合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

319≫ 職人技のように  

2017-05-26 20:41:40 | 日記
 『下手な考え休むに似たり』というヘボ将棋の戒めがありますが、合気道について言えば、下手でもいいから、考えないよりは考えるほうが上等だと思います。合気道は考える武道なのです。

 それでは、何をどう考えるのか、です。答えは簡単、一挙手一投足のそれぞれの意味を考えるということです。技法練習のあらゆる局面において、たとえばこの右手はなぜこういいう動きをするのか、この左足はなぜこのように踏むのか、そういうことに秘められた意味を見つけ出すことです。このように、部分部分の動きの意味がわかってくると、合気道とは何なのかという本質的な意味も分かってきます。それがわかったら、あとはそれを飽きずに続けることです。

 でも、『余計なことは考えず、いっぱい動いて良い汗をかけ』という指導方針の方もおられるでしょう。学生さんなど体を鍛えるべき若い人たちにとってそれも間違いではありませんが、それだけに囚われるのはよろしくありません。たぶんそのようなところから達人は生まれないと思います。
 
 熟練技能者、いわゆる職人という人たちにわたしは敬愛の念をもっています。彼らは優れた製品を産み出しますが、それらは極めて合理的な理論とそれに基づいた技法に裏打ちされています。難なくやってのけているように見える動きの一つひとつが長年の努力の結晶です。合気道稽古もそのようにあってほしいものです。

 ところで、簡単に見せることと簡単なこととは大きく違います。同様に、合気道においても技法上の大切な動きは往々にしてやりにくいのです。そのやりにくい動きを自分のものにするのが稽古です。ですから、このほうがやりやすいからこうする、というのはほとんどの場合間違いです。

 その間違った動きで生み出されるのは間違った間合いです。間とは空間(崩しの方向、入り身など)と時間(タイミング)それぞれの間です。合気道の稽古とはこの間の稽古です。それを素人の感覚でやりやすい方法をとったら稽古の意味をなしません。動きの一つひとつにはそうでなければならない理由があります。ときにはとても窮屈な動きもあります。それでも理法に則ってやらなければなりません。それはいちいち教えてもらえないし、ときには先生が間違っているかもしれません。だからこそ自分で考えなければならないのです。そこから優れた合気道が生まれます。難しいことを簡単に見せる、それが職人技です。合気道も同じです。

 ところで、動きの意味はいちいち教えてもらえないと述べましたが、わたしは黒岩洋志雄先生という稀有な才能の持ち主と出会い、それを教えていただいた幸運な合気道家の一人です。間違った動きだなんだといっても、何が正しくて何が間違いか不明だという方はどうぞコメントをお寄せください。お答えできるものはわたしの理解の範囲内でお答えします。

318≫ 意識の間境   

2017-05-04 17:59:56 | 日記
 『建物の内装はどうしようが自由だが、外装は市民の共有財産だから所有者といえども好き勝手にはできない』。これはまちづくりの勉強をしていたころ、まちの統一感をテーマにしたときの講師の話です。わざわざこんなことを言わなければならないほど、繁華街には様々な色と形があふれています。後に一部の都市で施行された景観条例等は心地よい社会を築くためには一定のルールに従うことが肝要であることを示しています。

 さてこの教えそのものもさることながら、自分の守備範囲を明確に示している点が武道と通じると感じたりしたものです。自他の間境はどこか、内と外との心構えの違いは、など考えさせられます。

 このごろは逆に自分と他人の義務や権利の境を曖昧にするような意識が蔓延しているように思われます。一番わかりやすいのは話し言葉です。たとえば『~したい』と言えば済むものを『~したいかな』とか、『~のほうが良いと思う』と言うべきところを『~のほうが良いのかなと思う』などのように『かな』を濫用する人が多く見受けられます。『かな』は主に外部の事象の可否が不明なときに使う言葉であって、自分の判断について言う言葉ではありません。間境を大きく越えているのですから。
 
 ましてやそれを、一般人ならまだしも社会的責任の大きい人までが公的な場でそのような中途半端な日本語を使っています。この現象はいったいどこから来るのでしょう。何事かを言い切ることが不安なのでしょうか。断定したことが間違っていたらみっともないとでも思っているのでしょうか。このように、心構えや料簡というものは態度、行動に表れてきます。そのためにも言葉遣いには気をつけたいとそう思います。

 武道では『出たほうがいいかな、引いたほうがいいのかな』などと考えている暇はありません。間合いの良し悪しを瞬時に判断する能力を身につける、それこそが稽古の目的です。もしそれが誤っているときその責は自分が負う、武士道などと力まなくてもそれが人間として当たり前の生き方です。合気道が現代武道として期待されていることのひとつに、このような人格形成の側面があるのではないでしょうか。

 間境といえば、このごろは国境という意味でボーダーと言ったり、その自由往来をボーダーレスと言ったりします。武道的価値観や感覚の中で生きている者(わたし)にとってはこのボーダーレスというものに若干の違和感を持ちます。玄関の敷居を平気で踏みつけるのに似た情景に映るからです。内と外の異なる価値観を一緒くたにすることが善であるかのごとき言説は、かえって多様な価値観を尊重する思潮にそぐわないものでしょう。

 オランダに入国した移民だか難民が『自分たちにもオランダ人と同じ権利を与えよ』とデモをしたというニュースが以前にありましたが、ご存知のとおり『世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った』と言われるくらい、彼らは苦労して低湿地を干拓し今の国土を得たのです。その歴史を知れば難民といえどもオランダ人に敬意をはらうべきであることは言うまでもありません。

 間境ということを考えていてそんなことを思いました。