合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

131≫ 講習会にて

2010-06-23 12:13:52 | インポート

 つい先日、二日間にわたり本県合気道協会主催の講習会が開かれました。本部師範宮本鶴蔵先生を講師にお招きし充実したご指導をいただきました。今回はそこで感じたいくつかのことをお伝えしたいと思います。

 ここ数年にわたり、本部から各回異なる先生においでをいただいていますが、指導にあたっての共通するスタイルがあるようです。それは参加者一人びとりに手ずからご指導されることを大切にしておられるということです。会場をくまなく回り、上級者も初心者も区別なく親しくご指導されます。直接手をとり、またとられることは最上の指導法ですから、そのような機会に接することは受講者にとってとても貴重です。

 また、やはり各先生に共通することなのですが、概して技法についてのご説明が少ないのではないかと感じています。見て、体感して覚えなさいということなのでしょう。伝統的教授法であり、かつ、海外で指導する機会の多い本部師範としてはあまり言葉に頼らない指導法というのも大切なのかもしれません。

 しかし、地方在住者にとって本部師範による指導に接する機会は年に何度もあるものではありませんので、受講者としては講師の理念やそれにもとづく技法の意味、あるいはまた合気道そのものに対する認識なども伺ってみたいものです。実際に体を動かす時間が短くなっても構わないし、はっきり言えば、参加者どうしの稽古などどうでもよいので、もっと講師の謦咳に接したいというのが偽らざる心境です(どうでもよいというのはちょっと度を過ぎた表現かもしれません。もちろん、よそで稽古されている方と手合わせすることで得られるものもたくさんあります)。

 次に、受講者を観ての感想です。わたしは二日目の後半は会場のすみっこにいたせいか、ペアを組むタイミングを逃し、しかたがないので参加者の様子を観察する場面がよくありました。そこで目に付いたこと、特に有段者について気になる点がありました。この人たちはそこそこ長く稽古されてきたので、ある程度ご自分のスタイルができつつあることは理解しています。それが講師の示す技法と異なることもままあるでしょう。しかし講習会で講師の指示どおりにできない、あるいはしないというのは、これはいけません。指示どおりにできないというのは見取り能力や身体能力の欠如、指示どおりにしないのは精神的硬直か自己過信というものです。心身ともに鍛錬の不足というべきです。

 講習会への参加は義務ではありません。自由意志にもとづくものです。ですから講師の指示に従えないのならなにも無理して参加する必要はありません。ですが参加した以上は普段自分が馴染んでいる合気道を一時封印し、講師が大事にしている考えや技法を、なにか一つでも覚えて帰るという心構えで臨むべきでありましょう。

 また、これも多くの有段者に共通する悪癖ですが、相手が自分よりも下位だとみるとすぐに教えたがるのも、みっともないのでやめましょう。その日、教える役目はあくまでも講師の先生であり、古株の有段者といえども受講生ですから、頼まれもしないのに相手の動きに注文をつけたり余計な指示をするのは越権行為と認識すべきです。はたで見ていると講師とは違う自分流儀のやり方を下位者に指図している人もいて、これは二重に迷惑です。

 わたしの場合、中級者とおもわれる女性の方と稽古をした際、『悪いところがあったら教えてください』といわれましたが、『そういうことは先生に聞いてください』とお答えしました。なんか冷たく突き放した言い方をしたかなとも思いましたが、それが筋目折り目というものでしょう。ただ、初級レベルの方で、何をどうすればよいのか皆目わかっていないような方もいらっしゃたので、その方には基本的な動きだけは教えてさしあげました。そうでないとせっかくの講習に臨むことすらできないですから。

 ところで、今回の宮本先生も昨年おいでいただいた小林幸光先生もおっしゃっていましたが、稽古中は適宜水分を摂るようにとか、このようにしたらケガにつながるから注意するようにとか、健康や安全に配慮するご指示がありました。おそらく先生ご自身がハードに稽古しておられた青年時代には考えもしなかったことだろうと思いますが、社会や家庭で果たすべき役割をさまざまに持った多くの愛好者をかかえる現在の合気道界においては、日常生活に支障が出ないことが必須条件であり、指導する側でも特に留意すべきことであろうと思います。

 わたしが主宰する道場でも、一番に心がけていることが安全の確保です。昔風に考えれば軟弱のそしりをまぬがれないかもしれませんが、これは、武道というのは常に危険をはらんでいるのだという意識と表裏一体のものです。ケガをして長く稽古を休んだり、果てはやめてしまうことほどつまらないものもありません。

 そういうわたしも肩、肘、手首、膝、足首と、ほとんどあらゆる関節を傷めた経験がありますので、あまり偉そうなことは言えた身分ではありません。ケガをしていいことは何一つありませんでした。それでもなんとかやめずに続けてこられたことに感謝しているような次第です。

 今回の講習会も含め、いろいろな行事において、わたしも主催者側の一員として運営に関わる人間の一人ですが、実施に向けての実際の交渉や準備はしかるべき役員の方が骨を折っておられます。こちらは当日ありがたく参加させていただくだけですので、いささか申し訳なく思っていますが、そのような方々のご労苦に報いるには、まずは参加すること、そして合気道をさらに普及させる努力を普段から心がけることに尽きるのだろうと考えています。

 このような地道な努力が日本はもちろん世界各地でなされており、そこでは多くの方が合気道と合気道愛好家のために様々なかたちで尽力しておられるということに、あらためて気付き感謝したくなった講習会でした。

 そんなことを言ってるわりに、いろいろケチをつけた文章になってしまいました。本ブログ全体を通じても、どうしても指導者や上級者の方々への評価は厳しくなってしまいます。中核にある方々に対する期待の大きさの表れと受け取っていただければありがたいのですが。


130≫ 懐古の先に 

2010-06-10 13:48:43 | インポート

 稽古帰りの車の中で何気なくNHKラジオを聴いていたら、耳に入ってきたのは、なんと懐かし亀渕昭信さんの若々しい声でした。40年前と同じような調子でディスクジョッキーをしておられました。番組のタイトルは≪亀渕昭信の いくつになってもロケンロール≫。1950年代から70年代ころの曲を中心に流しています。

 亀渕さんと聞いてオールナイトニッポンを思い出す人は50代後半から60代の方でしょう。最近では、ライブドアによるニッポン放送の敵対的買収騒動に対応された時、『あ、今は社長をしてるんだ』と驚きました。わたしがその亀渕さんのオールナイトニッポンを聴いていたのは、人並みに大学受験勉強をしていた1970年前後で、立場上決して楽しいとも思われない時期です。でも、その頃を懐かしく思い出すのは、日常の生活や価値観など、いろんなことに変化が現われつつ、漠然としたものではあるけれども将来に期待を抱いていた時期に対する憧憬からでしょう。

 わたしが合気道を知ったのもちょうどそのころで、このブログにも採りあげていますように特に入門時から在京のころのことは今でも昨日の出来事のように思い出されます。なんといっても、信頼する先生の教えを受けて、それをそのまま身に付けることが一番の仕事である時期は、多少の苦労は未来への希望によって穴埋めされ、その上たくさんお釣がきます。

 わたしの場合はその後帰郷しましたから、それまで受信者であればよかったものが、同時に発信者の役割が加わることになりました。つまり、自分自身が修行者であると同時に指導もする立場になり、楽しいだけでは済まされなくなりました。それでも、まわりに誰も頼るべき人がおらず、一人で考えざるを得ない状況の中で、かえって目指すべき姿が明確になり、思念のブレがなくなったことは喜ぶべきことかもしれません。

 自分が受発信者であるという状況は今も続いていて、本当は昔を懐かしむどころではないのですが、当時の未熟な自分を他人事のように眺めて楽しむくらいのズーズーしさは身についたのかもしれません。

 先日、大変お世話になっている白川勝敏先生(合気会宮城県支部長)の道場の講習会に講師としてお招きいただきました。先生はかつて明治大学合気道部において小林保雄先生の薫陶をお受けになり、わたしなど比べ物にならない正統の合気道をなさる方ですので、本来はわたしごときが講師として伺うなどは分を超えていると言わざるを得ません。それが、道縁によって面識を得た後はいろいろな便宜をはかっていただくだけでなく、永年の朋友のごとく接していただき、やっぱりズーズーしくもこのような今日を迎えているわけです。

 ところで、一般的な道場では、講習といえども普通は外部の、特に流れの異なる指導者などは歓迎されないのではないでしょうか。考え方の違い、技法の違いなどが大きい場合もあり、場合によっては悪意がなくても不利益を被ることがないとも限りません。そうした中、異物たるわたしが白川先生のお言葉に甘えてお邪魔しているのは、もちろん先生の度量の広さと指導理念の揺るぎなさを信頼しているからに他なりませんが、もうひとつ、私自身が所属していた東京のO道場での経験によります。

 入門当時のO道場は稽古日が週に5日で、朝稽古のほか、夜に1時間×2の枠がありました。ですから夜に限っていえば週に延べ10人、奥村繁信先生を筆頭に、本部からいらっしゃる指導員(当時は助教といっていました)や道場生え抜きの指導者、合わせて5、6人の方が日替わり、時間替わりで受け持っていました。その先生方の合気道が細かな点では皆違うのです。

 また、O道場は、道場長ご自身があまり合気道経験が長くなく、また病後でお体が若干ご不自由なこともあり、良くも悪くも、これがO道場流だという技法のしばりはありませんでした。ですから出稽古自由で、当時都内各地で開かれていた講習会や稽古会にも勇んで出向きました。『O道場から来ました』といえばほとんど無条件で飛び入り参加させていただけましたから、いろいろな先生の合気道に接することができましたが、やはりそれぞれ個性があり、違いがありました。

 わたしの場合、そのような環境で培われた複眼的な思考と認識が今の自分を作り上げたと思っておりますし、黒岩先生に師事し、白川先生と出会う契機ともなったと考えています。とにかく自分の合気道とは違う合気道があるということを知ることは、心構えさえ誤らなければ間違いなく上達に利があります(ここでいう心構えとは、自分自身の本流を外れないという意志のことですが、わたしの場合は本流を見つけるためにいろんな支流を渡り歩いたといえるかもしれません)。

 そういうわけで、異物は異物なりの覚悟をもって自分の合気道を紹介することにも意味があると考え、講師もすればブログも書いているのですが、その原点はすべて1970年代にあるのだなあと思い返しています。

 いまわたしが合気道に感じる懐かしさというのは、わけもわからずただこの先には何か大切なものがあると信じて、若さにまかせて前へ進もうとした、その心のエネルギーに向けたものかもしれません。ズーズーしい他に、最近ちょっと小利口になったかなと思うにつけ、その頃の自由な精神こそが合気の道に適うものではないかと感じます。

 それにしても、亀渕さんのラジオから流れる曲は現代人の趣味からは少々離れているかもしれませんが、その時々の完成品であったことは事実です。それなくして一足飛びに現代音楽ができたわけではありません。このことは一つのことを成し遂げようとするとき、たとえば、わたしたちが合気道を究めたいと考えるときの指標となるかもしれません。ということで、この先の未来のある日に、今を懐かしく思い出すことができるかどうかは、いつに今現在の精進のありようにかかっていることは疑いありません。