合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

359≫ 出稽古の勧め

2019-05-30 18:11:24 | 日記
 今回は指導者のひとりとして、天に唾するかもしれないことに言及します。 

 A町のA道場にはA師という先生がいて、B町のB道場にはB先生がいて、それぞれの個性によった指導をしています。合気道は百人いれば百通りの合気道観がありますから、そのこと自体は自然なことだと思います。

 ただ面白いのは、そこで指導を受けている稽古者はみんな自分の先生の合気道観に無批判に従っているだけのように見えることです。もちろん、先生というのは何も知らなかった自分を一丁前に育ててくれている有り難い存在ですから敬意をもって従うことがいけないことだと言うつもりはありません。問題は稽古者が果たしてどれだけの自覚をもって先生の合気道観を受け入れているのかということです。

 新しい入門者にとって、自分の先生の合気道観なんてわかるわけもありません。すなおに先生の教えに従うだけです。しかし、問題はそれから何年たってもその合気道観に縛られているということです。ですから、演武会などでは、出場者がどこの門人か、あるいはどこの大学合気道部かなどは一目みればすぐわかります。みんなある武道観に裏付けられた動きで、同じことを同じように演じているからです。

 しかし、どれだけ優れているといっても、一人の合気道家(先生)の合気道観を道場丸ごとで従うことの不自然さに気づかないのでしょうか。そんなところを見ても、合気道の愛好家は素直な人が多いんだなと感じます。もっとも、普通の道場や合気道部では一人の先生や複数でも同じ傾向の先生に指導を受けるのが普通でしょうから、その道場の合気道観に疑問を持つということは、そこに居場所がなくなるということで、素直に従わざるを得ないということなのかもしれません。従えないという人は道場を移るかやめるしかないのが普通です。でもこのことは優れた才能をもつ人を身のまわりから遠ざけてしまうということに指導者は気づくべきです。

 幸いわたしの場合はかつて所属した道場の道場長が出稽古に理解があり、というよりもむしろ出稽古を勧めていて、さらには、そのような者を受け入れてくださる複数の先生にめぐりあうことができたという恵まれた環境にありました。そのため、異なった合気道観(少なくとも外観的には)をもつ優れた指導者を得ることができました。所属道場には在籍4年(大学生の期間)の予定が御礼奉公のつもりで卒業後も1年いましたから、まずは置いてくれたことを道場長には感謝しています。

 さて、そのようにわたしは幸運だったわけですが、多くの道場ではそういうわけにはいかないのが普通です。指導者としても、自分とは異なる価値観をもった他の指導者を簡単には稽古者に紹介できないでしょう。でも、そこで一歩踏み出すことができるかできないかで優秀な合気道家を生み出す可能性の可否が分かれます。ちなみにわたしの主宰する会では、わたしとは別の系統で、異なった合気道観をもち、しかも優れた技量に裏打ちされた指導者が毎週定期的に指導にあたってくださっています。稽古者にとっては頭の切り替えが求められますが、それは合気道の幅を広げることで大変素晴らしいことです。居ながらにして出稽古と同じことができているわけです。その指導時間はわたしも見学していて、教えられることがたくさんあり、良いことづくめです。

 今は大きな枠組みでの講習会でなければよその先生に教えていただくということは難しいと思います。でもそのことが優れた合気道家の誕生の妨げとなっているのも事実です。どうしたら良いか、みんなで考えてみてはいかがでしょう。

358≫ 休むということ

2019-05-08 17:23:00 | 日記
 長い連休でした。わたしの会では公立施設をお借りしている関係で、来る11日が二週間ぶりの稽古となります。これほどの休みは会の設立以来なかったことです。体は楽をさせていただきましたが、もともと好きでやっていることですから、かえってストレスがたまるような感じが無きにしもあらずといったところでしょうか。会員の体調がどうなっているかにも興味がわきます。

 ただし、わたしの合気道人生でこれ以上の長期にわたる稽古中断がなかったわけではありません。それは学生時代の夏休みです。まるまる一か月くらいは帰省していました。その間一人稽古のまねごとみたいなことはしましたが、簡単な体操か踊りのレベルでしかなく、合気道と呼べるものではありませんでした。

 そんな鬱々とした気分の休みを終え稽古に復帰したら、いつもの稽古仲間の一人は帰省せずに稽古に通っていたというのでした。その差は次の昇級審査にあらわれました。稽古日数の差で彼は飛び級を許され、わたしは通常の昇級でした。ちょっと悔しい、けれどもいろいろ教えてもらった経験でした。

 先日、わたしの体調を心配してくれている会の世話役の方から、稽古に顔を出すのを少し減らしたらどうかと言っていただきました。大変ありがたい心遣いではありましたが、丁重にお断りいたしました。技術や理論の面で会員の方々に直に伝えなければならないことがまだまだ沢山あるからという理由です。

 いずれにしても、これまでやってきたことは間違いではないのだけれど、その密度が若干粗かったということかもしれません。

 休むということは普段のあり方から一時的に離れるということであり、必然的にこれまでの日常を省みることを求められます。そういう意味で、休むことは向上を目指す上で大切なものなのかもしれません。

 合気道は考える武道でもあります。いたずらに体を動かしているだけではわからないこともあります。そんな時はちょっと休んで、じっくり考えることが大切です。わたし自身、かつての長期休暇の間に気づいたこともいろいろあります。要は、時間の過ごし方の問題です。

 有意義に、有意義に。