合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

344≫ 技量向上論-4 四方投げ

2018-08-23 13:44:06 | 日記
 いよいよ技法の各論に入ります。技法各論といってもこのブログをお読みいただいているのは一定程度合気道に親しんでおられる方々でしょうから、動きの一つひとつを説明することはいたしません。技を技としてものにするために必要な要素を提示いたします。

 さて、合気道の技は投げ技、固め技、投げ固め技に分類できます。投げ技は入り身投げ等、固め技は一教等、投げ固め技は四方投げ等です。そしてそのいずれの技も崩しを施さないと成立しません(気で飛ばすなどというのは論外です)。

 このうち四方投げはヨコの崩しを前提とします。ここであえて横ではなくヨコとしているのは、左右方向ということに限定せず、水平面上の崩しという意味だからです。水平面上ということは左右のほかに前後なども含みます。じつはこれがわたしが長いこと勘違いしていたことなのです。

 以前は四方投げはヨコの崩しということだけ認識していましたので、受けの腕を必要以上に横に引っ張るようなことをしていました。そのため自分の腰を限界までひねっていました。そうすると受けは関節に痛みをおぼえて抵抗したり、逆に腕が伸びきっても崩しになっていないということがありました。

 そこで生前の黒岩洋志雄先生の動きを思い出して頭の中で吟味すると、先生は自分も相手もほとんど無理のない動きをしていることに気づきました。腰をひねるようなこともなく、足の運びは歩くかのごとく自然でした。それで2点わかったことがあります。以下動きを分解して説明いたします。

 最も単純に、静止状態からの自分右半身片手取りとします。まず受けの左手首をとり。それと左足を自分と相手を結ぶ線の直角方向に進めます。ここまではおわかりと思います。以前はそこからさらに腰を深く左にひねるように崩しをかけていました。そのほうが受けがより崩れると考えたからです。ここで、前述のように自分は腰のひねりのせいでバランスがとりにくくなり、受けは肩関節に痛みを覚えて抵抗するようになります。これでは理想的な技法とはいえません。

 そこで黒岩先生の歩くような足運びに思い至ったわけです。つまり、腰を左にひねるのではなく右足を一歩受けの体側に進めればよいのです。これに近い動きは多くの方がやっていると思います。なんだ、それでは難しい工夫なんか必要ないではないか、と思われるかもしれません。もちろん、初代、二代道主が磨き上げてきた技法ですから誰がやっても大きく違うはずはありません。しかしここで問題なのはヨコの崩しの方向なのです。わたしはヨコにこだわるあまり、左への腰のひねりで受けを崩そうと考えていたのですが、左ではなく前に進んでも受けにとっては水平面上の崩しであることに変わりはないということにやっと気づいたと、そういうことなのです。この、ほんのちょっとの方向、角度の違いが大きな飛躍につながると感じられた瞬間です。

 そしてもうひとつ、上のように、どの方向に進むかは手首ではなく肘を意識するということに気づきました。要するに受けの肘ががヨコ(この場合は前)に移動することで崩しにつながるのです。黒岩先生の四方投げは、ヨコの崩しと言いながら受けの腕は縦に丸くなっていましたが、その理由がこれです。わたしもそのようにやっていて、当初はなぜなんだろうと思うだけで、あえて問題とせず過ごしてきましたが、理由がわかってやっと疑問が解けた思いです。なお、受けの肘を前方向にもっていくためには自分の右腕(肘付近)を受けの腕(これも肘付近)に密着させながら右足を進めると無理がありません。

 今回から個別の技術について述べ始めましたが、表現の拙さから、やはり動きを文章で理解していただこうというのは随分無理があるかもしれません。どうか皆様の想像力で補ってください。

343≫ 技量向上論-3 だんご理論

2018-08-05 16:24:56 | 日記
 今回は個別具体的な技術論に入る前に理解しておくべき『技の構造』について述べておきます。

 合気道の技は一説には三千数百もあるといわれます。もっとも、大先生が動けばそのまま技になるといわれていたのですから、実際はもっと多かったかもしれませんし、逆に技とはいえない程度の区別も含んでのことかもしれません。ただ、これから述べる『だんご理論』からすればそんなことはどうでも良いということがおわかりいただけると思います。

 この理論は黒岩洋志雄先生がよく稽古や講習会で話されていたことで、簡明にして、かつ鋭く合気道技法の本質をついた見方を示しています。まことに先生の天才性を見せつけられる思いで聞いたものです。

 それではこの理論を説明しますが、文章だけですので、ぜひ想像力を駆使して動作を思い描いてください。まず、稽古相手の協力を得て、太い木に抱きつくような形で胸の高さで両腕で輪を作ってもらいます。これがだんごです。そして両手の合わせ目と胸とをつなぐように棒を保持してもらいます。これはだんごの串です。地球と地軸といっても良いのですが、『だんご3兄弟』という子供向け歌謡が流行っていた頃だったので先生はだんごということにしたのだと思います。

 それはいいとして、ある程度棒をしっかりと握ってもらい、こちらはその棒をゆっくりとひねり回します。そうすると輪もゆっくりと回り、片腕が上に向かい、違う腕が下になります。この、上の腕を操作する(つかむ)のが一教、下の腕を操作するのが四方投げです。要は、基本技といわれ、別個の技と考えられている一教も四方投げも、上下どちらの腕を攻めるかの違いだけです。

 さらには、足運びもほぼ共通です。わたしの稽古では、より明確に同一性がわかるように相半身片手取り一教と逆半身片手取り四方投げで説明しています。ここで転身の捌き(転換とは逆に相手の正面に回り入る動き)から技にはいると驚くほど足運びが一致しているのがわかります。

 このように、別個の技と考えられている技が、上の手をとるか下の手をとるかの違いだけで、足運びは同じということになると、各技に本質的な違いというのは無いのではないかというところに思い至ります。結果として、稽古の目的はこのようなごく限られた動きを身につけることにあるというのがわかってきます。

 ということになると、相手がああするからこちらはこうするとか、こうきたらこうするとか、対症療法的な技術は少なくとも練習の過程ではあまり意味を持ちません。大事なのは、稽古を通じて多くの技に共通する体捌き(すなわち足運び)をしっかりと身につけることです。結局はそれがあらゆる局面に有効だからです。それが自分の間合いをつくるということになります。反対に、これがわからないと、いつまでも枝葉末節ばかりが気になる、使い物にならない技の所有者になってしまいかねません。 

 黒岩先生はよく、一つひとつの技の極めなんてのはおまけですから、錬るべきはそこじゃありません、とおっしゃっていました。その時は、ああそうですかといった程度に受け止めていましたが、実はこのような深い意味があったのだと、長い時を経て理解しました。わたし、それほど馬鹿でもないつもりですが、長いこと黒岩理論の真ん中には届いていなかったと認めざるを得ません。簡単なことって実はとても大切な事なんです。