合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

144≫ 体術は退屈?

2010-12-20 15:57:09 | インポート

 合気道における武器術のあり方について前2回ほど得物考と銘うって思うところを述べました。わたし自身は、体術の精度を高める手段としてその意義を認める立場をとるものです。

 そのための工夫もいろいろなされているようで、その努力は買いましょう。しかし、工夫の産物とはいいながら、なんでもかんでも武器術を採り入れれば良いというものでもありません。だいいち、習うほうからすれば覚えるべきものが増えて苦労します。そういう意味でも、体術の動きと武器術のそれとが、できるだけ一致するほうがありがたいわけで、そこを勘案しない武器術はいくら見た目が格好良くとも単に稽古者の負担を増やすだけです。

 それでも、体術を真ん中に据え、それを支えるためのものという意識でなされるならまだ許されるでしょう。ですが中には体術にフィードバックできない技法もたくさん生み出されてきているようです。なぜそのようなものができてくるのか、そこには2種類の考えがあるようです。

 ひとつは、剣を持てば合気剣、杖を持てば合気杖とはいうものの、実際に剣術、杖術をやってみないことには納得できないので独自に型を作ってみたというもの。今あちこちでなされている武器術はおそらくこのパターンが多いだろうと思います。ただ惜しむらくは、前述のようにそれらのほとんどが稽古者の負担を増やすだけで、根本であるべき体術の精度の向上にはたいして寄与していないように見えます。

 そしてもうひとつが、単に得物を使用して目先の変化を求めようとするものです。つまり、体術に飽きてしまったので剣や杖を振り回して気分転換をしてみようかといった趣きのものです。考案者としては、そんなことはないと言いたいところでしょうが、その当否は体術を見ればわかります。華麗に剣杖を振っているわりには体術がお粗末なんてことが散見していることからも明らかです。

 以前このブログに寄稿していただいた、わたくしの同輩合気道家Tさんは居合道の高段者でもありますが、かつて『だれでも入門間もないころは稽古用模擬刀で満足しているが、少し慣れてくると真剣を使いたがる。でもそれは真剣を使用するのが本道だからというわけではなく、単に稽古刀に飽きてしまうからだ。そのような者はそのうち真剣にも飽きる』と未熟者の心持ちを喝破していました。

 居合道における刀は合気道においては体術です。合気道家がその体術に飽きてしまって剣や杖に入れ込んでも、それは邪道というべきです。何度でも言いますが、合気道家が剣杖を振るうのは体術の精度向上のためでなくてはなりません。

 このようなごく当たりまえのことを、それこそ飽きもせずくり返し言うのは、今の合気道がどこへ行こうとしているのか心配になる、というか理解に苦しむからです。開祖はわたしちが進むべき方向は指し示してくださいましたが、歩むべき道まで作ってくださったわけではありません。道はわたしたち自身が作らなければならないのです。それなのに、折に触れ目にするものはこれが武道なのかとあきれてしまうような形骸化した合気道です。

 わたしたちの合気道があえて競技化しない理由をよく考えてみると良いと思います。『神ながら 合気の技を極めれば 如何なる敵も 襲うすべなし』と大先生が詠まれたからだ、と言っては少々おふざけに過ぎ、お叱りを頂戴するかもしれません。実際には競技化しないのではなく、しにくい、あるいはできないということでしょう。

 人間はメリットがあると思えば工夫を重ねてなんとか形にしてしまうものです。競技化している一部の団体はそこに何らかのメリットを見出したのでしょう。しかし、わたしたちは(正確には、わたしたちの先人は)得られるものより失うもののほうが多いと判断したということです。

 そこで失われるもの、言い換えれば失ってはいけないものとは一体なんでしょう。それこそが、武道が武道である所以のものでなければなりません。それは、本来の意味での真剣勝負であろうと思います。真剣勝負ですから、へたをすれば命を失うか身体の一部を毀損することもあるでしょう。かつまた、手段、方法を選びません。そういう前提に立つのが武道です。蛇足ながら、間違っていただきたくないのは、実態としてそうならなければ武道ではないと言っているのではありません。そのような覚悟と、それを裏付ける技術を伴ってはじめて武道と言えるのだということです。逆に、競技は本質的に娯楽ですからそこまで至ってはいけませんが。

 要するに、武道の本質を守ろうとすると競技化はしようと思ってもできないということです。ここで問題は、合気道は現代武道の中では最も武道の本質に近いポジションにあり、したがって競技をしないことに合理的理由があるにもかかわらず、そのことで、かえって堕落(と言ってしまっていいのか悩むところですが)の道に足を踏み入れようとしているかのごとくに見えることです。ここでいう堕落とは、端的に言えば、必殺技法を学びながらその意味を知らず、したがって殺すこともできないかわりに生かすこともできない、ただの身体運動で終わってしまっているということです。

 上から下まで、合気道技法の(とりわけ体術に秘された)意味を推し量ることなく形骸ばかりを追い求め、そうでなければ武器術に逃げてお茶を濁すばかりで、したがって『どこへ行こうとしているのか』という問いを発し続けないわけにはいかないというのが昨今の心境です。現代における武道文化の担い手がどうあるべきか、よく考えてみる必要がありそうです。


143≫ 松竹梅の剣

2010-12-06 14:06:28 | インポート

 ずいぶん手間取ってしまいましたが、どうにか準備が整いましたので≪松竹梅の剣≫について、動画と合わせてお伝えいたします。

 先にも述べていますように、これは昭和30年代初めに黒岩洋志雄先生(もちろん当時は門下生)たちが見よう見まねで(といっても吉祥丸先生の指導のもと)、合気剣の稽古をしていたところ、大先生がみえて『だれがそんなことをしろと言った!』と叱られ、『おまえたちはこれだけできれば良い』と教えていただいたのが松竹梅の剣だということです。

 ですが、その後これさえあまり伝えられてはいないようで、わたし自身も『松竹梅の剣というのがあるそうですが、どのようなものですか』と黒岩先生に伺って、はじめて教えていただいた次第です。たぶん動き自体が単純で地味なので、当時から現在まで、某先生風の派手な動きに人気がある風潮の中ではあまり見向きされなかったのだろうと思います。

 そこで表される動きは単純なだけに、表面だけをなぞってもあまり価値を感じ取れないかもしれません。言い方を変えれば、その意味を探ろうとしない者には合気道のオマケ程度にしか思えないでしょう。工夫に工夫を重ねた合気剣の体系の中で、大先生が最後に遺した技法ですが、そこに残った物を酒造りにたとえて言えば(あまり上手なたとえではありませんが)原酒とみるか酒粕とみるか、その判断は皆様にお任せいたします。

 さてそれでは≪松≫からです。これは相正眼から打ち太刀(体術でいうと受け)が真っすぐ斬ってきます。仕太刀(取り)は右に体をかわして相手の剣線を避け、こちらも真っすぐ斬り下げます。 [補足] 原則的には同時打ちですが(動画ではそのようにしています)、実際は仕太刀が半拍遅れて、打ち太刀が斬り下げ動作にはいる直前で仕太刀が体移動しつつ振りかぶるようなタイミングになります。

 ≪竹≫です。やはり相正眼で、打ち太刀が振りかぶったところを仕太刀は突いて出ます。 [補足] 仕太刀は真っすぐ出ればよいのですが、これもやはり相手の剣線をはずし、やや右に体をかわしています。

 ≪梅≫です。打ち太刀が突いて出てきたところを、仕太刀は左に体をかわしつつ相手の刀に自分の刀を乗せ、そのまま喉元に向けて擦り上げていきます。 [補足] 刀を乗せて擦り上げる動作を一つの流れでまとめます(1・乗せる2・擦り上げるの2拍子ではないということです)。

 なお、いずれも相正眼ですが、正眼と言うのは最強の護りのかたちですので、そのままでは打ち太刀が打ち込めません。ですから、相手の打ちを誘うために松と竹では剣先をやや右にずらし、こちらの正面にわずかに隙をつくってやります。また、梅では中下段に剣先を下げ、突きの的をつくってやります。

 これらと類似の動作は、いわゆる合気剣のなかの≪剣の合わせ≫として伝えられているもののなかに見受けられます。

 さて、これらを剣術的側面から分析すると、松は、打ち太刀仕太刀の攻撃動作が原則同時で対々の先、竹は、打ち太刀の振りかぶりは攻撃準備動作ではあるが攻撃そのものではない段階でこちらが突いていくので先の先、梅は打ち太刀が突いてきたものに対応するので後の先、ということができます。剣術における≪先≫という概念は、相手が攻めようとした時点で既にこちらが勝っているという大先生の合気道観に通ずるもので、その点も大先生が剣術を組み入れようとされた理由の一つではないかと考えています。

 では動画をごらんください。なお、ここでは松、竹、梅の順で続けて表演しています。

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YouTube: 松竹梅の剣

 

ついでに、松竹梅の剣の動きを合気道の体術に組み入れるとどうなるか、参考までにご紹介します。これは、いわゆる技ではなく、その個別の技にはいるまでの体捌きとして表しています。それらをよく体現しておられたのが西尾昭二先生ですので、先生の合気道をご存じの方は共通の動きに気づかれると思います。

 松の捌きは正面打ち一教に、また竹は横面打ち四方投げ、梅は突きの入身投げに組み入れています。もちろん、受けの側の攻め方(掛かり)に対応する体捌きが主眼ですので、それに続く個別技法はこれに限りません。あくまでも一例です。

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YouTube: 松竹梅の剣 捌きの応用

 以上ですが、本ブログのサブタイトルのように、少しでも皆様の稽古の足しになれば幸いです。

*追記

 本文ならびに本動画に付き、掲載後複数のご指摘がありました。

 ひとつは、黒岩洋志雄先生からご指導を受けた複数の道友から、松と竹の順番をわたしの理解とは逆に教えていただいたというものです。とすればわたしの記憶違いという可能性があります。

 また、別の道友からは、以前に刊行された某武道誌には、引土道雄先生のお伝えになった松竹梅の剣が写真付きで紹介されており、そこではわたしが演じたのと同様の順番で記載されているというご指摘がありました。

 以上のように二通りの解釈があるようですが、黒岩、引土両先生とも大先生から直にご指導を受けられた方ですので、どちらが正しいのかという判断は到底わたしの任ではありません。その点ご了解ください。

 したがいまして、体術への応用につきましても一教と四方投げが逆に表現される可能性がありますので、これはあくまでも参考程度にご覧いただきたいと思います。

 検証不十分の点につきましてはお詫び申し上げます。