合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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108≫ 不調和対処法

2009-08-28 10:58:52 | インポート

 合気道の稽古は約束事に従ってとり行われます。右足を進めるべきときは進める、左手を返すべきときは返す、というように大まかな動きが定められています。伝統武術ほどの厳密さはありませんが、一応はカタ稽古という部類に含まれると思います。伝統武術では一挙手一投足どころか、指先の動き、目の働き(正しくは目付)まで定められていますが、合気道でそこまで厳しく指導しているところは少ないと思います。だいたい同じならよろしいという感じです。それでも、たとえば初心者の方が本来の動きと違う動きをするとすぐに直されます。それはしごく当然のことであり、原則としてそのやり方で進むべきだと思います。

 しかし、ある程度の年限を経て、カタが乱れないくらいの稽古を積んだ方(概ね二段以降ですかね)は、相手が約束通り動かない場合でも対処できる方法を身につけたほうが良いのではないでしょうか。いかに健康志向とはいえ、武道と名のる以上は遣えてなんぼだと思うからです(もちろん、そうではないとお考えの方にまで押し付けるべきものでないことは承知しています)。

 初心者に限らず、段保有者でも本来あるべき動きと異なる動きをする人がいます。演武等であえてケレン味を出すための演出なら黙認しますが、稽古においてそのようにしているとしたら問題があります。間違って覚えたか、カタの大事さがわからないでこれまでやってきたということでしょう。そのような人に対し、それではいけないと注意をするのは簡単ですが、なぜいけないのかをきちんとわからせることも必要です。

 また、約束に基づくカタ稽古の意味をはき違え、崩してないのに崩れたり、ここで崩れてほしいというところで無理に踏ん張ってみたり、そんな人もいます。勝手に崩れるのはカタ稽古に慣れすぎたが故の悪弊で、注意をすれば直ります。問題は変に頑張ってしまう人で、そういう人はそれが良いと思っているので、そこは違うよ、と言っても、こちらが下手だと思われるのがオチです(有段者でこのての人は始末が悪い)。

 そういう人には、少々遺憾ながら奥の手を使わざるをえないでしょう。つまり、本来の動きで崩れないのなら、相手が予期しない動きで崩すしかありません(この時点で既にカタ稽古ではなくなっているのですが、これが実戦の実相です)。

 一教を例に考えてみます。右相半身正面打ち表の場合、まず双方右足を一歩進めて右手刀を合わせます(もちろん左手は肘に)。次に左足を進め手刀を斬り落とすのにあわせて、受けは後方に体の向きを変えていきます。この際、受けの両足はその場に留めておくことになっていますが、たまに右足を一歩進めてしまう人がいます。これは実は取りの技を未完に導く方法なのです。なにしろその動きは一教の返し技につながりますから。崩しをかけた時に足を運ばれたらその崩しは失敗です。

 そのため(受けの右足の踏み出しを防ぐため)、取りは、受けの腕を前方に押すのではなく、上段から一気に下に斬り落とすようにしたり、あるいはまた、受けの両足の間に自分の左足を割り込ませたりするわけです。このようにして受けに右足を運ばれないようにするのですが、それでも運ばれてしまった時にどうするか、というのが今回の(約束に基づく調和を得られなかった時の)工夫です。

 これは実に簡単。受けの腕を本来の位置にもっていくことを諦め、自分の足元、つまり受けからすれば右斜め後ろに落としてしまえばよいのです。ちょうど一教裏の感じに近いのですが、裏の場合は受けの体重が右足(前足)がかりになっています。今回の工夫はそれとは違って、受けが踏み出した右足が着地(畳に)する寸前に斜め後ろに斬り下げるのがポイントです。これは柔道の足払いの考え方と同じで、相手が最もバランスを崩しやすいタイミングを見計らっての仕掛けです。やってごらんになるとわかりますが、見事に崩れます。ここまでやってはじめて『だから足を踏み出してはいけないんですよ』と言えるのではないかと思っています。

 さて、若干心に引っかかるのは、このような基本に忠実ではない工夫技法を合気道の技として稽古をしてよいものやら、これはやはり考えてしまいます。伝統武術の世界では、技の改変、工夫というものは宗家のみに許されることであり、それ以外の者がやろうとする場合は、その門から出て新たに一流を立てるのがしきたりです。その代表的な事例が、古流柔術から講道館柔道を産み出した嘉納治五郎師ならびにそれに連なる柔道家による技法群です。これは、試合をすることの必然的帰結であったでしょう。

 それを試合のない合気道にそっくり当てはめるのは牽強付会になるかもしれませんが、試合なきがゆえに武術性(あるいは実戦性)の希薄になりがちな現代武道として、また基本形の合理性を補強説明する手段として、ある程度の工夫は許されてもよいのかなと勝手に思っているのですが、いかがなものでしょう。わたしとしては、人に指導する立場にある者として、『相手がこちらの希望通りに動いてくれないので技がかけられません』とは言えないなぁ、と思うこともあるわけです。

  


107≫ 上達の勘所

2009-08-14 13:57:24 | インポート

 合気道の上手な人とそうでない人は、いったいどこが違うのだろうかと考えたことはありませんか。一番根っこのところは稽古の質と量でしょうが、そのうち量はまぁわかります。冬でも寒さを感じないくらい、夏なら暑さをものともせず熱中症の一歩手前で頑張っていれば、量としては十分でしょう(社会人にはあまりお勧めしませんが)。じゃあ質とはどのようなものか、これが実に難しいし、好んで論じられることもあまりありません。

 普通はうまくできるようになるまで、ひたすら体を動かすだけです。それで、先生とか先輩の出来と同じくらいになったら、上達したと考えるわけです。それで、結構動けるようにはなりますし、見栄えもします。

 しかし、単に体が動くことと、意味ある動きをしていることとは違います。ここで《意味ある》とは武道として練磨するだけの値打ちがあるかどうかということです。その値打ちを決めるのは実現可能性(実際にできるかどうか)の有無です。いくら見た目がよくても、受けの協力(これは稽古ではとても大切なことなのですが)にばかり頼るようなものは最終的に武道とはいえません。難しいことではありますが、武道は遣えてナンボです。

 武道の上達を期すにあたり、いわゆる身体能力が高いにこしたことはありませんが、絶対条件というわけではありません。なにしろ武道は劣等を克服する技術であり、必要とされる能力は稽古を通じておいおい作り上げていけばよいのです。それよりも、むしろその第一は見取りの能力、つまり、他人(先生)の動きを見てすみやかに、かつ正確にトレースできる観察力と集中力であろうと思います。要するに物まねです。まったくの初心者にそれを求めるのは酷ですが、それでもたまにそのような才能を持った人がいることはいます。

 ところがこの物まね、ただ外見が似ているだけではだめなのです。力の出しどころ、抜きどころがわかっていないと術につながっていきません。そのためには、単に形、動きを真似るだけではなく、その意味を知っていないといけません。この足運びはなんのためか、この手の位置にはどんな含みがあるかといったようなことです。それがわかっていると、一度覚えた形や動きは絶対忘れません。

 しかしここに越えるべき問題があります。ひとつは、教える側が、様々な動きの意味を知っているかということ、そしてもうひとつは、それを知っていても、細かく見れば幾百幾千もある動きの全てについてその意味合いを教えていくことは不可能であるということです。

 最初の問題、動きの意味を知らないひとは本来指導者になってはいけないのですが、その先生の先生も知らなければ教えてもらう機会がなかったのですから、これは本人だけの責任とはいえないかもしれません。新たな師を求めるか、なんとか独学で頑張っていただくしかありません。

 次の問題において指導者のとるべき方法は、全ての形、動きには、そうならなければいけない理由があるのだという、そのこと自体を稽古者に気付かせることです。気付けばあとは自分で考えていくこともできます。一挙一動をおろそかにしない意識付け、これこそが指導者の仕事というわけです。

 さて、話はもどって、その見取り能力と一体不離のものがあります。いわゆるイメージトレーニングといわれるものに含まれるのかもしれませんが、自分の姿(佇まいや動きなど)を頭の中で形作る能力です。あたかも映像を観るかのように、想像を働かせて自分の姿を脳裏に焼き付けることができれば、それ以降の動きに明らかな違いが生じます。

 他人の姿を見ての単なる物まねを自分固有の技術へと昇華させる際もイメージの力を使っているはずです。たとえば、鏡に映った姿(見たまま)は左右逆になっていますが、それを実用として使うためには頭の中で左右逆転させなければいけません。それがつまりはイメージの力です。難しいことはありません。目をつぶって自分の姿を思い浮かべるだけです。ただし、正しい姿をです(これが難しいのかもしれませんが)。

 余談ですが、わたしはこの有効性を少年のころにスキーで確認しています。実際に滑る前に上手く滑っている姿をイメージすると、それまで不得手だった技術が進歩していることがよくありました(合気道よりうまいかも)。これはただの思い過ごしではなく、イメージに沿った合理的な動きができるように脳からの命令系統がきちんと整理された結果だと思います。

 ところで、わたしは現在でも指導の際、どんなやり慣れた技でも事前に動きをイメージしてから始めます。それに違和感があるようなときは実行しません。おそらく自分の中の何かが抵抗を示しているのだと思います。そのようなことがこれまで何度かあり、それは私自身が新たなステージに進む変化のきざしでした。イメージはそのようなことまで教えてくれる重宝なものです。

 考える暇があったら体を動かせ、というのが武道に対する一般的な見方だと思いますが、わたしは、動く前にちょっと考えてみよう、と提言します。とりわけ合気道においては。

 こうしてみると、合気道というものは、理合といい想像力といい、とにかく頭を使う武道だということが言えると思います。ひところ、右脳とか左脳とか、素人には難しい脳科学が喧伝されたことがありますが、合気道では左右両方、というか脳ミソ全部をフル稼働させないと上達しません。ということは、合気道上達法は単なる身体健康法ではなく、《脳力》向上にもつながる優れた全人教育であると言ってよいかもしれません。