合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

97≫ 進化論から見た武道

2009-03-27 12:44:16 | インポート

 最近とても興味をひかれたテレビ番組があります。東京大学大学院教授の佐倉統氏が進化論を語るなかで、ひとに親切にしてもらうと嬉しいという感情や、こちらが親切を施すと気持ちが良いと感ずるのは、人間が進化の過程で獲得した資質だというのです。つまり、そのような感覚を持った者が生き残ってきたということです。

 同時に、敵対するものとは徹底的に戦うという性格もそれといっしょに獲得した資質だそうです。

 その番組を観ていて、このブログで展開してきた武道の意味、つまり闘争技法でありながら道徳性も求められる営みの根源はここにあるのではないかと大いに気づかされるところがありました。

 道徳というものの元をただせば、人間が一定の集団の中で最大多数の最大幸福を求めるために、いろいろな歴史、経験を通じて作り上げてきた、あくまでも人為的なルールだと、わたしは考えてきました。

 この道徳的世界では、個々の欲求を制限しても、結果として全体の幸福が最大値になるような判断基準を善としています。

 もっとも、一般的には幸福の度合いは数値で計れるものではありませんから、往々にしてそれは物や金などの経済的利益で代替されます。その場合、単なる弱肉強食ではなく、時には持てる者が持たざる者に施しを与えることが、また利益を独占したりしないほうが、全体としては長期にわたって利益を大きくできることもあります。そのような考えのもとに道徳感が培われてきたことも事実であろうと思います。情けはひとのためならずというのは、そのような状況を言い表しています。

 しかし、ことはそれに止まらなかったのです。初めにあげた進化論的立場からの見解では、個々人が本来獲得できるはずの利益の放棄と引きかえに、それに相当する程度の精神的な充足感を味わうことができるように人間が進化してきたというのです。人為的に道徳、あるいは倫理とよばれるルールが築き上げられ、社会に定着するには相当の期間が必要でしょう。しかし生物進化はそれとは比べものにならない時間単位のできごとです。どちらがより根源的かは言うまでもありません。

 宗教や哲学などは、仁とか愛とか慈悲とかいうものを価値判断の中心において人間のあり方を説いています。わざわざそう言うのは、そのような教えがないと人間が勝手気ままに行動するからだという考えが底辺にあるからでしょう。

 しかし、先の進化論的立場からは、人間が先天的に持つ、つまり既に獲得している資質によって善(人間社会を発展維持させるために有効と思われる行為)を為すことができると考えることができます。これは、武道を通じて人格の向上に努めようとする立場の人々にとっては、論理の組み換えを迫るものではないでしょうか。

 どういうことかといいますと、道徳観や倫理観は、これは言葉をもって教育しなければわからないことでしょうが、それを感受する能力はもともと人間に備わっており、武道の価値はそれを開かせてやるところにある、ということです。現代武道がなすべきことは、第一義的には体育を通じて身体能力(感受性もその一部です)を向上させることであって、道徳や倫理そのものを直接教えることとはちょっと違うということになります。

 さて、敵対するものとは徹底的に戦うという資質については、佐倉氏はそれ以上には言及しませんでした。進化論における生物の戦いの歴史、すなわち生存競争の歴史は生命そのものの歴史とイコールです。これを語り始めたらとてものことテレビ番組の枠には納まりきれません。

 それに比べれば人間の歴史、ましてや武術、武道の歴史などは取るに足りないものですが、そのようなちっぽけなものの積み重ねによって億年単位の歴史が作られていることも事実です。生物の進化は完了したわけではありません。ヒトもそうです。気の遠くなるような時間の流れの中で、事実上まったく目には見えませんが、進化は休むことなく進んでいます。逃れるわけにはいきません。

 であるならば、わたしたちとしては、今あるこの時、この地において、そして武道家は武道の縁に依ってひとを大切にすることこそが、その流れに掉さして進化に参加するということなのではないでしょうか。


96≫ 腰投げ

2009-03-13 13:25:40 | インポート

 またまた教えたがりの、今回は腰投げです。近頃は、いずこでもあまり腰投げをやらなくなったように思いますが、気のせいでしょうか。たしかに、投げるほうは腰を痛めそうだし、受け身を取るのも大変ということもあるでしょうが、取り、受けともうまく運べばそれほどしんどいものではありません。

 わが師黒岩洋志雄先生については、ボクシング出身だということや、独特の理論をもって技法を解釈するというようなことは知られていますが、もう一つ忘れてならないのは≪腰投げの黒岩≫と呼ばれていたということです。

 先生の講習の様子を採りあげた市販ビデオ映像でも、腰投げの説明をしておられるシーンがありますのでご覧になった方もいらっしゃるでしょう。どのような状態からでも腰投げを打っていけるというのが、先生のご自慢でもあります。一教の途中からでも四方投げの途中からでも、その他およそ考えつく形から腰投げに入れるというわけです(背後からでも打っていきます)。しかも、その入り方が普通のやり方とは若干違っています。先生が、若い頃に出身高校のレスリング部の練習に参加させてもらったことがあるということは以前にご紹介していますが、そのときのタックルからの気づきの産物であると聞きました。

 わたしも、不肖ながら腰投げの黒岩の(押し掛け)弟子ですから、多少はできていると思っています。とはいっても、入門間もない頃、わたしにとって腰投げはとてもやっかいな技のひとつでした。しかたなく、体力にまかせて担いで投げるといったようなもので、逆にそれを今やろうと思ってもできないしろものです。

 それが、後に黒岩先生と出会い、指導を受けて大幅にモデルチェンジしたところ、それまでのことが嘘のように上手に(自分で言うのもナンですが)できるようになりました。しかも、そうなるとそれまでの一般的な方法でもスムーズに腰投げを打てるようになったのです。技法の勘所がわかったということなのでしょう。

 腰投げには、頭を相手の懐に落としこんで腰にのせる方法と、腰だけを入れて投げる方法のふたつがあります。

 前者は、たとえば正面打ちの合わせの状態から相手の手首を握り、その下に頭を潜らせ、上体を折って腰に受けを載せて投げるやり方です。これは一般的には上体をひねるように折って、自分の背と相手の腹が直交するようなかたちになります。稽古ではこのとき、受けがうまく腰に載ってやる必要があります。載る場所が肩に近くなるほど起き上がるとき腰への負担が大きくなって傷める原因になります。また、あまり頭を下げないままでひねりが大きすぎると相手に背を向けてしまい、柔道の背負い投げのようになってしまいます。そのあたりの按配が難しいのです。

 これを黒岩先生の方法では、(左正面打ちとして)左手で受けの左手首を捕り、ほぼ正面から右足を相手の両足の間に割り込むように踏み入れ、そこから受けのまたぐらに向かって前回り受け身のように上体を前にかがめていきます。そして、右肩が右膝にのるくらいまで頭を下げます。そのようにすると受けの目の前にはこちらの腰だけがありますので否が応でも腰に載ってこざるを得ないわけです。そこから上体を起しつつ左足を前に一歩踏み出すようにすると、受けはこちらの真後ろに落ちていきます。

 この方法は、上体をひねっていないので、腰への負担が小さく、受けにとっても取りの背中をずるずる滑り落ちるように受け身をとれるので衝撃を小さくできます。もっとも黒岩先生は、『本当はここから円く落とすのではなく、脳天から垂直に落とすんですよ』と必殺技法を教えてくださいましたが、決してなさらないように。

 これの注意点は、相手の足元に向かって上体を落とし込むとき、直線的に入っていくと受けと取りの間に空間ができてのしかかられることがありますので、右手の扱いが大事です。この手は当て身のできる手でもあり、裏拳での顔面当てや掌底でアッパーを打つかたちから指先を下に向けて手刀部および尺骨部を受けの胸から腹にかけて接触させたまま滑らせ、さらに前回り受け身のときの手のように落としていけばよいわけです。

 もうひとつの注意点は、受けを担いで投げる感覚ではなく、受けが鉄棒で前回りをしているかのようにこちらの腰を中心にしてその場に落ちるようにすることです。上体を起すとき、こちらの足が固定していると前から後ろに担ぎ投げる感じになりますから、上の例でいえば左足を踏み出してその場からいなくなり、受けが落ちるスペースを作ってやるのです。

 この感覚は、頭を下げずに腰だけを差し入れて投げる方法にも当てはまります。これは、ややもすると柔道の腰車のように、受けを自分の腰を超えて後ろから前に向かって投げるようなかたちになりがちです。そうではなく、合気道の腰投げは、(たとえば左相半身片手取りから)左手で相手の左手首を掴み、四方投げの入りのように受けを少しだけ前に引き出し、両膝を曲げつつ体を《くの字》にして腰だけを受けの前に低く差し入れます。この場合、こちらの腰が高いと腕で相手を抱えて引き上げるかたちになり好ましくありません。腰は相手の腰よりも低い位置に当てます。そして受けの尻のあたり(ウエストではなくヒップ、ここが重心です)に右手を回し双方の体を密着させ、そこから膝を伸ばします。そのようにすると受けの足が床から離れ宙に浮いた状態になりますから、こちらは体を立てつつ受けの右手を離して横に移動します(右足を左に逃がすようにします)。受けはその場にすとんと落ちます。このとき、受けは右手で取りの道着を掴むようにすれば安全に受け身がとれます。

 おおよそ以上のようなものですが、いずれの方法でも、要は腰に載せるという感覚をつかむことが大事だと思います。そして、こちらからあちらに投げるというのではなく、その場に浮かせてそのまま落とすようにすることが、技として有効であるとともに体への負担が少ない方法です。

 そうは言っても、他の技に比べれば取り、受けともに負担が大きいのは事実ですから、多少の無理がきく若いうちに技法を身に付けることをお勧めします。

参考

http://www.youtube.com/watch?v=Vyxbvg4fJ-M&eurl=http://aiki-daisyugo.seesaa.net/article/113835282.ht

 


95≫ 教える人と教わる人

2009-03-05 18:16:13 | インポート

 よく合気道は百人いれば百通りと言われますが(もしかしたらわたしが言っているだけかも)、これは、ある程度のレベルに達した上で個性を生かすということであり、好き勝手にやってよいということではありません。この言葉の上っ面だけを都合よく解釈し、より優れた理合や技法を求めるための努力を怠ってはいないか、自戒を含めて問いかけたいと思います。

 人それぞれ体格も体力も違いますから、みんな同じようにいくものではありません。また、どれが正しいと決め付けられるものでもありません。しかし、明らかに間違っているものはわかります。そういうものは武道の体(てい)をなしていないからです。

 武道の体をなしているかどうかは間合いを見ればすぐわかりますが、さらに合気道の場合は、相手を誘導、操作し、技を仕掛けていくとき、自分から積極的に動いているかどうかで判断できます。

 自分から動くのは当たり前じゃないかと思われる方は正しい方法をとっているのでご安心を。それが、経験が長く段位も上がり、イッチョマエの立場になると、体を動かすのがおっくうなのか、自ら動くのは沽券にかかわると思っているのか、受けが勝手に動いてくれるのにまかせて合理性のかけらもない合気踊りを繰り広げる人が増えてきます。

 ところで、演武や指導風景を動画で観られるホームページが結構あるようです。道場長自ら手を尽くして合気道を広めたいという気持ちが伝わってきて、それ自体は敬意を表します。

 ただ、中には『それ、人前でやらないほうがいいんじゃないですか』と思いたくなるようなものも目につきます。詳細は言わなくても皆さんお分かりだと思います。そういうのを合気道を知らない人が観たら(知ってる人でも)誤解を招きかねません。しかし道場長たる人に『それ違いますよ』とはなかなか言えるものではありません。事実上不可能です。

 そんな映像だけではなく、一般論としても、これはいただけないと思われるような技法が修正されない現状は憂うべきものがあります。合気道愛好者の多くの方は特定の道場で特定の先生に教えてもらっているわけですから、これはすぐれて指導者の側の問題です。

 一方、先日のtoyoshiki様のコメントで、教わり方を知らない人が増えている旨の投稿がありましたように、指導を受ける側にも問題なしとしません。

  本部師範であれローカルの指導者であれ、いろんなところで講習会が開かれていますが、特に公開参加型で規模の大きい講習会ほど、その実が上がっていないというのが正直なところではないでしょうか。参加者が多くて指導者の目が届きにくいということもありますが、習うほうの心構えが定まらないのが大きな理由だと感じます。

 つまり、何を目的に参加しているのかが自分でもはっきりしていないのです。参加することに意義があるというのではお粗末です。講習会では、普段は指導を受けることのない人に習うのですから、百人いれば百通りの理屈からいうと、そうとう異質の合気道に出会うはずです。そこから自分にとって益になるものを貪欲に取り込むくらいの意気込みがあってしかるべきです。万が一、できのよくない指導者(失礼)の場合でも反面教師的な意味での成果もあるはずです(あんなことやっちゃいけないんだな、とか)。

 いずれにしろ、そのような飛躍のチャンスを生かせずに、元の合気道を身にまとって帰る人が多いように見受けられるのは残念です。もっとも、自分の道場にもどったらまた自分の先生の教える合気道をしないわけにはいかないでしょうから、むずかしいことだとは思いますが。このへんが試合のないことの弊害かもしれません。試合があれば何を言ったって強いやつが正しいということになりますからね。

 でも、上達とは、なにも目に見えることだけではありませんから工夫次第では誰にでも達人への道が開かれています。向上心さえ抱き続ければ。

 今回はちょっと批判がましいことを書いてしまいました。まあ、批判精神は合気道にはあまり似合わないのはわかっていますし(その割には批判記事が多いですが)、さらにわたしの場合、自分がネットで映像を使いこなせないので動画付きのHPをやっかんでいるところがなきにしもあらずですから、そのことは割り引いてくださいね。