合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

271≫ あらためて黒岩合気道 その5

2015-07-27 16:06:02 | 日記
 『脳天逆落とし』、この、どう見ても合気道には似つかわしくない技法が今回のテーマです。相手の体を上下逆さまにして頭のてっぺんから落とす技ですが、本気でこれをくったら死ぬか身体不随になるかです。これに近い技がプロレスで繰り出されることがありますが、バウンドの効くリングで、なおかつ強靭な肉体をもって万全の受身をとり、それでも多少は急所をはずすテクニックがあってはじめて可能な技です。間違っても素人がしていいことではありません。

 しかし、黒岩洋志雄先生によれば『合気道の投げ技は本当は脳天逆落としなんですよ』とのことで、腰投げを例にお話いただきました。かいつまんで言うと、普段の稽古で腰投げをするときは体全体で横受身ができるように投げますから、投げられた人は何度でも起き上がって稽古を続けることができます。というか、稽古はそうでなくてはいけません。

 ただ、この技を実戦で使おうと思ったら(あくまでも物の譬えです)それでは埒があきません。1回できめるためには頭から落とすほかないのです。もちろん体遣いは普通の投げ方と若干違ってきます。

 さて、黒岩先生は頭から落とすのは全ての投げ技だとおっしゃいました。それでわたしはそれを確認するために他のいろいろな技を吟味してみました。

 合気道における投げ技の代表的なものは四方投げ、入り身投げなどでしょうか。これをどのようにしたら脳天逆落としになるのか、答えはすぐにわかりました。投げの中盤から終盤にかけて、柔道でいう大外刈りの足遣いを用いるのです。これらの技の中盤で、受けの体はかなり後傾しているはずです(もしそうでないなら、それは不十分な仕掛けです)。背が反った状態で足払いをかけられるのですから、これは見事に頭から落ちます。それに加えて、手の操作でさらに地に押し付けるようにするのですから、危ないことこの上ありません(こんなこと書いていながら言うのもナンですが、絶対にやっちゃいけません)。 

 とにかく、そのように危険きわまりない技です。まったく現代の価値観とは相容れませんが、だからこそ実戦にかなう技として昔から伝えられているものでもあります。

 ところで、四方投げ、入り身投げとくれば、基本技のひとつとしての一教はどうなんだ、押さえ技だから関係ないかなとも思いますが、工夫をすれば意外な逆落とし技が表れます。教科書的な正面打ち一教を想像してください。右の相半身なら振りかぶりと同時に右足を踏み込み、手を切り下げながら左足を進めますが、この左足を受けの両足の間に割り込ませるようにし、柔道でいえば内股か大内刈りのような足遣いで受けの右足を跳ねあげると、受けは右腕を制せられていますから顔面から落ちます。

 投げた相手が再び立ち上がってこないようにしようと思えば、必然的にこのような操作が加えられることになります。それでわたしは普段の稽古でも、合気道はどんな技も必殺技だと言っているのです。

 もちろん、愛と和合の現代武道としては喜ばれないでしょうし表にさらすべき技法ではないでしょう。でも、心ある修行者は合気道がそのような危険極まりない技法に簡単に化ける能力を秘めた武道であることは知っていてよいでしょう。

270≫ あらためて黒岩合気道 その4

2015-07-13 15:09:41 | 日記
 今回は《虚と実》です。前回言ったように合気道の稽古は実戦の雛形ではありません。あくまでも技の練習を通じて武道たりうる動きを身につけ体を練ることが目的です。そこで表現される稽古形態がつまりは《虚》です。それに対して、実際に使いものになる技が《実》です。ごく簡単に言うと、腕などをつかまれてやるのが虚、自分から相手をつかんで技にもっていくのが実です。

 気を通せばつかんだ手が離れない、などというようなファンタジックな技ができない(わたしのような)普通の人が敵意ある相手を前にして実際に技を施す際にどちらを選択するか、その分水嶺が虚と実の境目です。ちなみにわたしの住まいする県から隣りの県に行くときに、奥羽山脈の分水嶺を越えますが、川の流れが反対方向になることを頭ではわかっていても感覚的にはすぐになじめないことがあります。虚と実にはそれくらいの差はあるような気がします。

 虚と実というと、いかにも虚は偽物で実が本物というニュアンスがありますが、決してそうではありません。武術技法としては最終的には実に向かっていくべきなのでしょうが、稽古法として虚には虚の大事な働きがあり、実には厄介な部分もあります。虚の稽古では、受けが手首などを持ってくれるので、取りはもっぱら足運びや体捌きなどに留意すればよいことになります。その際、力みがない分受けの力の方向がわかりやすく、また、体全体でスムーズな動きができます。

 一方、合理的な動きが身についていない段階で実の技を施そうとすると、どうしても力に頼ったものになりがちで、その結果筋トレなどに重きを置いてしまうことになります。わたしは筋トレの素人なので生半可にそれが悪いとは言いませんが(悪いと言っている専門家もいます)、度が過ぎればその時点で既に武術とはいえなくなっています。

 虚と実はあくまでも合気道技法の表現法の違いです。つまり、虚の稽古でしっかりした動きを身に付け、それが実の技法に結びついていることがわかれば良いのです。

 しかも、みんながみんな実の技ができなければいけないというものでもありません。大部分の稽古者にとって、それを遣って誰かと戦わなければならないという状況とは無縁の生活を日々送っているはずです。戦前、陸軍戸山学校で大先生に合気道の指導を受けたという方の話を黒岩先生から伺ったことがありますが、それは自分から相手をつかまえにいってぽんぽん放り投げるような技だったそうです。相手がこちらのやりやすいように手をとってくれたりはしません。兵隊さんの教育ですからそれは当然のことです。それが実の技法です。

 しかし、戦後になって大先生は、時代とはいえ人を殺める技を教えたことを深く後悔しておられたようです。大事なのは、そこからわたしたちが何を学ぶかということではないでしょうか。

 とりあえず、以上のことをご理解いただければこの項の目的は八割方達せられたことになりますが、もう少しだけ、どうでもよいことを申し上げます。

 虚の稽古で身につけた動きが、ほぼそのままの形で実の技に転化しますが、それは実戦を意識したものですので当身や蹴りといった攻め技が随所に織り込まれます。しかし、優美な合気道の動きにあからさまにそのような小道具を組み込むのはあまり褒められません。まあ、やりたい人はやればよいのですが、本当はそんなことをしなくても、合気道のもともとの動きの中に即座に当身や蹴りに変化できる要素が含まれています。

 ここで一々それを紹介するというのも間の抜けた話ですので、それはどうぞ皆さんが自由に考えて見つけ出してください。一緒に稽古できればすぐにでもお教えできるのですがね。