合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

243≫ 天佑自助

2014-07-27 18:03:07 | インポート

 よく、技能の修練には守・破・離の段階があると言われます。ご存知の通り、守は基本の教えを忠実に守るべき段階、破は身に付いた基本を今度は打ち破って自分なりのスタイルを作る段階、離は自由自在で何物にもとらわれない窮極のレベル、とこういうことです。弁証法の止揚みたいな論法で(ちがうか)、なんとなくわかったような気分にはなりますが、では、自分がその各段階のどこにいるのかといいうことになると、人間には欲とか情とかいうものがありますから適正な自己評価は難しく、客観的な基準というものも無さそうです。

 合気道の場合、一握りの天才的能力の持ち主を除くほとんどの人(もちろんわたしも含めてです)は守の段階にあるのではないかとわたしは思っています。これはあくまでもわたしの勝手な推測ですが、勝手は勝手なりに理由があります。

 合気道のように約束事に則って進行する武道は、きっちりカタが守られなければなりません。ここでわたしがカタと片仮名で表記するのは型と形の両方を意図するからです。大雑把に言うと、型は、《鋳型》などと使われるように物を作るときに素材の外側にあって素材に変形・矯正を強いるもの、形は外形つまり素材を型にはめ込んだ結果あらわれる、言うなれば製品です。ここで出来上がる製品というのが、つまりは守の段階の最終形です。

 とすると、多くの人はわたしの見るところ守の段階を脱していません。 なぜか。それはつまり不完全な鋳型を使用しているからです。用いる鋳型が不完全であれば出来上がる製品も不完全であることは当然です。何年やろうがダメな鋳型を使っていれば良い形はあらわれません。

 それでは、何をもって完全、不完全というのか。それは用いる型の細部にわたって神経が行き届いているか、つまり、足の運び、手の動きなど動作の一つひとつにおいて、そうであるべき理由が理解されているかどうかということです。

 もともと命の遣り取りをする武術に源を発する武道には、本来無駄な動きは許されません。右足が前であるべきときは前に、左掌が上向きであるべきときは上向きに、そうでなければならない理由があるのです。そのように仕向けるのが型であり、特に古流といわれる伝統武術ではそのあたりは厳しく教授されます。加えて古流には口伝というものがあり、そこで型における様々な意味合いが教授されます。

 実は、合気道において足りないのは、その口伝に相当する部分ではないかと思います。合気道の動きにも、当然そうあらねばならない理由があります。ですが、日常的な稽古においても、あるいは講習会などでも、動き方は教えてくれるものの、そうすべき理由まで言及されることはあまり無いように思われます。それでは【守】の段階を脱することはできませんし、【破】に進むべき動機も見つからないのではないでしょうか。

 合気道にはせっかく達人養成システムが組み込まれているのですから、欲を言えば全員【離】までたどり着いて達人になってほしいものです。そのためには、くどいようですが、細かいところまであらゆる動きの意味を知ることが必要条件です。もし、それを教えてくれる人がいなければ、これは自分で研究する以外にありません。その場合でも、天は見放しませんから答えが大きく外れることはないでしょう。天は自ら助くるものを佑く。

 それがわかれば、それ以外の動きはしたくなくなります。そのときが逆に【破】のスタートです。それについてはまた別の機会に(守の人間が破を語るというのも分を越えていますがね)。


242≫ 良く生きるということ

2014-07-16 14:25:12 | インポート

 新聞でまた興味をひかれる記事がありました。13日付けの朝日新聞スポーツ欄、日本ホッケー協会の内紛でリーグ戦が例年より3ヶ月遅れで開催されるという記事です。そのこと自体はわれわれ部外者のあずかり知らないところですから、とやかく言うべきことではありません。わたしの気をひいたのはそこではなく、ある日本代表選手が『試合ができず、何のためにホッケーをやってるんだ、と思っていた。うれしい』とコメントしていたことです。

 そのコメント自体もなんら問題ありません。むしろ、競技スポーツの目的を明らかにしてくれているという点で重要な発言だと思います。

 つまり、試合のあるスポーツで試合ができなくなると、途端に練習する意味がなくなってしまうということをこの選手は言っているわけです。確かにそうかもしれません。競技スポーツの様式自体が日々の練習の成果を試合で発揮するようにできているからで、だからこそやってて楽しくもあれば充実もするのです。

 それなら、同じことを武道でも言えるのではないかと思われるかもしれません。それもまた一面の真実です。種目によっては、ある程度年齢がいって現役の競技者としての能力に限界を感じ、その時点で武道と縁が切れてしまう人も多く、それはそれで仕方がありません。 

 しかし、幸いにもわたしたちは元々試合のない合気道を選んだ時点で、武道を通じて生きることの意義を証明できる立場に立ったのです。なにしろ引退というのがありませんから、生涯現役です。合気道をはじめとする武道というものはただの娯楽でもないし生活の装飾品でもありません。武道はそれ自体が人生そのものになり得るのです。

 話が飛躍しますが、1977年に起きた、いわゆるダッカ日航機ハイジャック事件をご記憶の方も多いでしょう。そのとき、人質救出にあたっての取引で『ひとりの生命は地球よりも重い』と言って、極左テロ集団赤軍派の服役中のメンバーやそれ以外のシンパ(同調者)の服役者計6名につき、超法規的措置で釈放ならびに国外逃亡を認めたのは当時の福田赳夫内閣総理大臣でした。身代金600万ドルはこの際泥棒に追い銭と言うべきでしょうか。

 人質となった人たちのことを考えればやむを得ざる判断であったのかもしれませんが、そのときの日本政府の対応に関し『テロの連鎖を招く』と特に外国から批判があったのも事実です。

 それはそれとして、わたしはこの《ひとりの生命は地球よりも重い》という言葉が、良くも悪くも以後の日本人の価値観に大きな影響を及ぼしていると感じています。本当に人命よりも大切なものはないのでしょうか。

 そのようなことを疑問形で言っている時点でわたしの立ち位置が常識とずれていると思われるかもしれません。それは甘受します。 

 もちろん、理不尽な理由によって命を失うようなことがあってはいけません。しかし、なんでもかんでも人命が第一で、それ以外の選択肢はありえないのでしょうか。だとすると、命懸けという言葉はどのようなことを指すのでしょう。命懸けとは命と引き換えにしても守るべき何かがあるということだと、わたしはずっと思ってきました。

 文字通り、命懸けの人は一所懸命の人です。より良く生きようと努力する人です。ですから、深い思慮も無く人命第一と簡単に言ってしまう昨今の表層的道徳観はかえって生きることの価値を押し下げているのではないかとも思うのです。

 さて、戦闘法としての誕生の経緯から、生と死を思わない武道はありません。この《道》というのは人として歩むべき方策のことです。その道を名に含む武道は良く生きるための手段です(戦闘だって良く生きるための手段だったのですから)。

 その手段を駆使して意義ある生を生きたあとに意義ある死が訪れます。ここにおいて生と死は連続した同一線上で同等の価値を持つものです。そういうわけで、武道家の価値は死をもって終わりとはなりません。

 武道とは、武術の形を借りて己の生きかたを日々検証する行為であり、人生そのものと同義です。そういうことですから、武道においては、試合がないからといって『何のために・・・やっているんだ』という疑問や慨嘆はありません。そこがかのスポーツとの違いです。


≪ お知らせ ≫

2014-07-10 11:50:22 | インポート

 本ブログでいつもご紹介しております(故)黒岩洋志雄先生の合気道を東京で定期的に稽古できる会が発足しました。先生の最晩年まで真摯に指導を受けられたZ氏が主宰される【輪の会】(ブログにリンクします)です。

 Z氏は黒岩先生の合気道をもっとも精確に受け継いでおられる一人ですので、ご興味がおありの方は連絡をおとりになってみてはいかがでしょうか。


241≫ 浅薄な《武》の理解 

2014-07-06 16:39:43 | インポート

 わたしたちの思いとは裏腹に、いまどき武道家なんてのは普通の人から見れば浮世離れした物好きくらいにしか思われていないかもしれません。そうだとすれば反省すべきはわたしたち当事者ですが、お叱り覚悟で言えばそれは、《武》というものに対する世間の見方が皮相的だからです。

 その遠因は『武という文字は戈(ほこ)を止めると書き、争いを避けることを目指す』という、大衆受けする、あるいは能天気な字義の解釈に拠るところが大きいのではないかと感じています。これはわが国において武力保持集団(武士)の正当性を説明するために特に強調され、それが今も武道界で言い続けられているからでしょう。

 以前にも本欄で触れた記憶がありますが、《武》は戈と止とからなりますが、止という字は足や歩く、走るなどの字にも含まれることからわかるように、前に進む動作を意味します(止まるというのも前進することのひとつの形態です)。したがって原意は『戈を高く掲げ力強く前に進むこと』です。

 武は戈を止めるという意味だとの解釈も昔の中国発のようですが、彼の国では武力集団は単なる戦闘技能者とみなされ、日本の武士のような社会的地位も倫理的素養も期待されていませんでしたから、そのような啓蒙的発想はどちらかといえば一部の知識人の恣意的解釈と考えてよいでしょう。

 そんなこんなで、今のおおかたの日本人が武力あるいは武力保持者に対し、ゆがんだ期待を向けているのもむべなるかなと思われます。

 世間ではいま国の集団的自衛権に関し、かまびすしい議論が展開されています。このブログで政治的テーマを取り上げるのは適切ではないと思いますが、ただ、武道家の立場から言っておきたいことがあります。

 集団的自衛権の行使に関し、内閣はこれまでの法的解釈を改め、実行可能にする方針に転じました。大きな政策転換ですから様々な意見が出てくるのは当然でしょうし、そのことは健全な民主主義のあらわれだと思います。

 その一連の騒動のなかで、わたしがどうしても気になるのは、記者会見での質問のレベルの低さです。朝日新聞は7月4日付けの紙面において=検証 集団的自衛権=という特集記事を組んでいます。そのなかで《血を流す覚悟 語らぬ首相》という見出しで、ある記者から【(自衛)隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まる点をどう考えるのか】という質問が出されたことに対し、【安倍は「自衛隊の皆さんは危険が伴う任務を果たしている。勇気ある活動に敬意を表する」と、正面から答えなかった】と書いています。 

 そもそも刀は人を斬るために、鉄砲は人を撃つために作られたのです。したがってそれらを保持し使う能力を持った者は敵と戦うことを自分の本来の立ち位置としています。現実に戦いがあれば当然血は流れるでしょう。だからといって、現今の日本的価値観の只中で、首相が『戦闘で血を流すのは当たり前だ』と答えられるわけがないではないですか。

 ここにおいて、知識人とも目される新聞記者そして記事編集者が武力ないしは武力保持者について実に幼稚な認識しか持ち合わせていないことが明らかです。武力保持者(その指揮権者も含む)は自分にも敵の刃が向かってくることは自明の理として了解していると考えるのが常識であり、あらたまって覚悟などひけらかすこともないのです。

 そういう質問は自分の命を的にして使命を果たそうとしている人たちを愚弄しているというべきです。記者、編集者は新聞を自分の主義主張の主武器とし、あまつさえ自衛隊員を盾として利用しているに過ぎません。実に幼稚で卑怯な行為です。幼稚はまだしも、卑怯なふるまいは武道家のもっとも忌み嫌うところです。 

 ただ、考えてみるに、このような《武》に対する認識、理解度の低さは政治的、思想的立場の如何を問わず現今の日本人に共通したものです。それはたぶん、《武》の最大の理解者であり体現者でもある武道家に責任の一端があるかもしれません。つまり、競技化された武道の愛好者は競技の成績のみに目を奪われ、合気道のように試合のない武道の愛好者の関心はあくまでも個人的充足感にとどまっていて、それ以外の社会的利益にあまり寄与していないからだとは言えないでしょうか。この点はおおいに反省の余地があります。

 そういう意味で、わたしたちは武道修練の成果をなんらかのかたちで社会に反映させていく義務があるでしょう。その最終目標は自衛権云々も必要ない地上天国の建設ですが。