合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

192≫ なぜ合気道?

2012-11-20 16:45:40 | インポート

 このブログ、他と較べて1回あたりの文章量が多く、そのわりに写真や動画などはごく少なく、そして更新の間隔が長いという、読むほうにしてみればなんとも付き合いづらい構成でありましょう。それにもかかわらず長くご覧いただいている方もおいでで、まことにありがたく思います。

 そんな中、ずいぶん回を重ねるうちに、なかには同趣旨のことを幾度も繰り返している場合があります。わざわざネットとかブログとかという手段を通じて意見を発し、また受け止めていただくという双方の手間を考えれば、そのような重複は極力避けたほうがよいのは言うまでもありません。

 でも、見方を変えれば、重複して採りあげられるテーマというのは、意見を発する側にとって重要なものだということは言えると思います。今回もまたそのようなもののひとつ、合気道の現代的意義について考えてみます。

 わたしの主宰する会のホームページにつぎのような一文を載せています。

【多様な価値観が共存する現代、いろいろな技芸や楽しみごとがある中で、なぜ合気道なのかという問いに正面から向き合い、揺るぎない確かな道を見つけたいものです。】

 そうなんです。わたしもかれこれ40年以上も合気道を続けながら、いまだに本当の答を見出せないでいます。もしかしたら、あした突然合気道と縁が切れても特に困らないのではないか、なぜなら世間には合気道など知らない人のほうが圧倒的に多く、その人たちはそれで十分に幸せな生活を享受しているではないか、そんなふうに思うのです。

 それならわたしたちが今やっている合気道はあってもなくてもよい単なるかりそめの楽しみのためなのでしょうか。そんなことはない、と強く主張するだけの根拠を正直なところ持ち合わせていないようにも感じます。情けないですが。

 現代における武道は、ごく大雑把にいえば他と戦う技術を用いて強健な身体と豊かな精神を作り上げようということで括ることが出来ると思います。それはそれで良いとしても、なぜ合気道かということについては、やはり答えにはなっていません。どんなことにもすっきりと割り切れる答があるというわけでもないのかもしれませんが、不満足感は残ります。

 迷ったときは原点に帰れといいます。わたしたちの原点は大先生でしょう。その言行をもう一度丹念に吟味してみるのが良いのかもしれません。これからしばらく、その作業をしてみようと思います。その成果は逐次本欄でご報告しますが、一回あたりの文章量を少なく、できるだけコンパクトにまとめ、間隔も短くお伝えします。それで今回も短めということで。

 なお、このようなテーマについてはわたしからの一方通行ではつまらないので、皆様もどうぞご意見をお寄せください。場合によっては本欄を提供いたしますから。

 


191≫ 講習会のこと

2012-11-05 16:10:58 | インポート

 先般、このブログでもお知らせしておりました小生主宰の講習会がつつがなく終了いたしました。ご参加いただいた皆様に御礼申し上げます。

 その際お配りした資料に載せた文章の一部をここにご紹介します。

=講習会資料より=

 次のような一文が《合気道技法》=創始者・道主 植芝盛平 監修 * 道場長 植芝吉祥丸 著 * 昭和37年1月25日 発行所 光和堂=という本のなかにあります。

 『植芝盛平翁が、かつて四十年前にこの道を創始した時に較べれば、今日の合気道技法の変化の多種多様であるのはまことに驚くべき進歩発展というべきであるが、将来まだまだ無限に増進して止まないであろう。それは天然の法則に従っているからであって、この道の極まりない進展性を認められる所以である。』

 このように、当時本部道場長でいらしゃった吉祥丸先生(後に二代道主)は本書において、その頃既に、時とともに様々な合気道技法が生み出されつつあることを明らかにしておられ、しかもその状況を肯定的にとらえていらっしゃいます。そして、今後ともそれは続くとおっしゃっています。

 また、大先生(開祖)ご自身『合気道には完成というものが無い。道は無限であり、汲めども尽きぬ泉のようなものだ』というお言葉を残されています。これは修行者の心構えを表すとともに、融通無碍な技法展開をも示唆したものと考えられます。

 わたくしが常々合気道は未完の武道であると言っているのはそのような裏付けがあるからです。合気道は未完であるがゆえに将来に向けて発展、進化する可能性を秘めています。

 しかし現状を見ますと、技法を標準化するのは当然ですが、一方でそれ以外は遠ざけようとする傾向にあるように感じられます。同時に、合気道が本来持っている武術性がなおざりにされ、その結果、動作の内に秘められた働きを知らず、調和の意味を誤解した合気道が散見されます。それでは武道の核心を把握するのは極めて困難です。

 そのような実態を憂え警鐘を鳴らしておられたのが黒岩洋志雄先生でした。合気道は《虚と実》の両方を知っていなければいけない、という先生の教えにしたがい、本講習会では先生がお示しになった事と理(技法と理合)を開陳します。修行者各位がそれぞれの個性豊かな合気道をつくりあげるための参考にしていただければ幸甚に存じます。

 闘争の手段であった古の武術に発した現代武道がいまこの世にあることを許される理由は、その道の人々が、人間として正しくあるためには何をどうしなければならないか、そのことを考え実践するところにあります。合気道こそはそのための最も有効な手段なのだと信じ、本講習会を開催します。=

 と、こういうものです。ほぼこれまでこのブログで言っていることと同じですが、もとの文章はもっと挑発的なものでした。でも、文末の『人間として正しくあるために』というところまで書き進めたところで、少し思い直してこのような文章にまとめました。

 まっとうなことを言っているつもりでも人間性に欠けたら全く説得力がなくなりますからね。思いおこせば、わたしが出会った優れた先生方はみんな人情豊かな方々でした。まねをするならそういうところをまねなければ、いたずらに馬齢を重ねただけの小言幸兵衛か与太郎に成り下がってしまいますから。

 また、講習会の講師をすることで、参加者の方から学ぶことも少なからずあるのです。ひと一人の経験や知識、能力にはどうしたって限りがありますから、それを超えるものを自分に代わってやってこられたような方の存在はとてもありがたいものです。これもまた合気道の徳というものでしょう。勝った負けただけの種目では得がたいものです。結局、一番得をしたのはわたしなのかもしれません。