合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

164≫ 修行論 その1

2011-10-17 16:04:16 | インポート

 合気道愛好者の方が開設されているブログは結構な数にのぼるでしょう。ここもその中のひとつですが、他と大いに違うのは、ブログ管理人たるわたしが合気道界の中の住人でありながら、この道の常識や権威というものに対していつも斜(ハス。合気道だから半身と言うべきでしょうか)に構えた言いぐさを放ち続けていることでありましょう。

 ここを訪れてくださる方の中には、そんなわたしのあり方を見苦しい振る舞いであるとお感じの向きもあろうかと思います。もしそのようなことがありましたらお詫び申し上げます(読んでくださる方に不快感を与えるのは本意ではありませんが、だいぶ以前に、ある先生の行為につき批判的な文を著したところ、コメント欄を通じてご関係の方からお叱りを受けたことがありましたので)。

 それにもかかわらず、当方の趣意にご理解をいただき、貴重な助言や示唆のコメントをいただくことも多く、本当に感謝に堪えません。この事実は、どなたであれ、ひとりの修行者として合気道に向きあう姿勢が真摯であればあるほど、現状に対してものを言わざるを得ないと感じておられる方が(おそらく)多数いらっしゃるということを表していることに他なりません。

 わたしがそのような方々の代表であるなどとは露ほども思っておりませんが、合気道を通じてたくさんの大事なことを学び、大切な人間関係を築くことのできた、すなわち人生の宝を得ることのできた者として、合気道の更なる進化(あるいは先祖がえりでも良いのですが)を期待し、そのために既成の価値観におもねることのない評価軸を提案することは形を変えた恩返しであると心得ています。

 前口上が長くなってしまいました。このたびも皆様からのコメントに触発され、合気道を修練することの個人的な意味や社会的意義について考えを述べてみたいと思います。今回は特に指導的立場にある方(指導者や経験豊富な方)を想定して物申します。もちろん立場ゆえの影響力の大きさを考慮したためです。

 さて、言い訳めいた序文は、実は次のような趣旨を開陳することの予鈴です。

 現代社会において、いろいろな武道やスポーツその他の趣味、娯楽のあるなかで積極的に合気道を選択し修練する必然性、または必要性があるのかということです。比率的には、合気道にまったく関わらずに快適に過ごしている人のほうが圧倒的に多いわけですから、この命題は少なくとも『積極的に』という点で論理的に成り立たないのは明白です。要するに必然性も必要性もないのです。一般の人には合気道が何ものであるかなど全く興味がないと言っても過言ではありません。そこが、既に合気道界にあるわたしたちと決定的に違う点です。

 わたしたちが、内輪だけではなく、外に向かって合気道の意義を訴え続けているのは、その彼我の距離を縮めようとする試みです。合気道の持つ可能性と効用を信じているからです。しかしながら、その可能性と効用が実現されているかということになると、必ずしもそうとは言えないという現状です(可能性と効用が具体的に何を意味するかは別に述べます)。武術性において、また健康法として、あるいは精神修養法その他としてみても、たくさんある武道や趣味、娯楽のなかで合気道が傑出しているとは証明しかねるというのが事実でしょう。

 なぜでしょうか。簡単に言えば、合気道の魅力を体現できている人が≪いない≫からです(全体論です。達人がかつて存在し、いまもどこかに存在することまでは否定しません)。武道としての合気道はやはり『できてなんぼ』の世界です。それが大前提です。それを体現できていない人が(ということは、わたしも含めて多くの合気道人が)合気道家という立場からどれほど立派なことを言っても説得力がありません。机上の空論と受け止められるのが関の山です。言葉の悪さはお許し願いますが、『できもしないで偉そうに』ということです。もちろん、精神論であれ技法論であれ一般人として考えを述べるだけならその限りではありませんが。

 そのような状況を踏まえ、あえて極論すれば、合気道にまつわる現今の種々の理屈は要するに技量未達の言い訳にすぎないと思っています。別の言い方をすれば、合気道はまことに達成の容易でない事と理、すなわち技法と思想を持つがゆえに、それを獲得することを諦めた人は、なんとか手の届く所にゴールを設定し直してしまっているのではないかということです。その時点で、少なくとも技量についてはそれ以上の進化は望めません。

 もっとも、そうなってしまうことに同情できないわけではありません。どういうことかと言いますと、居合や剣術を例にとれば、そこでは武器としての刀が他人の手によって既に出来上がっていて、それが手許にある状態から稽古が始まります。あるいは、稽古などしないまったくのド素人でも振り回せばそこそこの成果(不届きながら相手に損害を与えること)を得られます。しかし合気道ではその武器に相当するものをまずは自分で作りあげなければいけません。しかも厄介なことには、合気道の武器たるものは刀のように武器として単独に存在することはできません。体と精神とが一体となってはじめて姿を現すのですから、言うなれば道具としての刀の鍛錬とそれを扱うための術、そして心の持ち方を一緒に修めるのと同じで、それはたいへんな苦労があります。合気道は体を使うだけだし相手の動きも決まっているので簡単だ、とは決して言えないのです。今回のタイトルを、どちらかといえば技能を修得するという意味の≪修業≫ではなく、人間としての全存在を傾けて己を磨き上げる意味での≪修行≫としたのもそのようなことを踏まえたからです。

 しかし、いくら困難だといっても、それで合気道修行の簡易化を招いたのでは何をかいわんやです。どうしたって切れ味鋭い刀を鍛えなければ修行の意味はありません。そして、切れる刀を持ってはじめて刀を持つことの意味、つまりその値打ちや所有する資格の有無、あるいはまたそのことがもたらすかもしれない事態までをも考えることができるでしょうし、他者に伝えることもできるようになるでしょう。

 現今の合気道においては、そのような(抜き身の刀を構えたような)緊張感を持たないまま武道を語ろうとしているのではないか、それではやはり説得力を持たないだろうと思うのです。

 べつに他人にわかってもらうことが修行の目的ではありません。しかし、開祖のお示しになった理想に一歩でも近づくためには多くの理解者を得ることも大事な条件です。そのために凡人たるわたしたちがなすべき事は、とにかく弛まず歩み続け、いつの日か合気道の魅力を体現してみせることではないでしょうか。

 つづく

【お知らせ】

 大変恐縮ですが、ブログ管理人から再々のお知らせです。

 ここでもご紹介させていただいております≪黒岩メソッド≫に則った講習会を開催いたします。ご興味のおありの方は下記アドレスより『大崎合気会』ホームページをご覧ください。以上です。失礼いたしました。 http://www14.ocn.ne.jp/~aga/


163≫ 思想と風景

2011-10-02 13:37:57 | インポート

 先日テレビで、今年93歳になる日本画家の堀文子氏と作家の戸井十月氏との対談番組がありました。年齢も分野も違うお二人の共通点は、精力的に世界を巡り、そこから自分や日本を見つめなおし、そして独特で重層的な作品を生み出すというところでしょうか。堀氏のことはあまり存じませんでしたが、戸井氏の旅の足はオートバイで、ひところわたしもそんな旅にあこがれたものです。

 その対談のなかでわたしが特に惹かれた話題は、堀氏が『風景は思想である』と述べられたことです。風景というものは、その根っこは自然の産物だけれど、森や川やあるいは街のいまある姿はそこに住む人々の意思が反映されているということのようです。

 お二人のような地球レベルの話とは比べものになりませんが、わたしも体験上、人の思いが風景を作るということには共感をおぼえます。だいぶ以前、一人でオートバイでの日帰りツーリングをしたときのことですが、岩手県の花巻市近郊の農村地帯を走っていると、沿道の家々の庭でいろんな種類の花が咲き競っているのです。しかも道を通る人を楽しませるような場所を選んで育てているように見えました。失礼を承知で言えば、そのあたりはもともとそれほど裕福な土地柄というイメージではなかったので、『花を愛でる心なんてものは暮らしにゆとりがないとわいてこない』という固定観念にとらわれていたわたしは少々戸惑いをおぼえました。

 そしてすぐに気づきました。かの地は宮沢賢治を生んだ土地なのです。彼は童話作家であり、教師であり、鉱山技術者であり、法華信者であり、おまけでプロとはいえない程度の音楽家でもありました。賢治は大正10年に地元の稗貫農学校(後の花巻農学校)に奉職し、15年に退職したあともしばらく農業指導をしました。わたしが訪れたそのころはまだ当時の教え子の方々が幾人もご存命でした。賢治は彼らに農業だけではない、彼の持てるもの全てを注ぎ込んだでしょう。彼ら教え子はいまだに『賢治先生』と呼び、その教えを忠実に守っているようでした。ゆとりとは金、物だけで得られるものではない、それを道端の花が象徴していたのだと思います。

 合気道とはあまり関係なさそうな話をしてしまいましたが、思いが形に表れるというのは何事にも通用する真理ではないでしょうか。であるならば、今の合気道のあり方は今の合気道家の思想の産物であると言って差し支えないでしょう。それはどんなものか、それが今回のテーマです。

 合気道の理解のしかたは皆さん一様ではありませんから、その表現の仕方もまた一様ではありません。もちろん、それぞれが尊重されるべきものであることは言うまでもありません。まして、わたしも含め、自分の師からの教えは何より大切であることも承知しております。
 その上で、あえて苦言を呈せざるを得ないところに現今の合気道界の問題点があると考えています。その問題とは、合気道の目的地とそこに至る道筋が見えていないということです。登山を例にとれば、表登山口も裏登山口も迂回ルートもあります。そのどれを行ってもいいけれど、最終目的地は頂上です。いま、わたしたちはその頂上を見失っているのではないか、だからそこに至る道もそれが正しいのかどうか迷っているのではないだろうかというのがわたしの危惧です。頂を目指してがんばって登っていたつもりが、たどり着いたらとなりの峰だったなんて喜劇です。

 わたしたちにとって大先生はベースであるとともに頂きでもあります。その大先生の思想は言行録や道歌で提示されていると一般には思われています。しかし、それらの多くは、武道家としての人生のその時々のお考えを自由に述べられたものを、他の方が時系列をあまり考慮せずまとめたものが多く、したがって思想の変遷や焦点があいまいになっています。意地悪な見方をすれば、後の人が自分に都合の良い部分だけを引っ張り出して自説の補強をするために利用している、と言えないこともないかと…(ここはぼやかしておきましょう)。

 加えて、現在おこなわれている合気道、とりわけその中核をなすのは大先生の合気道というよりは吉祥丸先生が体系だてた合気道です。そこでまた思想の変遷があり、焦点がひとつ増えたことになります。この、吉祥丸先生の合気道は現時点での最終形といってよいのでしょうが、しかしそれはすべての合気道家の要求を満足させるものとはなっていないように見えます。

 ここで言うすべての合気道家の要求とは、あれもこれもと量の豊富さをもって良しとするものではありません。そうではなくて、合気道の外面だけからは容易に推し量れない、内に秘めた能力や可能性を知り、稽古に生かし、伝えるシステムのことです。重層的というべき体系です。これまで、合気道界において責任ある立場の方がそうした考えのもとに思想の整理をしたということを寡聞にして存じません。思想が整理されていないから、その思想が反映された合気道の風景が表れ出てきていないのだと思います。

 ここにコメントをくださるT.U様から先般次のような文章を頂戴しました。

 『演武を観る機会がある度に、どんな思い、考えで稽古しているのかと思いを巡らしてしまう事もあります。基より、武術は見世物ではありません。演武は現在、稽古の成果の発表の場として認識されていますが、「見せる」に意識が強くなると、見た目に意識が行き、「華やかさ」を追う結果になるのでしょう』。

 現状の演武のあり方とそれをもたらす日常の稽古のあり方に対する批判として的を射たものと思います。そしてこの文のなかで重要なのは、やはり『どんな思い、考えで』というところでしょう。それがあらゆる行動の原点であり原動力なのですから。

 いま現在、あらゆる合気道家を満足させる思想はない、というのが正直なところでしよう。そしてそれを実現させるのはとても困難な作業です。しかし、いつかは成し遂げられねばならない課題でもあります。それはわたしと関係ない、とは誰も言えないのです。

 『よし、やってみよう』、そこからまた新たな難題が生まれてくるかもしれませんが、それは単なる混沌とは違います。乗り越えるべき課題がはっきりしているわけですから。

 ふと見つけた花とその花を育てた人の心根を知るためのツーリング。合気道という道で、みなさんもいかがですか。

 【お知らせ】

 大変恐縮ですが、引き続きブログ管理人からのお知らせです。しばらくの間お許し下さい。

 ここでもご紹介させていただいております≪黒岩メソッド≫に則った講習会を開催いたします。ご興味のおありの方は下記アドレスより『大崎合気会』ホームページをご覧ください。以上です。失礼いたしました。 http://www14.ocn.ne.jp/~aga/