合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

112≫ なんのために

2009-10-31 17:03:09 | インポート

 長いこと合気道を続けていると、そのための時間が日常生活の時間割にあたりまえのように組み込まれて、ややもすれば惰性に流れてしまうことがないともかぎりません。これはわたし自身にも当てはまることなのですが、常に新鮮な気持ちで取り組むためには、やはり入門当時の思いを忘れないようにすることが大切です。

 ところが、この≪初心忘るべからず≫というのがなかなか難しいのです。なぜならば、修行を重ねるにしたがって、合気道に求めるものが変わってくるからです。入門時の目的は、ちょっとした興味や健康法、あるいは強くなりたいとか仲間づくりとか、いろいろあると思いますが、合気道の奥深さを知ってくると表面的な面白さだけでは納得できなくなってきます。合気道に寄せる思いが変わってくるのですから目的も変わってきます。

 そのことが、はたして良いことなのか悪いことなのかわかりません。まあ、悪いということはないでしょうけれど、あまり深く考えずに、健康法なら健康法、格闘法なら格闘法と目的を単純化したほうが精神的には楽です。ただやはり人間には向上心という欲がありますから、もっと多くのものを合気道から得たいと考えるわけです。しかも合気道はそういう要求に応えるだけの懐を備えているものですから、ますますこちらは欲深になってしまうわけです。高段者というのは、そういう意味ではより欲の深い人といえないこともありません。

 でも、大欲は無欲に似たり、ともいいますから、要は欲を制限するばかりではなく、欲によって手に入れたものをいかに自分以外のところに還元するかということが人の道ということになるのでしょう。

 ちょっと論旨がずれました。合気道によって得られるものは、そういうわけでいろいろあると思いますし、わたしもたくさんのものを手に入れました。その中で、最も自信を持って披露できるのは、≪当たり前のことを当たり前に受け止める≫ことだと思っています。

 これまでもしばしば述べてきていることですが、合気道は双方の約束に基づく動きを展開していく稽古法を採用しています。そこには必ずしも現実的、実際的ではない技法がたくさん含まれています。その代表的なものが、受けに手首を掴ませたまま転換などで振り回すような動きですが、どこの世界に投げ飛ばされたりひっくり返されたりするまで相手の手首を掴んでいるような人がいるでしょうか。また、取りがちょっと体をかわしただけで吹っ飛んでいくような受けも現実にはありえません。これらを説明するとき、≪気≫の働きを持ち出す人もいるようですが、それは気のせいというものです。

 しかしながら、これらはたしかに開祖が披瀝した技法ですから、そのこと自体、稽古法や演武法として有効なのでありましょう。ということは、それを実用技法として受け取るほうが間違いなのです。黒岩洋志雄先生は、入門から間もない時期に『植芝先生はウソを教えている』と看破されたということは以前にお話しました(バックナンバー⑭2007/4/13⑮2007/4/19)。さすがにわたしごときが大先生の教えを≪ウソ≫とは表現できませんが、目にしたものをそのままストレートに受けとめることはあまりに素直に過ぎるというべきでしょう。

 それではわたしたちはそこから何を汲みとればよいのでしょうか。ウソだからやめちまえという判断もあるかもしれません。でもそれではまんまと大先生の罠にかかったといえます。武道の伝授は学校教育とは違います。数学(一般人がなじんでいる程度の)を例にとると、試験では先生は当然答を知っていますが生徒に示すのは問題のほうです。それを生徒は定理だの法則だのを用いて解を導き出すわけです。ところが大先生がわたしたちの前に示したのは答え、言い換えればいきなりの完成品であって、その形成過程はお見せになっておりません。それを知るためには、わたしたちは完成品から逆算しながらその元を尋ねなければなりません。ここで必要なのは鋭い推理力ですが、これはなにも特殊な能力ではなく、当たりまえのことを丹念に積み重ねることによって得られます。合気道においてはこれこそが稽古なのです。

 つまり、手であれなんであれ掴むには掴むだけの、放すには放すだけの理由があるという、まったくもって当たりまえの見方、考え方ができればそれでよいのです。しかし、わたしたちは普段の稽古でその理由を考えることはあまりありません。掴むことになっているから掴む、放すことになっているから放す、これが惰性というものではないでしょうか。約束事といえども、なぜそのようになっているのか、その意味をよく考えないと、『気でつながっている』とか『気が出ていると腕が曲がらない』とかいうようなウマい話に乗っかってしまう人が出てきます。

 当たりまえの積み重ねで得られるものこそが真理です(でなければだれも真理にたどりつけないことになりますから)。合気道が大人の武道である所以です。

 先日、≪山下太郎≫様という60代の方からコメントを頂戴しましたが、その中でご自分の年齢的状況を≪残り時間が少ない≫と表現しておられました。ご文章からはとてもお元気な様子がうかがわれましたのでご謙遜だと受けとめていますが、たしかに時間は無制限ではありません。人生という言葉を実感として受けとめることのできる頃合の方々、来し方を顧みるに不足のない年代の方々にとって、自分の生活の時間に一定程度の割合を占めている合気道がどのような意味を持っているのかと考えることは、至極当然でかつ重みのある問いかけであると思われます。

 そうしたときに、当たりまえの積み重ねによって作り上げられたしっかりした価値観の前ではたちまち色を失ってしまうような安直な事柄はとても人生の支えにはなりません。先の例で仮に気でつながったり腕が曲がらなかったとして、いったいそれが自分の人生にどんな意義や豊かさをもたらしたのか、そのことに答えられなければ生涯をかけるに値するとはいえません。合気道で得られたものが、合気道の時空だけではなく日常の生活にさりげなく寄与しているとき、≪合気にてよろづ力を働かし美しき世と安く和すべし≫という大先生の道歌にかなうことになるでしょう。

 さはさりながら、ここまで述べてきたことは合気道の価値の一つであって全てではありません。わたしにとって、初心時に感じた大きな可能性はいまだに大きなままです。まだまだ何かある、新たにそれを見つけ出すのも楽しみです。


111≫ ひそやかな稽古

2009-10-13 17:29:04 | インポート

 このブログの読者は、ある程度修練を積んだ方が多いようなので(実数はそれほど多くはないでしょうがね、こんなくどい文章に付き合ってくださる方は)、今回はそんなレベルの方々が出会うであろう稽古のありようについて述べてみます。

 稽古を積んでそこそこ動けるようになると、カタと称するただの約束に基づく動きでは物足りなくなってきて、取り、受けどちらの場合でも、その約束の枠を外れてみたらどうなるか、そんな思いにかられることはないでしょうか。単なる興味で普段と違うことをやってみたくなることもあるでしょう。また、受けをとっている時、あまり崩れていないのにカタ通りに運んでは、かえって相手のためにならないんじゃないかとか、取りのとき、受けが間違ったのに、それを直させるのではなく、こちらの動きを変えることで対応してみるとか、そういうようなことがあると思います。

 そのような気持ち、わたしはよくわかります。稽古を重ねるうち、決められたカタ通りに投げたり押さえたりすることは実際にはなかなかできないのだということがわかってくるからです。善意であれ悪意であれ(そういう人はあまりいないと思いますが)、相手が少しでも抵抗したりすると、とたんに技がかからなくなるという経験は誰にもあるのではないでしょうか。そのような場合の対処法は、これまで多少紹介してきていますが、今回のテーマは、そもそも稽古においてそういうこと(イレギュラーなこと)をしていいものかどうかということです。

 まず結論を言っておきましょう。とりあえず初、中級段階においてはダメです。それは、合気道に何を求めるのかという本来の目的に適わないからです。健康法であれ実戦的格闘法であれ、中心となるものを確立しないまま対症療法的な稽古を続けても、何も得るものはありません。

 わたしは合気道の稽古に必要以上に精神論を持ち込むのは好みませんが、だからといってただ相手を投げたり押さえたりするのが究極の目的だとも思いません。真理はちょうどその真ん中くらいにあって、それは稽古を通じて武道的身体を作ることとその遣い方を学ぶことだと思っています。その過程で武道的思考法も身についてきます。

 そうだとすると、技の上手下手はとりあえず措いといて、カタの示すところに従って適度な負荷を与えながら体を動かすことで、まずは核となる部分を練り上げることが大切なのではないでしょうか。その実践の過程で、うまく技を施すことができなくてもさしあたり気にすることはありません(どうせ大部分の人が上手にはできていないのですから)。

 そして、多くの人にとっては、以後もここまでのレベルを保つことで十分だと思います。少なくとも平均値以上の合気道にはなっているでしょう。

 さて、合気道に対してある種の思い入れがある、端的に言うならば、自身の実力はいざ知らず、合気道そのものは強くて優しい理想的な武道であるとお考えの方々は、さらなる上を目指すことでしょう。そのうち優しさは人格に属するものですから、それは個々におまかせしましょう。そこで強さですが、これはやはりカタ通りの稽古では乗り越えられない壁があるのも事実です。そこで工夫が必要となり、それに応じた稽古法が求められるわけですが、この段階の技法は正規の稽古カリキュラムにはありません。なぜならば、それは現代武道としての合気道の幹をなすものではなく、枝葉に属するもので、はっきり言えば、やらなくても良いものだからです。

 でも、やってみたいですよね、武道家としては。しかしこれはなかなか良師を求めて、というわけにはいかないのが現実です。ですから多くは自分で工夫することになるのですが、その場合は『これは正規の技法ではないよ』ということを稽古相手に伝え、互いの了解のもとで、行なってください。それも道場の隅っこで遠慮がちに。それを見て先生がいやな顔をしたらすぐやめましょう。本当は人に見られるようなところではやらない方が良いくらいのものです。工夫技法というのは、相手に勝ちたいという、やや未成熟な思いの表れですから、大人にはちと気恥ずかしいのですよ。本当は実効性があるので他人に見せたくないということもあるのですがね。いずれにしろ、思い入れのある方だけのひそやかな楽しみに留めておくべきものかもしれません。

 それでもひとつだけ肝心なことを書き添えておきましょう。技に工夫を加える場合に必要なのは、合気道の知識よりは他武道の知識であるということです。合気道のように決められたカタを繰り返す武道では、どうしても独善的な技法と理法(事と理)に陥りがちです。それを矯正してくれるのが他武道の存在です。それに通用するものでなくては、工夫もなにもあったものではありません。

 重ねて言いますが、わたしはこれを一般の愛好者に求めているのではありません。一定以上のレベルにあり、さらに強く優しい(絶対不敗の)合気道を実現したいと思っている人に向けての話です。