合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

⑤ わたしの昔話 その2

2007-02-26 18:22:36 | インポート

 O道場には優秀な仲間、というか先輩が何人かいらっしゃいました。その中の一人Nさんは某大学院で建築を専攻されていて、当時二段だったと思いますが、とても柔らかい体使いをされる方でした。受けが無理なく気持ちよく倒されるような動きのできる方で、現在わたしも、そのような合気道を心がけています。

 Tさんはわたしより少し後に入門されたのですが、わたしと同じ大学の一年先輩です。最も多くいっしょに稽古をした仲間です。彼は高校まで剣道、大学一年の時はボクシングをしていて、基礎体力に優れ、鋭敏な武道センスを持った方でした。Tさんもわたしもまだ白帯のころ、Nさんらといっしょに全日本合気道演武大会に出場したことがあります。そのころは日比谷公会堂が会場で、それなりに賑々しい雰囲気はありましたが、現在の日本武道館での大会と比べるとまだまだ家庭的雰囲気があったような気がします。白帯で道場を代表するわけですから、多少の晴れがましさとたくさんの気負いであふれていたことを思い出します。どんな技を披露するかも自分たちに任されていました。Tさんとふたりで考えて、突きの捌き(月の砂漠みたいですね オヤジギャグです)をしましたが、とりあえず一番下っ端ですから、先輩方にはお褒めの言葉をいただいた記憶があります。

 その少し前くらいから、やはりNさんたちに連れられて西尾先生の稽古に顔を出すようになっていました。東京の滝野川に大蔵省印刷局の工場があり、そこの武道館が稽古場でした。西尾先生は当時大蔵省の職員で、以前からそこに合気会でも最も古い地域、職域の支部を設立しておられました。印刷局の武道館では月に一回、有段者を対象に稽古会を開いていたのですが、わたしとTさんが無理にお願いして白帯で参加させていただいたのです。きっと足手まといだったと思いますが、丁寧にご指導いただきました。演武会での突き技も、実は西尾先生直伝です。

 西尾先生は青森県のご出身で、お酒が好きでした。話し言葉の端々に青森訛りが出て、同じ東北出身のわたしは親近感を持っていました。夏の暑いころ、稽古後に道場近くの居酒屋で、ビールで喉を潤しながら雑談(もっぱら合気道の話題です)している折り、わたしがいずれ田舎に帰って道場を開いたら指導においでいただけますかと尋ねたら、ニコニコしながら『ああ、行ぐよ行ぐよ』とおっしゃっていたのが懐かしいです。

 ところで、西尾先生の稽古に、わたしの大学の合気道の会で副将をしていたM君を連れていったことがあります。例の、わたしが入会し損なった会のメンバーです。学内の別のサークルでたまたま知り合ったのです。その時はわたしも彼も初段でしたが、彼は稽古の途中から息があがって、辛そうでした。帰りがけに、『これまでしたことのないような動きだったので、稽古についていくのが大変だった』と言っていました。わたしはひとにすぐれて体力があるというわけではありませんが、この時は普通に稽古できていました。また、体力に限っていえば学生の会のほうが上だと思っていましたから、なにか不思議に感じました。そういえばTさんも入門したてのころは、『体力には自身があるんだけど、なんか息が続かないな』と、やはり同じようなことを言っていたことがありました。体の使い方が違うと息遣いも違ってきて、持ち前の体力がそのまま生かせないことがあるのですね。長持ちする体使い、息遣いというのも稽古によってもたらされるものの一つということでしょう。

 また、そのころでも西尾先生の合気道は進化を続けていました。例えば、受けに取らせる手の出し方が前回の稽古の時と違っていたりするのです。掌を下に向けて差し出していたのを、次の稽古では上に向けるように指導されるわけですから、こちらは混乱してしまいます。そのようなことがあって、合気道は、これで完成ということはないんだなと思ったりしました。後にこのことを黒岩先生に話したことがあります。その時は『本当は合気道というのは開祖が亡くなった時点で終わったんですよ。あとには○○さんの合気道、△△さんの合気道という個別の合気道が残った。だから技や動きの意味をよく考えて、常に工夫を重ねていかないといけない。そうでない人は自己満足で終わってしまいますから』とお話くださいました。黒岩先生のおっしゃる通りだとすると、当時、西尾先生は四十代後半でしたが、ご自身としては発展途上という認識だったということでしょうか。

 黒岩先生の指導を受けるようになったのは、西尾先生の稽古に参加させていただくようになった一年くらい後ではなかったかと思います。やはり先輩の紹介で錦糸町にある道場に伺ったのが最初でした。初めのころはTさんといっしょに両先生の指導を並行して受けていました。その後、Tさんは西尾先生に、わたしは黒岩先生にとそれぞれ師事すべき先生のもとで別々に稽古をするようになっていきました。三年かけて良師を探せという言葉もあるようですが、このへん、ご縁というものかもしれません。

 わたしはそんなふうな押し掛け弟子で、いい先生についたと勝手に喜んでいました。ですから今でも『選んでいただくのはありがたいですけどね、こっちにも弟子を選ぶ権利はあるんですよ』と言われてしまいます。

 次からまた、黒岩先生に教えていただいた技や話について書いていきます。


④ わたしの昔話 その1

2007-02-22 12:09:05 | インポート

 前回、次は《技》について詳しく述べます、なんて言っておきながら、ちょっとした気まぐれで今回はわたしの合気道入門当時のことについてお話させてください。実は、前の文を読み返してみて、やや肩肘張った感じがしたからです。リキんじゃいけないんですよね、合気道は。少し冷却しましょう、いや、わたしがです。そういうわけで、読んでいただいても参考にならない昔話です。読み飛ばし、無視、可。

 そもそもわたしが合気道に興味を持ったのは、テレビで塩田剛三先生の演武を観たからです。どういうふうに感じたかは、その後合気道を始めたわけですから、まあ、ご想像通りです。それが高校2年生の時でした。当時、このあたりには合気道を教えてくれるところはありませんでしたから、本屋さんに行って合気道の入門書を買ってきました。愛好者はいなくても本は売ってたんです。たまたまそれが塩田先生の著書でした。そして休みの日に友人を誘い、郊外の川原の草の上で、本を傍らにまね事をしてみました。案の定、さっぱりわかりませんでした。これはやはり、きちんと入門しないとダメだな、ということで、その本はお蔵入りとなってしまいました。いまでも持っています。

 そういうわけで、大学に入学するまで合気道はおあずけでしたから、入学後、合気道の会の勧誘チラシを見たときは胸が躍ったのを覚えています。さっそく、それに記されていた連絡先に電話をしてみました。ところが、そこは勧誘担当の学生の下宿先らしく、おばさんが電話に出て『あなた、やめたほうがいいわよ。あの人(担当者)は生活態度がだらしなくて』と教育的指導を受けてしまいました。意気込んで電話してみたものの、みごとに出足払いを喰らいました。まあ、今と違ってケータイなんかの無い時代ですから、しょうがないと言えばしょうがないのですが、下宿の電話を勧誘窓口にしちゃいけませんわな。

 そんなことのあったすぐ後、大学のキャンパスで今度は空手の会の勧誘を受けました。合気道のほうはズッコケてしまったし、声をかけてきた人が、気の良さそうな人だったので、そのまま空手に入会しました。なかなか居心地の良い会でしたが2ヶ月ほどしか在籍しませんでした。なぜかというと、ある日、いつも威張っている副将格の某氏が目のまわりを黒くしてきたのです。本人には訳を聞けないので、別の上級生に聞いたところ、飲んでケンカして、どこかのシロートに殴られたらしいのです。即、退会届を提出しました。もちろん、わたしがですよ。

 ついでの話。そのころ(今もでしょう)新入生歓迎コンパと称して、未成年である1年生(必ずしも未成年とは限りませんが)も無理やり酒を飲まされる行事がありました。わたしは18歳で正真正銘酒未体験でしたから固辞したのですが、許してくれません。それで、しかたなしに飲んだら、オヤジ譲りというのでしょうか(こんなところばっかり似る)、いくらでも飲めたのです。その後長い付き合いになる酒との出会いでした。しまいには飲みつぶれた例の副将を電車で下宿まで送っていきました。そのとき同期入会でヘナチョコを絵に描いたような仲間が、やはり飲みすぎてひっくり返っていました。彼とは2年生の体育で柔道を選択した時もいっしょになりましたが、やはりヘナチョコぶりは変わりませんでした。そのうえ柔道の授業に空手着で来て、教授に油を搾られていました。そんな彼も4年後には髭をたくわえて偉そうにしていましたから、ま、それなりに大したものなんでしょう。彼には飲めば勝てる(これも兵法)。それでも、ほんのわずかながら、その時の空手の稽古は貴重な経験でした。

 また振り出しに戻って、合気道の、こんどは町道場を探すことにしました。6月にもなり、大学内の会に入会するには時期を逸していたからです。それで、本のご縁もあったので、はじめに塩田先生の養神館に見学に行きました。当時は代々木にあったかと思います。つぎは合気会本部道場に行ってみました。どうせなら足の便の良い所にしたいと思っていましたが、そういう意味で言うと、どちらもいまひとつという感じでした。入門先を選ぶ規準としてはふざけた理由ですが、どうせわたしの眼力では中身なんて分からないのですから。さらに、この当時わたしは川崎の叔父の家に居候しており、大学まで1時間以上かけて通っていましたから、通学経路から遠くないところがいいと思っていました。

 そうこうしているうちに、偶然、大学の同級生が下宿している家の近所に合気道の道場があるということがわかり、彼に様子を尋ねてみました。詳しくはわからないから調べてみるということでしたが、数日後、彼は抜け駆けで入門していました。『オレが言い出しっぺだろうよ』てなわけで、あわててわたしもそこに入門したわけです。それがO道場で、わたしと合気道のめでたい(おめでたい?)出会いでした。O道場は大学から都電で10分くらい、帰りは山手線の最寄駅まで徒歩で5分もかからない所で、川崎からは遠くなるのですが、バスを使わず、あまり歩かなくてよいというのが決め手でした。この、まことにいい加減な道場選びが、実はわたしの合気道修行に願ってもない環境を与えてくれました。 

 O道場では曜日、時間ごとにいろいろな先生が指導をしておられました。本部道場からも、いまではおそらく最高齢の師範ではなかろうかと思いますが、奥村繁信先生や、現在本部で中核をなしておられる鳥海幸一先生などがおいでになっていました。また、年に2回の審査には吉祥丸道主が審査長としておいでになり、審査後には演武をご披露されるのが通例でした。ここの道場長は戦前の明治大学柔道部の出身で、従軍記者などをされていた方でした。合気道歴はそれほど長くなく、また当時少々体がご不自由ということもあり、訓話はよくいただきましたが、ご自身で指導されることはありませんでした。そのかわり、後輩にあたる篠巻、岩釣といった柔道全日本選手権王者クラスの人たちが参考演武を披露しに来られたことがありました。また、合気道の稽古が休みの日には新陰流剣術の稽古がなされていました。あの時並習しておけばよかったと、少し悔いが残っています。道場内に『一年の計は花を育てよ 十年の計は木を育てよ 百年の計は人を育てよ』という張り紙があったのを覚えています。はたしてわたしは育っているのでしょうか。

 さて、わたしがO道場に入門したころには、西尾先生も黒岩先生も指導においでになっていたわけではありません。それよりずっと前に来られていたということで、そのころからの会員が先生を慕って個人的に出稽古に行っていたのです。後にわたしもそのような先輩の紹介により、両先生の稽古に参加し始めたわけです。O道場のいいところは、だれかに気兼ねすることなく、よその道場に出稽古に行けることでしょう。ですからわたしも、ひところは1週間に8回、都合5箇所で稽古したことがあります。わたしはO道場に入門したおかげで、優れた先生方、良き仲間と出会うことができたわけで、実に幸運だったと思っています。


③ 強さということ

2007-02-17 18:34:02 | インポート

 武道において《強さ》というものは第一義的な価値であろうと思います。『強くなければ意味がない』というのは一面の真実です。もちろん武道の存在意義はそれだけにとどまるものではありませんが、ここを避けて通るわけにはいきません。では、強さとはどういうものか、何をもって強いとか弱いとかいうのか、このことを少し考えてみたいと思います。なお、高尚な精神論は出てきませんのであしからず。

 異種試合というのがあります。例えば、合気道と柔道ではどちらが強いか、空手と少林寺拳法ではどうか、あるいはボクシングとレスリングではとか、世界中の武術のなかでは何が一番強いんだろうとか、興味ありますよね。明治のころには武術興行で薙刀の園部秀雄女史(わが郷土のご出身です)が名だたる剣術家をうち負かしたという事実もあります。プロレスのリングの上では柔道出身の木村政彦と大相撲出身の力道山の対戦(力道山の勝ち)、アントニオ猪木対モハメッド・アリ(引き分け)というのもありましたね。ボクシングの世界フェザー級チャンピオンにもなった西城正三がキックボクシングに転向し藤原敏男(日本王者、後ムエタイ王者)に挑戦したこともありました(西城の完敗)。猪木対アリ戦は特別ルール、木村対力道山、西城対藤原はそれぞれ純然たるプロレスルール、キックボクシングルールで行われましたが、対戦者の出自の違いが興味をひきました。

 ところで、ルールというのは競技に一定の制限を課するものですが、異種試合における特別ルールを決めるのは相当苦労するでしょうね。しかもどれほど工夫してみても両者に完全に中立のルールというのは事実上ありえません。それぞれ別種のルールの項目ごとの重要度や意義を数量化できないからです。だから、まったく別のルールを持つ新種の競技と考えるほうが正しいのかもしれません。それなら、その競技の枠内においての勝者,敗者を決めることはできます。もちろんこの場合でも、出身種目の優劣を決めつけることはできません。あくまでも個人対個人の結果でしかないわけですから。

 いずれにしろ、ルールは競技における勝敗を決める役割を担っています。そしてもうひとつ、ルールは選手の生命を保障するという役割も持っています。競技としての武道、格闘技は命の遣り取りを意図していません。当然のことです。そのため多くの禁じ手が定められています。安全性の上に立って優劣を競うわけです。だから負けても再戦が可能です。

 ところが、わたしたちの合気道のように競技化されていないものでは、そもそもルールがないのです。言い換えれば無制限ということです。じつはこれこそ絶対中立のルールなんですがね。本来、武道が目指していたのは競技上の勝ち負けではなく、命の遣り取りの場において身の安全を確保する方法です。場合によっては負けは死を意味しますから、何がなんでも負けるわけにはいかない。勝たなくても良いから負けてはいけない。これが武道としての合気道が想定している状況であり、求められるのはそこでの強さではないかと思います。

 ちなみに、合気道の世界にもルールを定め競技方式を取り入れている団体があります。開祖に大正末年に入門された高弟 富木謙治先生が始められた流派や塩田剛三先生の門から出られた櫻井文夫氏が創始した流派などが知られています。彼らは武道であることを前提に競技を設定しているわけですが、わたしたちは武道であるがゆえに競技できないと考えています。この手の論争は、幕末の一刀流中西道場において、竹刀稽古が盛んな中で型稽古にこだわった寺田五右衛門の例もあり、永遠のテーマなんですかね。とは言え、ややもすれば合気道というビッグネームに安住しがちな自分を省みる時、それらの競技化の理念には傾聴すべきものがあることも書き添えておきます。

  《強さ》を語るとき忘れられない思い出があります。ちょうど東京での学生生活を終えて郷里に帰ろうというころでした。これから師のもとを離れて、ひとりで稽古を続けなければならないような状況で、何がしかのお墨付きがほしかったのだと思います。それで黒岩先生に尋ねてみました。『合気道は本当に強いんですか?』と。なんと失礼な質問でしょうか。いまに思えば赤面の至りですが、その時はわたしも若く、武道をかじる者として切実な問題だと思っていましたから、臆面もなく訊いてしまったんですね。合気道だから合気道らしく、合気道家だから合気道家らしくという思いが強かったのでしょう。

 そのとき頂いた答えは次のようなものでした。『あなたの家は建築関係の仕事だからドライバーくらいいつでも持っているでしょ。万が一のときは合気道で練った体でそれを自在に振り回せばいいんですよ。普通の人が振り回すのと全然ちがいますから』。わたしはこの言葉で合気道の呪縛から解き放たれたような気持ちがしました。いや、本当の合気道家になれそうな気がしたというほうが正しいかもしれません。先生のおっしゃったことは、合気道家が繰り出す技は、どんなものであれ合気道なのだという意味に受け止めました。合気道の強さはそこにあると。この理解がまんざら的外れでないことは、次の逸話からもわかります。

 先生がまだ若かりしころ、本部道場にも、いわゆる道場破りのような者が来ることがあったそうです。門人の中には自分の力を試してみたくて、自分が受けてたつという猛者が幾人もおられたようです。西尾先生もその一人で、丁寧に?お相手されたそうですが、その際『きょう来たやつは柔道経験者だから柔道の技で決めてやった。この前のやつは空手出身だそうだから空手の技で決めた』というようなことをおっしゃっていたとのことです。西尾先生は合気道以外にも各種の武道を修行された方で、事実その通り始末をつけられたようですが、黒岩先生はそのことについて『西尾さん、それは柔道を生かした合気道、空手を生かした合気道というものですよ』と話されたということです。

 話は変わりますが、野球のボールをストライクゾーンに時速150kmで投げられるピッチャー(わたしの頭の中では江川)が石つぶてを持って迫ってきたらどうしますか。事実、島原の乱の折り、原城総攻撃に参加した剣豪宮本武蔵は城兵の投げた石がスネに当たってケガをしたことが知られています。また、スラッガー(これは王さん))がバットを構えたところ(真剣素振りで鍛えたフラミンゴ打法)に挑んでいけますか。あるいはマラソンランナー(瀬古かな)やスプリンター(カール・ルイス、みんな古くてすみません)があなたの頭かどこかをポカリとやって逃げていったら追いかけて捕まえることができますか。他にも体操選手やラグビー選手など、戦う相手にしたくないスポーツ選手はたくさんいます。彼らは武道や格闘技なんかちっとも興味がないかもしれませんが、ある状況においては半端な武道家では到底かなわない戦闘技術を持っていますよ。

 では、わたしたち合気道家は何をどうすればよいのでしょう。それは、ひとつひとつの技を、体を練るための《手段》あるいは《道具》とするのです。何々の技ができたから上達したとかいうように技をありがたがってはいけません。相手を倒すために技を使うのではなく、体を練るために技を使うのです。練って練って練り上げられた体なくして強さは生まれてきません。そのための技です。

 次は、その《技》についてもう少し詳しく述べてみたいと思います。


② 赤イワシのこと

2007-02-10 15:01:38 | インポート

 <合気道の本質は闘争のための技術である>。本質なんて、わかったようでわからない言葉を使ってしまいましたが、実際の中身くらいの意味です。これがわたしの合気道に関する定義です。合気道に限らず武術、武道全般にいえることだと思います。

 しかしながら、このような定義について違和感を持たれる方も多いのではないでしょうか。他の武道はいざ知らず『合気道は愛の武道であり、稽古を通じ人格を高めるなかで、むしろ争いを無くし平和な世界の実現を希求するものだ』と。はい、そのことにわたしもまったく異論はありません。でもそれは合気道の理想とするところ、あるいは目的であって本質ではありません。

 因果という言葉があります。ものごとの種とそこから産み出される成果のことです。合気道においては、本質たる闘争技術が種、世界平和はその成果です。そこを混同してしまうと大切なものが見えなくなります。闘争技術、有り体に言えば人殺しの技です。まあ、そう言ってしまうと身も蓋もありませんが、それを一所懸命学ぶことによって、この世に開祖の説かれた〈愛と和合〉を実現させる。まことに逆説的ですが、現代社会に合気道はじめ諸々の武道が受け入れられるためにはこのような論理の組み立てが必要なのです。

 このことは戦後しばらくの間、GHQによって武道禁止令がしかれ、後に解除されたことからも明らかです(1945~1950)。それを撤廃してもらうため、武道関係者は『武道は闘争のための手段ではない。心身を練磨し、新しい民主国家の建設に取り組む有為の人材を育成するものである』と言わざるを得なかったのです。

 それはそれで結構。しかし、それで武道の牙を抜かれてしまったら、すでに武道ではありません。合気道は動く禅だといわれます。舞いのようだともいわれます。でも、禅とも舞いとも明らかに違うのは、合気道は牙をもっているということです。

 前置きが長くなってしまいました。ここから『赤イワシ』の話ですよ。

 この言葉は黒岩先生に教えていただきました。赤く錆びついて物の役に立たなくなった日本刀のことです。形がイワシみたいだからですね。どんな立派な鞘に納められていてもただ腰の重しになるだけで刀本来の価値のないものです。先生は合気道を赤イワシにしてはならないとおっしゃっています。

 刀はもともと人を斬るために作られたものです。しかし、現代日本において実際に刀で人を斬るなんてことは、すくなくとも武道としては考えられません。それでも剣術、居合術の世界では人を斬る技術がしっかり伝承され、それを日々稽古している人がたくさんいらっしゃいます。斬ろうと思えばいつでも斬れるように、腕を磨き刀を磨いているのです。一生の間、おそらくはただの一度も人を斬ることがないであろうことを百も承知でです。さらに現代に限らずとも、幕末・維新の傑物、山岡鉄舟は一刀正伝無刀流を創始したほどの剣客ですが、生涯一度も人を斬らなかったことを誇りにしていたということです。

 さて、翻って合気道はどうでしょう。〈愛と和合〉が一人歩きして牙を抜いて回ってはいないでしょうか。これがすなわち〈赤イワシ〉です。覚悟も技術も拙く、戦いを想定しない武道は、はたして存在意義があるでしょうか。それならあえて武道でなくていいではありませんか。

 こう言うと、どこからか好戦家、危険思想の持ち主と揶揄する声が聞こえてきそうです。さらには、そこまで言うなら〈なんでもあり格闘技〉にでも出場してみろというからかいも出るかもしれません。1でなければ0、右でなければ左、じつに現代的、デジタル的ではありますが、どうもそのような人は振り子の振幅が大きすぎていけません。わたしはそれらのいずれにも与しません。最初から言っているように、わたしが述べているのは合気道の本質についてであり、そこで触れている闘争とは、生き延びるためのやむを得ざる選択であって、机上の論や娯楽的スポーツとは一線を画すものです。

 刀の話のついでに言っておきます。剣術では刀を作る人と使う人は別ですが、合気道では刀たる技と、その使い手は同一です。刀は切れ味が悪くなったら研ぎ師に頼めばまた使えるようになりますが、合気道の技の切れ味は自分で高めていくしかありません。その時に間違った方向に向かうと、とても妙ちきりんな合気踊りになっちゃいますよ。せっかく合気道を修行しているのですから、使える合気道を身につけたいものです。そして、それを使わずにすむ人生を歩みたいものです。

 なお、誤解しないでいただきたいのですが、合気道の技一つ一つが使い物になると言っているわけではありません。これは技術論になりますので項を改めます。


① はじめまして

2007-02-02 18:09:27 | インポート

 はじめのご挨拶

 皆さんこんにちは。私のブログにようこそ。

 日ごろ合気道の稽古を通じて考えていることを何らかの形で同好の方々にお伝えしたいと思っていました。そこで、ちょっと難しそうだけど楽しそうなので(合気道みたい)ブログというものを開設してみました。こんな拙い文章でも、どなたかに読んでいただけるものでしょうか。随時書き加えていきますので、まずはよろしくお願いします。

 尚、当然公開を前提にしていますので、特定の個人や団体の名誉を損なうことのないように注意を払っていきますが、もし不適切な表現に気づかれた方は、どうぞお知らせ願います。また、他からの引用については出典を明らかにするつもりですが、だいぶ以前に知ったことで出所が定かでないものについては失礼があるかもしれません。その節はご容赦ください。

 さて、ここでは私が好きで修行してきた合気道とそれをとりまく人間模様などを紹介していきたいと思います。技の意味合いなど技術的なことにも触れていきますので、現在合気道の稽古をしておられる皆さんに少しでもお役に立てば(余計なお世話かもしれませんが)嬉しいです。また、今となっては昔話の範疇に入るようなエピソードも紹介します。また、合気道とは直接関係のないかたもお読みくださるかもしれませんので、経験者にとっては言わずもがなのことも触れていきますのでご了解くさだい。

 私自身は、学生時代、昭和46年から東京都内の(財)合気会本部直轄の道場(仮にO道場としましょう)で5年ほど修行し、帰郷後、東北のある地方都市で指導かたがた稽古を続けています。

 そのO道場に在籍中、先輩に連れられて他のいくつかの道場に出稽古に行きました。とりわけ、今は亡き西尾昭二先生や、現在も時々ご指導を仰いでいる黒岩洋志雄先生の稽古に参加できたことは私の大きな財産となっています。特に黒岩先生との出会いがなければ、帰郷時に合気道とは縁を切っていたのではないかと思っています。そのような環境で身につけたもの、またそれをもとに自身で気付いたものなどを書き連ねていこうと思います。なお、このブログで紹介していくつもりの事どもの多くは、これら先生方の教えに基づくものですが、文章に表されたものは私なりの理解の産物ですので、当然ながら文責は全て私にあります。

挨拶だけではナンですので 黒岩先生のこと その1

 私が師事している黒岩洋志雄先生については、ご紹介すべきことがたくさんありますので、何回にも分けてお話しますが、初回は段位について。

 先生は昭和7年生まれで、剣道、ボクシングを経験の後、あるできごと(いつか紹介するかもしれません、ちょっとデリケートなもので)をきっかけに合気会に入門されました。合気道六段です。合気会本部でいわゆる師範とよばれるのは六段からですので、段位に限っていえばぎりぎりのところにいらっしゃるわけです。合気道開祖 植芝盛平先生の直弟子で現在も指導をされているかたの中ではもっとも段位が低いのではないかと思います。

 合気会の段級位授与が現在のような制度(規準を定めて審査する)になる以前、昭和30年代頃までは、開祖や植芝吉祥丸本部道場長(当時、後に二代道主)が各人の修行の進み具合を見て、適宜授与していたそうです。そのなかで黒岩先生と同期の皆さんが次々昇段していくのに先生は頑なに段なんかいらないと断っておられたそうです。段位の意義については人それぞれ考えがあるでしょうから、一概にどちらが正しいということは決められませんが、もともと名誉や肩書きには興味が無く、実力本位のかたですので、だいぶ長いこと固辞されたようです。その後、先生が指導的立場になるに及んで、それにふさわしい段位を受けざるを得なくなったということでしょう。それでぎりぎりの六段です。『黒ちゃん、たのむから段をもらってくれよ、下の者が困ってるからさー』とは吉祥丸先生のお言葉だそうで。

 また、それより少し後、合気道を広く普及しようという会の運営政策上、本部外の修行者の段位認定を比較的ゆるくしていたようです。その結果、本部から各地の道場へ指導に赴く若手指導員より、稽古をつけてもらう人のほうが段位が上という状況が出来しました。そうなると、若手指導員の方針にすなおに従ってもらえないし、格好がつかないということで、自分たちの段位を上げてほしいという声が大きくなったということです。この点について黒岩先生は、いわゆるプロの指導者と一般の稽古者との段位の種類を分けてはどうかという提案をされています。プロはみっちり稽古を積んで、しかもやたらに段を上げないようにするのです。『相撲だって将棋だってプロとアマでは力量に圧倒的な差があるでしょ』とおっしゃっておられます。

 さて、段位についてのこぼれ話をもうひとつ。

 江戸川区合気道連盟という素敵な団体があります。ここでは毎年6月の末に演武会と講習会を開催しておられます。講習会の講師には毎年黒岩先生があたられますが、何年か前の大会プログラムに『講師 本部師範八段 黒岩洋志雄先生』 と紹介されていました。この連盟の代表の石井輝先生は若いころ黒岩先生の一番のお弟子さんで、したがって実力も相当なものと拝察いたしますが、その大会当時すでに七段でいらっしゃいました。そこで私の愚かな頭で考えますに、石井先生はご自分の師匠を六段とは紹介しにくかったのでしょう。

 ここで終わっていれば八方まるく納まるのでしょうが、それで済まさないのが黒岩先生です。『あのー、わたくし八段と紹介されていますが、本当は六段ですからお間違いなく』これで石井先生のご配慮がぶっ飛んでしまいました。そういうかたなのです、かの先生は。