こんな拙いブログでも、言葉を操っているので、日頃から日本語の乱れについては敏感になっています。
先日、近隣の自治体で市長選挙があり、当選者が挨拶をしている様子がテレビで映されていましたが、そこでの言葉が引っ掛かりました。支援してくれた有権者に向けて『御礼を申し上げさせていただきます』というものでした。この、~させていただきます、というのは最近の政治家がよく使う言い回しです。戦前の最高敬語でもあるまいし、こんなものは『申し上げます』で十分謙譲の意は届くので、ほかの言葉は、言うなれば過剰包装みたいなものです。だいたい、巧言令色鮮し仁という言葉を習わなかったのでしょうか。
でもまあ、この過剰包装、言葉なら聞き流してもさほど害にはなりませんが(わたしはひどく気になりますが)、武道、武術の世界では命とりになります。その一番にあげられるのが我が合気道ではないでしょうか。
いらない、無駄な動きはないか。そんなところに飾りをつけたら自分の動きを邪魔しないか。熨斗を付けるならそこではなくここではないか、といった塩梅で、わたしから見ると過剰包装のオンパレードです。
合気道がそうなる原因のひとつはやはり演武にあると思います。わたし自身があまり演武に重きを置いていないせいもあり、また演武の悪口かと思われる方もいらっしゃるでしょうが、皆様にも是非考えていただきたいと思います。
違う例で考えてみます。来年にせまったオリンピックでは新しい競技がいくつか加えられます。たとえばスケートボードやサーフィンです。この競技は速さや強さを競うものではなく、技術の出来栄えをいかに観客に訴えるかというものです。従来の体操や飛び込み競技などもそうです。順位、評価は審査員の主観、感性に委ねられます。陸上競技の時間(タイム)や重量挙げの重さ(ウェイト)のような客観的数量とは違いますが、これらは、そういうものだとの共通理解があるので競技として成立しています。
そこで、合気道です。合気道の演武には共通理解にもとづく採点法などありません。ですから合気道は競技ではありません。演武者は自分の合気道観にしたがって動きを作り上げています。見る目のある観覧者は、そこから演武者が何を考えているかを探り出すことができます。名人達人は演武で強さを示すことができますが、下手をすれば自分の弱点をさらすこともあるかもしれません。
ですから我が師、黒岩洋志雄先生は演武があまり好きではありませんでした。『誰が見ているかわからないんですよ』と、特に他流の人に技を読み取られるのを大いに恐れておられました。もちろん、わたしの演武嫌いはそんな高等な理由ではなく、単なる演武下手なだけですが。
ところで、わたしは本文において演武ならびに演武者をくさしているわけではありません。演武は合気道において重要な行為です。そして優秀な演武者は自分が演武で何をしているかをよく理解しています。過剰包装も自覚の範囲内です。
そのことを知らず、見た目の素晴らしさだけで、これが合気道の本質だと誤解している人に注意を喚起しているのです。
是非、合気道が武道、武術であることを前提とした演武が広まるのを望みますし、そのような目で演武を楽しんでいただきたいと思います。
先日、近隣の自治体で市長選挙があり、当選者が挨拶をしている様子がテレビで映されていましたが、そこでの言葉が引っ掛かりました。支援してくれた有権者に向けて『御礼を申し上げさせていただきます』というものでした。この、~させていただきます、というのは最近の政治家がよく使う言い回しです。戦前の最高敬語でもあるまいし、こんなものは『申し上げます』で十分謙譲の意は届くので、ほかの言葉は、言うなれば過剰包装みたいなものです。だいたい、巧言令色鮮し仁という言葉を習わなかったのでしょうか。
でもまあ、この過剰包装、言葉なら聞き流してもさほど害にはなりませんが(わたしはひどく気になりますが)、武道、武術の世界では命とりになります。その一番にあげられるのが我が合気道ではないでしょうか。
いらない、無駄な動きはないか。そんなところに飾りをつけたら自分の動きを邪魔しないか。熨斗を付けるならそこではなくここではないか、といった塩梅で、わたしから見ると過剰包装のオンパレードです。
合気道がそうなる原因のひとつはやはり演武にあると思います。わたし自身があまり演武に重きを置いていないせいもあり、また演武の悪口かと思われる方もいらっしゃるでしょうが、皆様にも是非考えていただきたいと思います。
違う例で考えてみます。来年にせまったオリンピックでは新しい競技がいくつか加えられます。たとえばスケートボードやサーフィンです。この競技は速さや強さを競うものではなく、技術の出来栄えをいかに観客に訴えるかというものです。従来の体操や飛び込み競技などもそうです。順位、評価は審査員の主観、感性に委ねられます。陸上競技の時間(タイム)や重量挙げの重さ(ウェイト)のような客観的数量とは違いますが、これらは、そういうものだとの共通理解があるので競技として成立しています。
そこで、合気道です。合気道の演武には共通理解にもとづく採点法などありません。ですから合気道は競技ではありません。演武者は自分の合気道観にしたがって動きを作り上げています。見る目のある観覧者は、そこから演武者が何を考えているかを探り出すことができます。名人達人は演武で強さを示すことができますが、下手をすれば自分の弱点をさらすこともあるかもしれません。
ですから我が師、黒岩洋志雄先生は演武があまり好きではありませんでした。『誰が見ているかわからないんですよ』と、特に他流の人に技を読み取られるのを大いに恐れておられました。もちろん、わたしの演武嫌いはそんな高等な理由ではなく、単なる演武下手なだけですが。
ところで、わたしは本文において演武ならびに演武者をくさしているわけではありません。演武は合気道において重要な行為です。そして優秀な演武者は自分が演武で何をしているかをよく理解しています。過剰包装も自覚の範囲内です。
そのことを知らず、見た目の素晴らしさだけで、これが合気道の本質だと誤解している人に注意を喚起しているのです。
是非、合気道が武道、武術であることを前提とした演武が広まるのを望みますし、そのような目で演武を楽しんでいただきたいと思います。