合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

74≫ 攻防一味

2008-07-22 16:47:30 | インポート

 一般的に合気道はこちらから先に攻めるということはしないと考えられています。実際、稽古においても、受けが取りの手を取ったり打ってくるところから始まります。

 そのように、多くの武道において、相手の攻撃を受けかわしながら仕留めていくというのが一般的な稽古法になっています。○○に先手なしと明確に謳う武道がありますし、剣術にも相手に先に手を出させ、それに乗じて打つということを流儀の要にしている流派もあります。

 でもこれは戦術の中でも相当に高度な技法であることは容易に想像がつきます。生半なことでできる技ではないことは認めますが、若干のケレンを感じるのも事実です。うがった見方をすれば、圧倒的に力量に差がある場合か、または窮余の一策で繰り出した技が偶然にきまった時に実現される特殊ケースと考えたほうが愚昧なわたしには納得しやすいものです。本来は、きちんと実力をつけて、正攻法で、つまりできるだけ危ない橋を渡らずに勝つのが上策だと思うのですが、なぜそうなっていないのか、このあたりに武道の秘密が隠されているような気がします。

 それはさておき、≪防御≫というものは本当に難しいものです。ためしに子供相手に(あまり小さい子ではいけませんが)、自分は手を出さず防御するだけにしてボクシングのまね事でもしてみてください。元気の良い子なら何発かに一発は当ててきますよ。大人と子供でもそうなのですから、力量が接近していたら防御一辺倒ではまず間違いなく負けます。また、いきなりキックボクシングの世界に飛び込んだボクサー(普通の)が、キックの防御法がうまくできず惨憺たる結果になった例はたくさんあります。これは素手だけに限りません。得物を使っても同じことです。ですから、どうしたって護りからはいるしかない護身術は難しいのです(先に手を出す護身術なんてのは論理矛盾ですからね)。

 さてそうすると、≪先手なし≫という言葉の意味をもう少し違う角度からとらえ直さないといけません。実のところ、相手に先に手を出させるという剣術でも、先(せん)をとるということには相当こだわっています。後の先、対々の先、先の先、はたまた先々の先などと、とにかく先なのです。稽古においては、約束によって打ち方が仕掛け、仕方が受けて捌くというふうに進めるわけですが、実戦における経験則により、自ら仕掛けていくほうが有利だとわかっているわけです。それが証拠に、攻撃に勝る防御なしとか、先手必勝という言葉もあるくらいです。

 しかし、これでは理念と技法の乖離のようにも見えますが、実際のところどうなのでしょう。もしかしたらわたしのような考え方のほうに問題があるのかもしれません。つまり、あまりにも防御と攻撃という対立した区分けの仕方にとらわれているのではないかということです。

 以前、大先生から斉藤守弘先生に伝えられた合気剣の組太刀のなかに、新當流のカタの打ち太刀と受け太刀が反対になっているものがあると申しました(バックナンバー51)。また、同じく合気剣組太刀には打ち太刀、仕太刀とも似たような動きで進むものがあります。カタとして、結果的に仕太刀が勝つようにはできていますが、体遣いにそれほど違いがありません。なぜそういうことになっているのか、わたしの知識の及ぶところではありませんが、攻撃と防御は紙一重であることの傍証にはなると思います。

 それをさらに一歩進めると、実は攻撃技と防御技という対立概念はもともと存在しないのではないかと考えることもできます。と、ここまで書いてきて気づきました。新陰流の合撃(がっし)や一刀流の切落しは、どちらも相手が真っ向から斬ってくるのを、あたかも防御することなきかのごとくにこちらからも撃っていくようなかたちにつくられています。もちろん下手な遣い手なら、良くて相打ちか悪ければ斬られてしまうような微妙かつ巧緻な技です。なぜこんな、身に付けるのも遣うのも難しい技があるのでしょう。

 門外漢が勝手な解釈をするなら、防御と攻撃は同じなのだということの表明ではないかと思うのです。攻防同時ではありません。攻防一味です。つまり、こちらは同じように刀を振り下ろしているのであって、それの当たる対象が相手の刀であれば防御、相手の体であれば攻撃と言われるだけのことです。防御専用、攻撃専用の振りがあるわけではないということです。

 これは当然のことながら合気道にも通用します。黒岩先生のおっしゃる虚の稽古、実の稽古という考え方は、これを前提にするとよく理解できます。違うことをやっているのではない、同じことを違う角度から見ているのだ、そのような複眼的なとらえかたができると、苦労して身に付けた技がひときわ異彩をはなってくることでしょう。これに関する具体的な例はまた機会を改めて述べてみたいと思います。

 


73≫ ストリート・ファイト

2008-07-11 16:06:06 | インポート

 このまえ、何気なくつけたテレビにタイガー・ジェット・シン氏が映っていました。かつては悪役で名をはせたインド出身の人気プロレスラーですが、まだ現役でやっているのかと驚きました。古いプロレスファンならご存知かと思いますが、初めて日本に来た年に新宿伊勢丹前の路上ででアントニオ猪木氏と乱闘騒ぎを起こし、警察沙汰になったエピソードの持ち主です。1973年11月のことです。日付までは忘れましたが、わたしが月まで覚えているのには訳があります。

 大学生だったわたしは、その日、伊勢丹の地下の駄菓子売り場(ちょっと高級な西洋駄菓子といった感じ)で一日だけのアルバイトをしていました。冬休みにサークルの仲間と長野にスキーに行くための小遣い稼ぎでした。そこへ、アントニオ猪木氏と夫人の倍賞美津子さん(当時)が数人の弟子を連れて駄菓子を買いにこられ、わたしがその応対をしたのです。ばら売りの色とりどりの駄菓子、何を何グラム買うかは美津子夫人が決めておられました。さすがに有名人夫婦ともなれば駄菓子もデパートで買うんだな、このお弟子さんたちが食うんだろうな、やはり女優さんはきれいだな、などとどうでもよいことを思いつつ、約3万円のお買い上げ(駄菓子でですよ!ちなみに当時のわたしの大学の授業料が年8万円です)に深々と頭を下げたものでした。そしてたくさんの紙袋をお弟子さんに持たせてお帰りになるお二人の後姿を呆然と見送りました。

 翌日、スポーツ新聞を見てびっくりしました。一面に猪木氏とシン氏の乱闘の記事が載っていて、写真には歩道の上にハデに飛び散った駄菓子が。あー、ボクが売ったやつだ。う~ん、プロレスラーは駄菓子が好きなわけではなかったんだ、3万円分の駄菓子をばら撒けばこれはたしかに賑やかで人目を引くな、だれがこのシナリオを考えたんだろう、と一瞬で事情を飲みこんでしまいました。あの時あとをくっついていけば実際に新聞ネタになるほどの騒ぎを見られたのにと少々残念な気もしましたが、地下の売り場では地上のことはさっぱりわかりませんでした。そんなわたしも一応は関係者なんでしょうかね(違いますね)。

 そんなことを思い出したところに、今度はインターネットで、アメリカ在住の某フルコン空手(試合では手による顔面攻撃を禁じている、まぁ、はっきり言えば極真会館です)支部長のストリートファイトの映像を見つけました。街の様子を紹介するための撮影隊を案内しているところに、数人の街のダニのようなやつらが襲いかかってきたのですが、わずかの間にノックアウトしてしまいました。なかなか強くて結構ですが、わたしが感心したのは単なる強さではありません。彼はボディーブローや蹴りを繰り出していましたが顔面へのパンチは出しませんでした。おそらく彼は考えてそうしたわけではなく日頃の稽古の習性で顔面攻撃をしなかったのだろうと思います。

 これまでわたしは、最も有効な攻撃方法を排除している極真ルールに割り切れなさを感じていましたが、この映像である意味納得できました。棒やナイフを持った奴もいる数人の相手を瞬く間に倒してしまうほどの人物が顔面を狙ったら、おそらく不具者を生むか、ことによったら死者を出すことになるでしょう。いかに相手に非があるといっても、そのために自分の生活に重大な変化を生じることになるのは避けられません。

 そう考えると、肉体的な意味での護身と社会的な意味での護身と両方を満足させるためには、手による顔面攻撃なしのフルコン空手というのは、もしかしたら賢い選択なのではないかと、こう思ったわけです。いろんな意味で苦労された大山倍達氏の経験から生み出されたルールなのかもしれません。

 先日わたしたちの稽古場に一人の青年が訪ねてきました。当地出身で今はフロリダに美術の勉強のため留学していて、彼の地ではテコンドーをしているそうです。たまたま里帰りしていたところを、当会の会員である友人に誘われてきたのです。その彼に、例の映像の話をしたら、彼の場合は頭にピストルを突きつけられて、まったく動けなかったという話をしてくれました。事なきを得たそうですが物騒なところです、アメリカというところは。

 そういえば、以前長いことハワイに住んでいた友人に、スピード違反で捕まってライセンスの提示を求められたとき、それを取り出すためでも上着の内ポケットに無造作に手を突っこんではいけないのだと聞きました。武器を取り出す動作に間違えられ、警官に撃たれても文句は言えないのだそうです。ですからその場合は、いったん上着の前を開いて、中が見える状態で取り出さなければいけないということです。ご参考まで。


72≫ 遣わない

2008-07-02 11:24:39 | インポート

 どうにもこうにも物騒な世の中になってしまいましたが、多少なりとも武道を嗜む人は、そのような世相とはむしろ無縁の生き方をしているものです。しかし巷では護身術というようなものに関心が高まっているようで、護身術と武道は、これは無縁とは言えませんので、合気道愛好家の皆様もいろいろ思うところがあるのではないでしょうか。

 ローカルニュースなどで、警察官や武道家が婦女子を対象に護身術教室を開いた、なんてのが紹介されたりします。危ない所には近付くなとか、大声をあげて逃げろとか、そういうことも一応は言うのでしょうが、ついでに簡単な格闘術みたいなことを教えたりもするようです。でも、あれはいけません。遣えっこないのに変な期待を持たせてしまいますから。もっとも、わたしたちだって、それよりちょっとだけましな程度ですが。

 このごろの事件をみると、手加減ということを知らない人間が多いことに驚きます。子供の頃に体を使った遊びや子供レベルのケンカをしてこなかったのでしょう。かつて相撲やチャンバラなんかは遊びの必須項目で、そんな中から加減というものを知ったのです。我慢も挫折もそこで覚えたのです。いまや自分の痛み(体も心も)から相手の痛みを推し量るという能力が欠如しているとしか思えません。

 そんな人間を相手に争うのは、極力御免蒙りたいものです。さて、そうはいっても、危急の場合、武道家は武道家らしい対応をしたいと思うのもこれまた人情というものです。そんな時は、合気道家だからといって、合気道の技を遣うことにとらわれてはいけません。同じ武道家でも、居合をやっている人が刀で斬ろうとは思わないでしょうし、弓道家が矢を射るということもないでしょう。自分の武道にこだわるのは徒手武道家の特徴かもしれませんが、要は負けないこと、そのためにどうするかということです。

 悔しくても惨めでも、ひたすら逃げる、これが一番。引くことは勇気のいることです。これができなくて日本は敗れた(関係ないか)。

 それをわかった上で、どうしても逃げられない状況に立ち至ったら、その時は意を決して戦うしかありません。相手は理不尽にも善良な市民に一方的に攻撃を仕掛けてくるのですから、遠慮や体裁はいりません。と言いたいところですが、こちらも手加減を知らないと相手に回復不能の障害を負わせたりして、自分は肉体的損傷がなくても社会的に葬られてしまいます。結果的に、相手と自分と二人分の人生を抹殺することになります。≪ひとを呪わば穴ふたつ≫というやつですね。正義だ正当防衛だと言ってはみても、くだらない人間のせいで人生をだいなしにするのは、どう考えても割りにあいませんよ。

 そうならないために、心の在りようが大事だと言われるのですね。体は心が動かすのです。はっきり言って、心をコントロールできない人は、争うことはハナからすべきではありません。闘争不適格者です。

 心の次は技です。わたしたちが日頃稽古しているのは《虚》の技です(バックナンバー15)。実用に供するには、一通りの動きができるようになった後に《実》の稽古をする必要があるでしょう。虚の稽古は体を錬るためのものであって、実際に相手を取り押さえることを目的としていません。あんなきれいには敵を制圧できるものではありません。実戦を想定した警察官の逮捕術などを見ておわかりの通り、結構ジタバタするものなのです。もちろん、実の稽古をしたからといって勝ちを保証するものでもありません。

 そして当身です。これは相手が一人の場合も大事ですが、複数なら絶対必要です。打撃系の武道経験者ならそれを遣えばよいのですが、そうでない場合は、やはり遣うための練習が必要です。しかし素人が空手やボクシング風の打撃をしようとしても、手をケガするだけで、まずモノにならないでしょう。柔術系の当身は急所を攻めるのですが、これも生半可な知識で使ってはいけないものです。ただ、武道家として知っておくべきことでもありますので、慎重に修得されることを望みます。

 また、道具を使うことも厭うべきではありません。身に付けているものやそばに転がっているもの、何でもよいのです。格好つけてる場合ではありませんから。もちろんこれも限度をわきまえて。

 こう書いてきて読み返してみると、なんと殺伐とした風景でしょう。愛と和合から一番遠い所にいるようです。このブログをご覧いただいている皆さん、やはり君子危うきに近寄らず、これが一番です。