合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

38≫ 目標

2007-09-27 16:26:07 | インポート

 1990年12月、わたしは当時現役のF-1ドライバー 中嶋悟氏とお会いし、懇談する機会をもったことがあります。わたしの友人がたまたま中嶋氏と高校の同級生ということで、わざわざ当地においで願ったのです。そのころはアイルトン・セナとかアラン・プロストなど綺羅星のごとき名ドライバーが覇を競っているころで、中嶋氏も幾度か入賞を果たしています。

 懇談の中で中嶋氏は、わたしのような素人の質問には平易に、レースやトレーニングにいささか知識のある者の質問には専門的に、いずれも丁寧に答えてくださいました。レーサーというのはわたしたちが想像する何倍も過酷なトレーニングを重ね、やっとひのき舞台に立てるのだということを知りました。そんな中で、わたしは実に愚かな質問を投げかけました。それは、明らかにマシンの性能が違っていて上位の成績を望めないチームがいくつもあるが、それでも出場をやめないのはなぜか、というものでした。それに対して、『負ける者がいないと勝つ者も出てこないでしょ』と笑い、続けて『まあそれは冗談ですが、レースが好きだからです。そのために多くのスタッフがそれぞれの能力の限りを尽くすんです。勝てばもちろん、負けてもそれだけの価値があるんですよF-1には』と話してくださいました。プロの世界ですからきれいごとだけでは済まされないこともたくさんあるでしょうが、彼にはトップクラスのアスリートが醸し出す爽やかさを感じました。ついでに言うと、『箱根の峠道を、相手がフェラーリでもぼくはシビックで負けませんよ』といたずらっぽく笑っておられました。

 この話、あまり合気道と関係なさそうですが、案外そうでもないんです。やる以上は最高のものを求めたいというのは当然の欲求です。彼ら(中嶋氏はじめチームのスタッフ)はその最高のものがどういうものであるか、きちんとイメージできているのです。それに向かって一つひとつ努力を重ねていくわけです。

 反対に、それがわかってないと、何をどう努力すれば良いのか、方向性が見えてきません。現在の合気道界が置かれている状況は、なんかそんなふうに思われます。現代武道の中では比較的伝統武術的な香りを持つ合気道ですが、正真正銘の古武道のような様式を持ってはいませんし、いわゆる実戦空手とか総合格闘技のような競技合理性があるわけでもありません。武道といいながら健康体操で満足しているかのような現状は、本来の目標と言えるのでしょうか。合気道に親しむ個々人の目的は、いろいろあってよいのです。ただ、野球をしたいのにソフトボールをやらされているような、サッカーをしたいのにラグビーをやらされているような、似て非なる合気道をしてはいないでしょうか。

 さてそれでは最高の合気道とはどういうものでしょうか。極論を言えば、大先生の合気道です。もちろん誰も同じようにはできません。でも、まぎれもなくわたしたちが目指すべき目標ではあります。遥かな道のりですが、そのための道標があります。かつて本部道場に掲示されていた≪合気道練習上の心得≫という文言がそれです(今でもあるのでしょうか。わたし自身は見たことがありません。あまり本部には出稽古に行きませんでしたから)。

一、合気道は一撃克く死命を制するものなるを以って練習に際しては指導者の教示を守り徒に力を競ふべからず

二、合気道は一を以って万に当るの道なれば常に前方のみならず四方八方に対せる心掛けを以って練磨するを要す

三、練習は常に愉快に実施するを要す

四、指導者の教導は僅かに其の一端を教ふるに過ぎず之が活用の妙は自己の不断の練習に依り始めて体得し得るものとす

五、日々の練習に際しては先ず体の変化より始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す然る時は如何なる老人と雖も身体に故障を生ずる事なく愉快に練習を続け鍛錬の目的を達する事を得べし

六、合気道は心身を鍛錬し至誠の人を作るを目的とし又技は悉く秘伝なるを以って徒に他人に公開し或は市井無頼の徒の悪用を避くべし

 いかがです、楽しく丁寧な稽古を通じて強力な武術(合気道)を身に付けようということですよね。その人こそ至誠の人であると、そういうことです。稽古に臨むとき思い出してみてください。


37≫ 工夫

2007-09-16 15:40:07 | インポート

 合気道の稽古は、きめられたカタをきちんと何回も何回も繰り返すという方法をとっています。正しい動きを身につけるためにはとても優れたやり方です。他の武道も同様で、かつての柔道王 木村政彦氏は立ち木を相手に背負い投げの打ち込み稽古を何千回何万回と繰り返し、背中から腰のあたりの皮膚が上から削いだようにめくれていたということです。合気道の場合は立ち木を相手にというわけにはいきませんから、だれかに受けをとってもらって稽古するわけですが、ここでの問題は、取りの動きが多少間違っていても受けは善意で技にかかってあげるということです。

 一般的な人間関係においては、細かいことに目くじらたてず、相手をたてるということは美徳とされますが、稽古事においてはそれは必ずしも正しい選択ではありません。それでは馴れ合いになってしまいます。このことはよく言われていることですから、みなさんも注意しておられることと思います。

 基本的に、取り、受け双方の共通理解のもとに稽古は進められますが、それでは逆に、受けのほうが対応を誤った場合はどうしていらっしゃいますか。間違いを指摘するのは構いませんが、考えようによっては、事実として相手がそのようなカタと異なる動きをしてくる可能性も大きいということですから、そこでなんらかの対策を講ずることも考えねばなりません。あなた間違っているから直しなさい、と言うことは簡単です。しかし、相手の動きがこちらの予想と違ったら為す術がないというのもなんだか情けない話です。向上心のある人ならなんとかこの事態を切り抜けようと考えるでしょう。ここに、きまったカタを持つ武道といえども、≪工夫≫の生まれる余地があるのです。

 どのようにして、基本の動きを生かしながら、変化に対応するかを工夫するわけです。しかも、直面する変化、課題の違いによって、技の、あるいは動きの違いが無数に生まれてきます。多くの先達はこのことに腐心しながらそれぞれの合気道を確立してこられたのだと思います。百人いれば百通りといわれる合気道の個性はこのようにして生まれてきたのです。

 生み出された変化技は、ある意味、その発案者の独占的所有物ですが、普遍性があれば基本の技に順ずる技として市民権を得るでしょう。しかしそのためには、技が生まれた背景について、発案者が合理的に説明する必要があります。完成されたカタを伝えるだけでは、いずれ廃ってしまうのです。外から見える形だけではなく、理が伴わなければだめなのです。なぜなら形はその人一代のものですが、理は綿々と続くからです。

 敬愛する黒岩洋志雄先生の合気道においては、≪タテの崩し、ヨコの崩し理論≫≪串刺しダンゴ理論≫等。同じく敬愛する故西尾昭二先生においては≪入身理論≫がその代表でしょうか。理屈があるから後に続く人が困らないのです。

 いくら見た目がカッコ良くても、そこに合理的な理論の裏付けがなければ、ただの踊りです。こうするとうまくいくよと教えることのできる方はたくさんいらっしゃいます。しかし、なぜそうするのかということをきちんと説明できる人はあまり多くないように思われます。しかも説明の中には、どう考えても思い込みにすぎない不合理な理屈もたくさんあります。塩田剛三先生のように教わった技を街に試しにいくわけにもいきませんから、机上でも畳上でも、よくシミュレーションをして合理性を証明する必要があるでしょう。

 今回のテーマにいくらか関係するかもしれませんから、最後にひとつだけ付け加えておきましょう。例えばです、通常の稽古において、手は掴まれた状態から始まることが多いのですが(手取りといいますからね)、本来、手は掴まれるものではなくて掴むものです。その場合、掴む対象が相手の手なのか、着衣なのか、武器なのかによって違う技であると認識されるのが普通だと思います。しかし、黒岩先生は、掴まれる技はそのまま同じ動きで掴む技に変換できるし(できなければいけない)、むしろそれが本来の形だと教授されています。さらに、武器を取れば、体術での腕の動きがそのまま武器の動きになることを示してくださいます。このことは以前のブログで触れたかもしれませんが、ここで申し上げたいことは、このような理論を黒岩先生は大先生や吉祥丸先生に教えていただいたわけではないということです。通常の稽古をする中で、疑問に思ったことや不合理だと感じたことを解明しようという意思が、いわゆる黒岩理論を作り上げたのです。試合のない武道であるからこそ、このような工夫が不断に続けられなければならないと思っています。わたしもみなさんも。


36≫ トレーニング

2007-09-09 13:49:26 | インポート

 ダイエットに人気がありますね。各種のエクササイズや食べ物、振動ベルトや乗馬スタイルの機器の類まで、まさに百花繚乱。皆さん喜んで励んでいらっしゃるのだから結構なことです。まあ、痩せたかったら無駄喰いしなきゃいいだけのことなんですけどね。

 いろいろ試して、やっぱりダメだったなんて人もたくさんいらっしゃるようですが、これほどまでに関心が集まる一番の理由は、やはり健康志向がこれまでになく強くなっているからでしょう。生活の質を高めたい、それにはまず健康でなくては始まりませんからね。ですからダイエットに関心が集まるのは悪いことではありません。でもそれが行き過ぎると、健康教とでもいうべき偏った思い込みに陥ることもあります。『健康は命よりも大切だ』なんてね。以前に変な健康食品がはやり、かえって体を壊したという出来事もありました。顔面美容器がトラブルを起こしたこともあります。

 少し冷静になって考えてみれば、すぐに痩せたり、すぐに体質を改善できる方法なんていうのはありえないということくらいは気付くはずなんですけどね。その点、合気道に励んでいらっしゃるこのブログの読者の方は最良の選択をなさっておられるわけです。なんてったって合気道は美容に健康に精神修養に、そしてもしも運が良ければ戦いにも勝てるかもしれませんから。ただ、合気道は基本が二人稽古ですから、一人のときはどうしようと考えていらっしゃる方も多いと思います。実際わたしも、何人かの方から一人稽古の方法について質問を受けたことがあります。空手や太極拳のように一人用のカタがあればいいのですが、合気道のカタをひとりでやっても、なんだか間が抜けた感じなのは確かです。それであれば、一人稽古はカタにこだわるのではなく、基礎的な体力作りに振り向けてみてはどうでしょうか。

 筋力に頼らないのが合気道の特徴だと言っても、武道である以上、使える筋力があるにこしたことはありません。そのための基本的なトレーニングは各種スポーツに共通のもので構いません。黒岩先生は足腰の鍛錬にはスクワットを勧めておられます。また腕の鍛錬のために木刀振りをするのであれば、刀であることをちょっと忘れて、剣先を両手で持って(そうすると先の方が重くなるので)∞の字に振り回すのが良いと教えていただきました。腕の筋力と手首の柔軟性を養うことができます。全身鍛錬にはレスリングが良いともおっしゃっていますが、なかなかそんな機会と場所には恵まれませんから、準備体操のようなものを地道に続けるのが結局一番効果的かもしれません。

 ダイエットにしろトレーニングにしろ、大事なことは続けるということです。体力には大きく分けて瞬発力、持久力、柔軟性とありますが、健康を考えるのであれば、そのうち持久力が第一ではないかと思います。であればなおさら続けることが大事です。それを日常の稽古に生かしていくと、合気道もどんどん上手になります。ちょっとだけ自慢話をしますが、稽古仲間から『教えてもらった通りやっているつもりだけどうまくいかない。いったい何が違うのか』と聞かれることがあります。わたしは『あえて言えば年季が違う』と答えます。でもこれ本当ですよ。どなたでも長くやればやっただけ上手になります。もちろん、そうでなければ誰も稽古なんてしないでしょうけどね。

 要するに、長く稽古をするということは、いろいろな気付きに出会うということです。それをうまく稽古に取り入れていけば、どんどん上質なものに変わっていきます。わたし自身、最も体力に自信のあった学生時分よりも今のほうが圧倒的に上等な合気道を体現できます。ですから、前にも言いましたが試合のある種目のように、2,30歳台で現役引退、その後は指導者なんて、もったいない話です。そんなことでは彼らの中から今後名人、達人は出てこないでしょう。

 またトレーニングの話に戻りますが、以前黒岩先生の指導を受けたことがある方で、どうにも足腰が弱くて困っていた人が漁船に乗り、網を曳く仕事を続けているうちにすっかり逞しくなって帰ってきたそうです。このようにトレーニングの種はどこにでも転がっています。それと、体捌きのイメージトレーニングも楽しいですよ。例えば歩行中に、前からくる人や車との間(マ)を意識して転換や入り身をイメージするのです。混雑する街中でもスイスイと歩けるようになります。ただ、派手にやりすぎると変な人と間違われますから。

 こんなふうに元手をかけず体と意識を錬って、稽古に生かしていきましょう。なお、筋力トレーニングをした後は、筋肉を十分ほぐして柔らかくしておきましょう。これを怠ると硬くて使いづらい筋肉になってしまって後で困ります。日常の仕事や動作でついた筋肉は、このようなケアができないことが多いので要注意です。いずれにしても、一人稽古は工夫が必要ですが、通常の二人稽古は、いま言ったような要素が全て含まれています。そんなわけですから稽古相手は大切に。 

 

 


35≫ 試合考

2007-09-02 15:24:58 | インポート

 毎日毎日稽古して、さてどれくらいの腕前になったかなと、だれしも思うことでしょう。普通のスポーツでは試合でそれを確かめることができます。でもわたしたちの合気道では試合がありませんから、そのような形で力を試すことはできません。それに代わるものとして演武がありますが、これは強い弱いではなく、見た目がきれいかどうか、上手か下手かを計るものでしかありません。ですから、一部の流派のように試合形式を取り入れて、客観的に実力を評価しようという試みに対して、個人的にはある程度理解できます。

 こんなふうに、いろんな人、団体が様々な工夫をすることは、合気道の可能性を探るためには意味のあることと思います。なにも本家風を吹かせて、わたしたちだけが正しいなんて力まなくてもいいでしょう。人間は工夫することで進歩してきたのですから。ただ、試合というものの理論的限界があることも確かで、合気道ではありませんが現代格闘技団体では試合のつどルールを改変するというようなことをやっていて、かえってご都合主義になってしまっているような印象を受けることもあります。黎明期としては致し方のないことかもしれませんが、やり方を間違えると終末期にもなりかねませんから要注意です。

 合気道にご自分の理想の武道像を垣間見た柔道創始者 嘉納治五郎氏の逸話はよく知られていますが、苦心惨澹の末に確立した講道館柔道が、必ずしも嘉納氏の理想通りのものにはならなかったように、武道の競技化は本当に難しいと思います。試合のためのルールが、逆にその種目のありようを決めてしまうことになるからです。嘉納氏は教育者の立場から、柔道の各種の技をいろいろ行使することによって青年の体の均等な発育を促そうとしたのです。しかし、試合というものがあると、勝つためには得意技に限定して稽古するということが合理的であるということになります。さらにオリンピック種目となったことで、ますます武道の本質から遠ざかってしまいました。しかも本家といえども最近はなかなか勝てなくなっています。武道の色合いが薄められ、さらに勝てないのでは、なんのための競技化だったのかと思わざるを得ません。嘉納氏はそのような柔道を広めたかったわけではないでしょう。

 いまひとつの例としては空手道の試合があげられます。空手には優れた鍛錬法として、美しいカタがありますが、これをそのまま組手試合に持ち込むことはできません。それでは勝てないからです。カタ稽古と組手試合を見比べると、とても同じ武道とは思えないほど様子が違い過ぎます。それに対応するために二本立ての稽古を続けて精神がバラバラにならないのだろうかと、余計な心配をしてしまいます。それもつまりはルールのせいです。ルールが武道を変えているのです。

 したがって、日常の基本的な稽古によって作り上げられる体と体遣いが有効に生かされる仕組みを生み出さないことには、武道は一般の競技スポーツと変わらないことになります。もちろんそれでいいのだという考え方もあるでしょうが、それでは先人が苦労して編み出した武道文化というべきものが、現代武道に関しては消えうせてしまうと思うのです。

 天才的な武道家が出現してこれらの矛盾を解決してくれることを祈るばかりですが、たまに現れる優秀な柔道家も空手家も、事実はその差を広げる方向に役立っているようで、ますます勝敗のみが重視される風潮は軽視できないものがあります。しかも強くないと発言、意見が取り上げられにくいということもあり、勝者による勝つための方法論ばかり喧伝されるのが現実です。一部の武術格闘技実践家がカタの実戦的応用について研究しておられることはわずかな希望ではありますが。

 ルールは競技に公平さをもたらすもので、最大限尊重されねばなりませんが、もともとノールールの武術から進化(進歩ではありません)した現代武道において、競技化に潜む困難な課題が解決されずにいることを忘れてはいけません。また、競技化したために2、30歳代くらいで現役引退に追い込まれる武道が、本当に武道の本道といえるのかどうか、あえて試合のない合気道の立場から考えてみてもよいのではないでしょうか。

 余談ですが、競技武道における審判制度にもいくつかの問題点があります。人間が携わる以上、完璧ということはありませんが、いわゆるホームタウンデシジョン(簡単にいうとえこひいきです。この場合は師弟の系列のようなもの)があることは公然の秘密ですし、かつての王ボール(巨人軍の王選手が打ちにいかなかった球で、ストライクかボールか微妙な時はボールと判定されがちだった)のように実績のある選手に甘くなる傾向があります。そのいずれもが武道家として恥ずべき行為ですが、前回ブログのように心の教育がなされないまま大きくなった選手や審判が取り仕切っている武道界の、これが現状です。合気道はその渦に巻き込まれないよう注意しましょうね。