合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

251≫ 運足

2014-10-27 10:39:00 | 日記
 前回の文末に書きましたように、普通に動けるひとが思いのほか少ないというのが実感です(高段者も例外ではない)。それでは、普通に動けるとはどういうことか、その定義をしておかないとただの愚痴になってしまいますから、そこをはっきりさせておきましょう。

 言葉を変えて言えば、それは本来あるべき姿、形のことです。それでもあいまいですからもっとはっきり言えば、投げるなら投げる、押さえるなら押さえるで、そのための合理的なかたちがあるということです。たとえば、柔道の投げ技を想像してみてください。組み合った状態で、彼らは襟、袖をとっての引きつけをします。相手との間が大きければ投げられないからです。

 投げるためには相手との間を埋める動作が必要で、それが柔道の場合は引きつけであり、合気道では相手との間に自分から体を入れていくのです。それが合理的、つまり理屈に合っているということです。ですから、腕を伸ばして離れたところから手先で相手をコントロールするような投げはありえないのです。

 これは合理的ということの説明にたまたま投げ技を例にとっただけであり、他のすべての動きにも合理性がなければなりません。その正確な動きを体現するためには、細かな運足を身につけることが必須です。わたしが合気道を始めて間もないころに買い求めた《合気道入門》という本があります(植芝吉祥丸著 (株)東京書店 昭和46年発行)。これには各技における運足図が示されており(下写真=ちなみにこれは相半身片手取り二教表)、初学者にはとても親切な作りになっています。今は動画が多用され、かえって足の運びのような地味な説明はなくなっているように思われます。 


 正直に言えば、現在わたしは図に示されたような運足はやっていません。しかし、理想とするかたちを作ろうと思えば運足が極めて重要であることをこの本は教えています。

 わたし流儀の運足をひとつだけ例示してご批判を仰ぎたいと思います。以前にも紹介しました正面打ち一教です。同じことをまた持ち出したのは、ずっとこのやり方を続けてきて、やっぱりそれで間違いないと確信しているからです。

 右相半身において、取りは両手の振りかぶりと同時に右足を一歩進めますが、その際、右足は始めの構えから30°程度右斜め前方、受けの踏み出した右足とほぼ平行になる位置です(これが重要)。次に切り下ろしと同時に左足を進めますが、その踏み込み位置は自分の右足と受けの左足の中間点です(これも重要)。

 多くの人は一歩目(右足)の踏み込みが小さすぎ、二歩目は逆に深すぎるのです。そのやり方では受けを前方に押し出すばかりで上方への崩しができていません。それでは合理的な技にはならないのです。
 
 また運足にはつま先の向きや体重を拇指球で支えるか踵で支えるかというようなことも含まれます。本当はこのようなことのほうが関節技が効くとか投げ方がきれいだとかいうよなことよりも百倍も大事なのです。足の踏み込み量も、大きいとか小さいとか言ってもそれはせいぜい一足長程度の違いでしょう。ですがその違いが技をまったく別物にしてしまうのです。崩しと間合いに大きく影響するからです。武道、武術においてこの間合いと崩しは基本中の基本であり、極意でもあります。
 
 間合いというと剣術系の専売特許で、崩しといえば柔術系と思われがちですが、それは間違いです。どちらの系統でも重要な技能であり、それを決定しているのが運足だということは是非知っておいていただきたいと思います。

 今度の講習会ではそのようなことにも言及したいと考えています。無料ですからどうぞ遊びにおいでください。


【お知らせ】

=第9回 特別講習会のご案内=
黒岩洋志雄先生の合気道理論に則った講習会を11月16日(日)に開催いたします。
ご興味おありの方は《大崎合気会》ホームページをご覧ください。


 

 

250≫ 続・達人になろうよ

2014-10-23 13:26:57 | 日記
 先日、パソコンの調子がおかしくなったのでアレコレいじっているうち、誤った操作をしたらしいのです。その結果、再起動してもデータを回復できないとかなんとかのメッセージが出て、にっちもさっちも行かなくなって、仕方なく《工場出荷時の状態に戻す》はめになってしまいました。

 幸い以前に使っていたXPのパソコンがまだ生きていたので、そこから移転可能なデータを持ってきて、なんとか最低限の状態にまでたどりつきました。それでも、今のパソコンを使い始めてから作成したここ半年分の文書などは全て失ってしまい、しかも何を作成したのかもはっきりしないことが一番の痛手です。外部記憶装置などに保存するという保険はかけていませんでした。苦くて薬になる経験をしました。

 負け惜しみ半分の屁理屈ですが、この経験から、わたしの合気道に対する考えがパソコンのような機械にも当てはまるのだと思いました。それは、こんな不人情な無機的なものでも、一度しっかり作り上げ、確定させた形(この場合は古いパソコンに残っていたデータ)は容易に崩れず、いずれ役に立つこともあるのだと妙に納得した、そういう次第です。かたちを作り上げるということは武道修練のの最重要課題だということです。

 じつはXPから乗り換えるときにも、それと関連づけて《合気道といえども時代の変化の波と無縁ではありえない》という論をこのブログで主張していますので、どうもわたしは身近で起こった出来事と合気道を関連付ける癖があるようです。

 さて、わたしは普段からわたしが主宰する会の仲間に『やるからには達人を目指しましょう』と言っています。わたしはそれを半ば本気で言っています。

 それは最近入会してきた年配のメンバーに対しても同じです。なにしろ、一所懸命頑張って仕事を勤め上げ、社会に貢献し、家庭を守って今日まで来た方々です。そうして60代を迎え、さて今度は何か自分のためにできることはないかと見回したところ合気道というものがあるらしいと知り、意を決して門をたたいてくれたのです。当方としては、『世の中には体に負担をかけず楽しそうな趣味がいろいろある中で、よくぞ合気道を選んでくれました』、そのように思わざるを得ません。

 そういう方々ですから、週に何時間かを割いて稽古に当ててくれるその貴重な時間をつまらない稽古で潰すわけにはいかないのです。必ずそれは、やって良かったと思っていただける、意味ある充実したものにしなければ、わたしの指導者としての値打ちはありません。これもある意味、真剣勝負です。

 そこで、達人です。『正しい稽古を続けていけばあなたも達人になれますよ』とそのような人たちにも言っています。なんか、達人の大安売りみたいですが、詐欺セールスの口上とはまったく違いますからご安心を。ここで言う達人とは、常人離れした軽業つかいみたいなものではありません。普通のことを普通にこなすということです。

 わりあい長く合気道を教えるということをやってきてわかったことがあります。それは、普通のひと、つまり体を動かすということについて特別な訓練を受けたことのないひとは、自分の体を自分の思い通りには動かせないのだということに気づいていないということです。それでも日常生活にはあまり不都合はありませんから、気づかないまま一生を過ごすことは容易です。

 しかし、一旦そのことに気づいてしまうと、これはもうそのままにしておくことに耐えられなくなってしまいます。合気道を始めて(他の武道も同じかもしれませんが、そちらの事情はよく知りませんから)何ヶ月か何年かたったころ、自分の動きがまったくなっていないことに気づいて愕然としたこと、皆さんははありませんか。わたしはそう感じ、そのために、より正しいと思われる動きを求めてあちこちに出稽古に赴いたのが、本当の稽古始めだったような気がしています。

 要するに、自分の思う通りに体を動かすという、ごく当たり前のことを当たり前にやることができれば、それが達人の初歩段階だと思うのです。歳をとってから合気道を始めた人が、なにも軽業師やインチキ魔術師みたいなことを目指す必要はありません。そうでなくても《普通》であることがいかに難しいかがわかってきますから、それを当面の目標にし、体得できればそれは素晴らしい進歩であり、わたしはそれを達人と呼んでよいのだと思っているわけです。 

 禅の悟りも、小さな悟りを何度も繰り返し体験し、大悟に向かうのだといいます。達人もそれと同じです。ですから、パソコンではありませんが、日々の稽古の成果をきちんとわが身にデータ保存しつつ、まずは普通に動けることを目指す、それでいいのです。

 だって、普通に動けない有段者のなんと多いことか。


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249≫ 礼儀・作法

2014-10-13 17:04:27 | 日記
 わたしの主宰する会の稽古場は公立の武道館2ヶ所と中学校の武道場1ヶ所の合計3ヶ所です。そういうと、いかにも人数を集めて方々でやっているように思われるかもしれませんが、ひとつの団体が特定の公共施設を週に4回も利用するのは不可能なので、しかたなく経めぐっているだけのことで、要は流浪の民です。

 それらの施設すべてが、板敷きのフロアの半分に畳を敷いて柔道や合気道が利用している、つまり剣道場と柔道場が境目も無く隣りあっている造りになっています。ですから公立武道館ではいつも剣道や空手道の稽古の人たちといっしょになります。彼らの気合い(掛け声)はご存知の通り半端でなく大声です。比較的静かに稽古を運ぶ合気道からすれば正直やかましいのですが、そんな身勝手は許されませんから、むしろ彼らの元気の良さにあやかるつもりで隣人と付き合っています。

 そのような環境の下、先日、よせばいいのに剣道の人にまた小言を申し伝えたわたくしでありました。
 
 ことの発端は当会の小学生会員が床に横たえられていた竹刀をまたいだことです。竹製品といえども刀ですから、それは単なる物ではなく持ち主の心身と一体のものです。そのことは武道をたしなむ者は子供といえども知っていなくてはいけません。ですからきつく叱りましたが、わたし自身の指導不行き届きでもあります。

 あらためて礼儀作法に関する教育が必要であると思ったわけですが、ついで、と言ってはなんですがこの際剣道の人にも伝えるべきことがあると考え、小言幸兵衛よろしく面倒くさいオヤジを演じた次第です。その中身は、竹刀をまたいだのは明らかにいけないことだが、人が歩くところにそのような大事なものを置いておくほうにも責任があるということです。彼らは出入り口をふさぐように並んで座り、道具を置いていたので、そこを通る人はそれらの隙間を縫うようにして歩かざるを得ません。わたしはそのすべてが気に入りませんでした。
 
 まずはそのことを伝え、あわせて、というかむしろこちらの方が重要なのですが、出入り口を背にするということはそこを通る誰かを背にすることになり、それが気にならないというのは武道家としてあり得ない心組みであると伝えました。こんなことを今更ながら言わなければならないような武道教育というのはいったい何なのかと思ってしまいます。

 面倒くさいついでに、礼儀作法についてもう少し思うところを述べます。よく礼儀作法とひと口に言いますが、礼儀とは相手に対する敬意や謙譲の心のことであり、作法とはそれを形に表す具体的な行動です。心と形の両方そろって礼儀作法です。

 さて、礼法といえば小笠原流が有名ですが、この小笠原家は平安末期から続く武家の名門です。わたくしはその流儀に関して特段の知識があるわけではありませんが、それも含めて、いま一般に知られている礼儀作法はその多くが武家社会を背景に作られてきたものだと思います。したがって、そこで取り扱われるものは単なる見た目の行儀の良し悪しであるはずがありません。それは、武家として一朝事ある時には身命を投げ出して主家に従い、その上で家名の隆昌を図る、そのためには日々どのように振舞うべきか、そういうことへの合理的対処法が礼法の根幹にあるはずです。

 卑近なたとえですが、床に座した場合、膝から一尺の範囲は神聖な場として丁寧に扱われなければなりません。居合などをやっている人は感じておられると思いますが、刀礼はその一尺のところに刀を置いてなされますし、別に居合でなくても床に手をついてお辞儀をすれば頭はそこに向けて下げることになります。また、食事の際はそこにお膳が整えられます。このように刀や頭、またお膳など大切なものを受け容れる場だから、そこをズカズカ歩くような無様なまねをしてはいけないというのはわかり易い理由でしょう。

 しかし、もっと現実的な意味としては、ひとが座っているすぐ前を無造作に歩いたら足を払われて簡単にひっくり返されてしまいます。武術的にはそのほうが重要です。これはひとつの例ですが、礼儀作法にはおしなべてそのような意味が隠されています。畳の縁を踏むな、玄関の敷居を踏むな、後ろ手に戸を閉めるななど、みんな身を護るという前提で気の緩みを戒める教えです。

 まがりなりにも武道をたしなむ人は須らくこれくらいのことは知っておくべきですが、その、あくまでも実利的な行動を様式美にまで高めた精神には敬意を表さざるを得ません。

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248≫ 黒岩合気道の大前提

2014-10-03 15:10:59 | 日記
 合気道はその技法体系の中に必殺技を隠し持っていることはこれまでにも述べてきています。ただそれは多くの方の共通認識というわけではなく、むしろそれとは逆に愛と和合、平和を旨とする現代武道としてのイメージが一般的です。もちろん、それで一向に構いませんし、基本的にはそうあるべきだと思います。

 しかし、そのことをもって武道であることを捨て去ってはいけません。ここで《武道である》とは、もともとが戦いの手段であるという認識です。わたしたち現代武道家はその戦闘手段を用いて健康な身体や健全な精神を育んでいます。ただし、邪悪な目的をもってすれば武道は一瞬にして凶器となります。 年配の方はご存知でしょうが、昔のテレビアニメーション鉄人28号の主題歌に『あるときは正義の味方、あるときは悪魔の手先、良いも悪いもリモコンしだい』という歌詞があります。まさに武道そのものです。

 わたくし、いい歳こいて、このように武道は戦闘手段である云々などと論述するのもいささかならずお恥ずかしいのですが、ただやはり、武道を考える際ここは絶対に避けて通れないところでありましょう。極論すれば、闘争の助けにならない武道はそもそも武道ではないということです。その前提のもとで、なおかつ無傷で相手を取り押さえるという難しい命題を合気道には課せられているということです。

 永く師事した黒岩洋志雄先生が合気道に入門したころのことを以前にこのブログで触れた際、入門のきっかけについては口を濁しておりました。あまり褒められたことではないと、先生ご自身もおっしゃっていたからです。ですが、調べてみるとある出版社のインタビューに答えておられ、それが本に載っているのがわかりましたので、あえてわたしが隠しておく必要もなくなりました。それなら弟子が直にお話するほうが間違いないと思いますので、この際明らかにしておきます。
 
 先生は中学生のころからボクシングをやり、将来を嘱望されていましたが、目を悪くして途中で断念されたことはかつて述べていますのでご存知かと思います。
 その断念の後(昭和20年代後半)のことです。ある日黒岩青年が自転車で通行していると、交差点で出合い頭に運搬用サイドカー付きの自転車(そういうのが昔はありました)に竿竹を積んだ人とぶつかったのだそうです。竿竹の先が青年の自転車の前輪のスポークの間に突き刺さり、青年はひっくり返ってしまいました。どちらかといえば青年が被害者なのですが、相手の男が因縁をつけ殴りかかってきたので、青年はとっさに反応して手が出てしまったのです。ボクサーのパンチですからひとたまりもありません。
 黒岩青年は警察に連行され、みっちり油をしぼられたわけですが、その後、相手にケガをさせないで勝つ方法はないかと思案したそうです(決して不戦を誓ったわけではありません。そこが黒岩先生らしい)。
 ちょうどそのころ、放送開始間もないテレビで合気道と大先生を紹介する番組が放映され、それが読売新聞でも紹介されたのです。その新聞を見た黒岩青年は、これこそ自分が探していたものだと思い、さっそく本部道場を訪ねたのですが、紹介者がなければ入門できないと言われました。それで今度は新聞社を訪ね、その記事を書いた記者に紹介者になってもらってやっと入門できたというのがその時のいきさつです。

 ですから、黒岩先生の合気道は、入門の動機からして《ものの役に立つ》ことが大前提でした。わたしにとってもそれは武道観の第一義となっています。ですが、先生若かりしころの出来事はひとつ間違えば相手と自分、二人の人生に取り返しのつかない事態を招きかねないものでした。ですから、争いごとと縁を持たないことが理想ですが、万が一避け得ない場合でも双方の身を毀傷することなく済ませねばなりません。
 それを満足させるために合気道は、打ったり蹴ったり、はたまた斬ったりとは異なる、至難の技法の獲得を目指して日々鍛錬しているわけです。もちろん合気道の当身もその範疇に収まるものでなくてはいけません。その按配が難しいわけです。

 ところで、小学校高学年の少し体の大きい子に、『抵抗していいよ』と言ってから技をかけようとすると、これがなかなか大変です。子供だからとあなどれません。そこで当身などが有効になるわけですが、小学生の教え子を殴るような先生は(合気道では)ありえません。これをきちんと処理できるようになれば合気道家としては一丁前です。
皆さんはいかがですか。

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