかるのに、現地で大変な目にあっている人たちだけが災害の全体像を把握できていないという矛盾です。いたしかたのないことではありますが、そのようなことも含めて早急な援助を望むものです。

 また、岩手県の釜石沖で福島県のいわき港を母港とするサンマ漁船が火災を起こし、南三陸町と陸前高田市出身の乗組員二人が死亡しました。このお二人も船も、せっかくあの大地震と大津波の中を生き延びてきたのに、まことに残念なことです。

 そのように、わたしも含め大震災の被災地の人間は、社会の出来事に対し、どうしてもそれと関連付けて考える癖が身についてきました。それが、ひとの痛みをわが痛みとして感じることのできる人格の創生ととらえるなら、悲惨な出来事のもたらすささやかな置き土産といえるかもしれません。

 さて、合気道は愛の武道であると開祖はおっしゃいました。愛にはいろいろな意味があるでしょうが、その中のひとつがこの《ひとの痛みをわが痛みとする心》でありましょう。そのような同情心を惻隠の情といったりしますが、これはもともと人間に備わった感情であるといわれます。

 それは間違いないことでしょうが、その性向が一時的なものや上っ面なものではなく、ふかく心に留まるためには人生を通じての多くの生活体験が必要であるように思われます。年長者が敬われるべき対象であることの理由もそこにあるのでしょう。

 このように経験を積まないとできないこと、わからないことはたくさんあります。合気道修行も同じこと。体力まかせでがむしゃらに頑張っていた若いころの経験は貴重です。それはしかし、そのあとに続くじっくり息長い修行のための助走みたいなものです。

 走り幅跳びを思い浮かべてください。目的は跳ぶことであって走ることではありません。ただ、走らないことには遠くへ跳べません。目的と手段です。しかし、ときにはタイミングが合わず助走だけで終わってしまうひともあります。もったいないでしょう。

 合気道修行だってそうです。入門して何年か頑張って、ある程度動けるようになったのに何らかの事情で合気道を離れてしまうひとも少なからずいます。達人になれたかもしれないのにもったいないことです。だから《長くやらないとできないこと、わからないこと》があると言っているのです。

 わたしの場合、40年以上やってきてわかったことは、合気道は最強の武道であると同時に、それに裏打ちされた愛の武道であるという実感です。結局、大先生がおっしゃったことがわかるために40年以上かかったという、いささか情けない結論でしかありませんが、それでも能書きだけでなく実感としてつかむことができたことはありがたいことです。

 このブログを読んでくださっているのはわたしよりも若い方が多いと思います。ですので、少々先輩面して言うのをお許しいただければ、皆さんがまだ気づいていない宝のような技と理念が合気道にはたくさん隠されています。どうかそれを見つけてください、時間と経験をたっぷり積んで。


244≫ 補助理論という名の屁理屈 

2014-08-10 16:21:07 | インポート

 皆様ご存知の通り、このブログではその論点の基盤となるものの多くを永年ご指導いただいた黒岩洋志雄先生の合気道理論に置いています。ですから、なにかというと黒岩先生のお名前を出していますが、わたしもこう見えて(どう見えて?)歳だけは馬に喰わせるほど重ねていますから、いつまでも師匠頼りでもあるまいと思わないこともないのですが、まだまだ黒岩理論を超えるものは提起できていないというのが実情です。

 その黒岩理論を一言で表すと《科学合理性》ということに尽きるのではないかと思います。ここで言う科学合理性とは、ある一定の方法をたどれば誰がやっても何度やっても同じ結果を得られるという意味です。そこには恣意的解釈や曖昧さの余地はありません。さらに言えば、複数の方法で同じ結果を得られるなら、より単純な方法が真理に近いということも含みます。

 言い換えれば、研鑽すればするほど技法はより単純化する方向に進むのが道理だということです(これはわたしが常に言っている精度を高めることと矛盾しません)。そのような単純化のことを前提に、先生は、ああしたらこうして、そうきたらこう返して、こうなったらそうする、のように段取りが3手以上つづくようなものはファンタジーだとおっしゃったそうです(このことはわたしが直接伺ったことではなく、優秀な同門からの伝聞です)。

 とにかく、そういう越えがたい壁としての黒岩理論がある中で、それでも技法に自分なりの理論(わたし流の屁理屈のことです)を織り込むことが部分的には出来つつあります。もちろん、新理論を織り込んだからといって技法が劇的に変わるわけではありません。実際、見た目はほとんど変わりません。むしろ技法(体遣い)を解釈する上での補助理論としての意味あいが大きいと思います。

 そんな中の屁理屈のひとつを今回はご紹介します。どうでもいいことだから屁理屈なのですが、単純化というものの見方、考え方を説明するのにちょうどいかもしれません。

 それは座り技呼吸法です。これは合気道においては文字通りあくまでも呼吸法として扱われるべきものですが、似た技法が他流派では合気上げなどといわれるように、《合気》というものを鍛錬する方法として説明されることがあります。

 これの源流がどこにあるのかは知りませんが、現在のように流布されたのは大東流からでしょう。ほかの柔術系流派やそれ以外の武道でも類似のものがあったり興味を示す人がいますが、その解釈はいろいろで、中には武道の埒(らち)を超えたものもあるようです。

 わたし自身は大東流の教えを受けたことはありませんので推測の域を出ないことと同流への批評、批判ではないことをまずはお断りしておきます(真摯に武の道を歩む人には敬意を捧げております)。

 さて、合気上げの特徴として書籍や映像でよく見られるのは、向かい合って座り、相手の手首をつかんだ人が、合気をかけられるとそのまま背すじを反らすようにして立ち上がってしまうという風景です。

 わたしが問題としたいのは、この現象を気の力だとか意識の操作だとか、中には微電流の働きとかを援用して説明していることです。あえてそれに反論はしませんが(だからといって同意はしませんが)、もっと単純な理論で説明できればそのほうが真理に近いとは思いませんか。

 わたしの論は次の通りです(いつもそうしているという意味ではありません)。まず向かい合って座り、取りは両手を腿の上にきちんと置きます。受けは取りの両手首をつかんで押さえつけようとします。このとき(受けが手首をつかむ瞬間)取りはいつも通りに手をかざすと、それ以外なにもしなくても受けは膝立ちになります。

 そのコツは、受けが手首をつかむその瞬間に取りは始動のタイミングを合わせること、受けは取りの手首を下方に(腿に)押しつけるつもりでつかみにいくこと、そして一番のポイントは、押さえつけようとする意識を受けは動作中継続して保持することです。以上です。そのようにすると受けは自分で立ち上がってしまいます。これは受け取り双方が腕立て伏せができるくらいの力があれば誰でもできます。

 これには難しい理屈はなにもありません。受けは、つかもうとする瞬間に反発された場合、なにも対応しなければ手を持ち上げられ脇が空いてしまいます。これがわたしたちの普通の呼吸法です。受けがそれを避け、継続して上から押さえつけようとすると腕や上半身の形を保つため自分から腰を浮かすしかないのです。

 それは気といえば気かも知れないし意識の操作といえばそうかもしれませんが、しかしそんなものは言葉の遊びでどうでも良いのです。普通の呼吸法ではそこまでしないで適当なところで横に転がるから、操り人形みたいに立ち上がることをしないだけです。

 いずれにしろ、こんな単純なことを人によってはさも秘技のように喧伝するのはいかがなものかと思うわけです。さらには、非科学的で非合理的なもの(つまり特定の人が特定の条件下でしかできないこと)を有難がる傾向が合気系武道の一部にあることは健全な状況とは思えないということです。

 黒岩理論の検証をするなかで、やはり《ものの役に立つ》ということをあらためて感じさせられています。次回はその観点から論を展開したいと思います。


243≫ 天佑自助

2014-07-27 18:03:07 | インポート

 よく、技能の修練には守・破・離の段階があると言われます。ご存知の通り、守は基本の教えを忠実に守るべき段階、破は身に付いた基本を今度は打ち破って自分なりのスタイルを作る段階、離は自由自在で何物にもとらわれない窮極のレベル、とこういうことです。弁証法の止揚みたいな論法で(ちがうか)、なんとなくわかったような気分にはなりますが、では、自分がその各段階のどこにいるのかといいうことになると、人間には欲とか情とかいうものがありますから適正な自己評価は難しく、客観的な基準というものも無さそうです。

 合気道の場合、一握りの天才的能力の持ち主を除くほとんどの人(もちろんわたしも含めてです)は守の段階にあるのではないかとわたしは思っています。これはあくまでもわたしの勝手な推測ですが、勝手は勝手なりに理由があります。

 合気道のように約束事に則って進行する武道は、きっちりカタが守られなければなりません。ここでわたしがカタと片仮名で表記するのは型と形の両方を意図するからです。大雑把に言うと、型は、《鋳型》などと使われるように物を作るときに素材の外側にあって素材に変形・矯正を強いるもの、形は外形つまり素材を型にはめ込んだ結果あらわれる、言うなれば製品です。ここで出来上がる製品というのが、つまりは守の段階の最終形です。

 とすると、多くの人はわたしの見るところ守の段階を脱していません。 なぜか。それはつまり不完全な鋳型を使用しているからです。用いる鋳型が不完全であれば出来上がる製品も不完全であることは当然です。何年やろうがダメな鋳型を使っていれば良い形はあらわれません。

 それでは、何をもって完全、不完全というのか。それは用いる型の細部にわたって神経が行き届いているか、つまり、足の運び、手の動きなど動作の一つひとつにおいて、そうであるべき理由が理解されているかどうかということです。

 もともと命の遣り取りをする武術に源を発する武道には、本来無駄な動きは許されません。右足が前であるべきときは前に、左掌が上向きであるべきときは上向きに、そうでなければならない理由があるのです。そのように仕向けるのが型であり、特に古流といわれる伝統武術ではそのあたりは厳しく教授されます。加えて古流には口伝というものがあり、そこで型における様々な意味合いが教授されます。

 実は、合気道において足りないのは、その口伝に相当する部分ではないかと思います。合気道の動きにも、当然そうあらねばならない理由があります。ですが、日常的な稽古においても、あるいは講習会などでも、動き方は教えてくれるものの、そうすべき理由まで言及されることはあまり無いように思われます。それでは【守】の段階を脱することはできませんし、【破】に進むべき動機も見つからないのではないでしょうか。

 合気道にはせっかく達人養成システムが組み込まれているのですから、欲を言えば全員【離】までたどり着いて達人になってほしいものです。そのためには、くどいようですが、細かいところまであらゆる動きの意味を知ることが必要条件です。もし、それを教えてくれる人がいなければ、これは自分で研究する以外にありません。その場合でも、天は見放しませんから答えが大きく外れることはないでしょう。天は自ら助くるものを佑く。

 それがわかれば、それ以外の動きはしたくなくなります。そのときが逆に【破】のスタートです。それについてはまた別の機会に(守の人間が破を語るというのも分を越えていますがね)。