わたしの会には小学生の部があって、10人ほどが稽古に励んでいます。励んでいるとはいっても、隣りでやっている空手道や剣道の子供たちと比べると、大人の観点からはちょっとおしゃべりが多いように思われます。空手の場合は型稽古では終始号令に従うか、自由組手では相手の拳や足が飛んでくるわけですから、おしゃべりをしている暇はありません。剣道も同じことです。
ただ、合気道でおしゃべりが多いのは、ちょうど話しやすい位置に稽古相手がいて、不意に攻撃されることもないという、良くも悪くも合気道の稽古の特性かもしれません。目の前にいる稽古相手を大切にしなさいと言っている立場からは、仲の良い証拠でもあり、一概に叱りつけるわけにもいかないという楽しい苦労があります。まずは元気で稽古してくれればそれが一番良いのです。
さて、そのような子供たちの稽古からこちらが学ぶこともあるのです。彼らの稽古は、とにかく決められた動きを二人でなぞっているという感じです。二人で協力しないと指示されたかたちにならないことをわかっているのです。少なくとも、取りが勝者、受けが敗者というような色づけにはなっていないのがわかります。
これは合気道の稽古においてとても大事なことです。合気道の稽古というのは取りと受け双方に果すべき決められた役割があります。仮に受けがその役割を放棄し、取りの意図を妨害するような動きをしたら、ほとんど技になりません。稽古の合間に子供相手に柔道の真似ごとをしていてよくわかります。中途半端なことではなかなか倒れてくれませんから。
合気道の稽古というのは取りが受けを投げたり押さえたりするように見えますが、それが本来の目的ではありません。受けは取りの意図を理解し、正しい動きを引き出してその手助けをする、このようにできているのです。以前は四分六分でいくらか取りに重きを置いていましたが、今や五分五分、半分ずつ主役ということで間違いないだろうと考えています。
このことは当身についての考え方にも変更を求めてきます。合気道における当身は、それを打ち出すことによって受けの意識に一瞬の隙を生じさせることが目的です。あまり崩し技術を重視しない人にとっては当てが崩しの代わりになります。そのせいか、ことさら当身を多用する人もいます。
それが別段いけないことではないのですが、取り受けがそれぞれの役割を果すという前提では、あえて受けの意表をつくような当ては必要ありません。だって、来るのがわかっているわけですから。淡々と形に表せばそれで良いのです。
当身についてもうひとつ。淡々と形に表せばそれで良いと書きましたが、その形のあり方です。合気道の動きは流れる水のように強く優しく美しく、大変よく練られたものに仕上がっていると思います。大先生や吉祥丸先生のご苦労がしのばれる名品です。それを壊すような動きはわたしの好むところではありません。
そのように言うと、黒岩洋志雄先生の動きは独特で、それは大先生方の形を壊していないのかと思われる方もいるかもしれません。でも、そのような疑問はわたしの言わんとするところをご理解いただければ氷解します。
合気道では、どんな技であれ、始動から終末動作までの流れるような動きの中にこっそりと当身の動きが溶け込んでいるのです。たとえば四方投げでは、手を振りかぶる前のところで受けをヨコに崩す動きが入ります(単純に刀の振りかぶりのように上下動しかしない方法では分かりにくいでしょうが)。黒岩先生はこのヨコの崩しをボクシングのフックのような腕の動きで表しました。つまり、あらためて当身の動きを取り入れなくても普通の動きの中に当身(この場合はフックや肘打ち)に変化できる動作が含まれているのです。一教においても、これはタテ(上段)の崩しですが、わざわざ胴や顔面の当てを加えなくても受けの肘や手首を突き上げる腕遣いがそのままアッパーカットや掌底打ちになり得るのです。このように、ひとつの動きに複数の意味があることがわかれば、わざわざ流れを中断するような当ての動きは必要ありません。ですから黒岩合気道は強く優しく美しいのです。
だいぶ本筋から外れました。要は取り受け双方が相手の動きを尊重し、調和のとれた技を表現してほしいということです。芝居や人形浄瑠璃などで活躍する黒子は形の上での主役ではありませんが、黒子がいなければ何も始まらない中心的存在です。わたしはこれと合気道における受けの存在が同じような意味を持っているように感じられます。
出来の良し悪しはひとえに一方の主役である黒子、いや受けにかかっているのが合気道です。
=お知らせ=
第12回合気道特別講習会を開催いたします。
このブログで述べている屁理屈を形にしてご紹介いたします。
詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。
ただ、合気道でおしゃべりが多いのは、ちょうど話しやすい位置に稽古相手がいて、不意に攻撃されることもないという、良くも悪くも合気道の稽古の特性かもしれません。目の前にいる稽古相手を大切にしなさいと言っている立場からは、仲の良い証拠でもあり、一概に叱りつけるわけにもいかないという楽しい苦労があります。まずは元気で稽古してくれればそれが一番良いのです。
さて、そのような子供たちの稽古からこちらが学ぶこともあるのです。彼らの稽古は、とにかく決められた動きを二人でなぞっているという感じです。二人で協力しないと指示されたかたちにならないことをわかっているのです。少なくとも、取りが勝者、受けが敗者というような色づけにはなっていないのがわかります。
これは合気道の稽古においてとても大事なことです。合気道の稽古というのは取りと受け双方に果すべき決められた役割があります。仮に受けがその役割を放棄し、取りの意図を妨害するような動きをしたら、ほとんど技になりません。稽古の合間に子供相手に柔道の真似ごとをしていてよくわかります。中途半端なことではなかなか倒れてくれませんから。
合気道の稽古というのは取りが受けを投げたり押さえたりするように見えますが、それが本来の目的ではありません。受けは取りの意図を理解し、正しい動きを引き出してその手助けをする、このようにできているのです。以前は四分六分でいくらか取りに重きを置いていましたが、今や五分五分、半分ずつ主役ということで間違いないだろうと考えています。
このことは当身についての考え方にも変更を求めてきます。合気道における当身は、それを打ち出すことによって受けの意識に一瞬の隙を生じさせることが目的です。あまり崩し技術を重視しない人にとっては当てが崩しの代わりになります。そのせいか、ことさら当身を多用する人もいます。
それが別段いけないことではないのですが、取り受けがそれぞれの役割を果すという前提では、あえて受けの意表をつくような当ては必要ありません。だって、来るのがわかっているわけですから。淡々と形に表せばそれで良いのです。
当身についてもうひとつ。淡々と形に表せばそれで良いと書きましたが、その形のあり方です。合気道の動きは流れる水のように強く優しく美しく、大変よく練られたものに仕上がっていると思います。大先生や吉祥丸先生のご苦労がしのばれる名品です。それを壊すような動きはわたしの好むところではありません。
そのように言うと、黒岩洋志雄先生の動きは独特で、それは大先生方の形を壊していないのかと思われる方もいるかもしれません。でも、そのような疑問はわたしの言わんとするところをご理解いただければ氷解します。
合気道では、どんな技であれ、始動から終末動作までの流れるような動きの中にこっそりと当身の動きが溶け込んでいるのです。たとえば四方投げでは、手を振りかぶる前のところで受けをヨコに崩す動きが入ります(単純に刀の振りかぶりのように上下動しかしない方法では分かりにくいでしょうが)。黒岩先生はこのヨコの崩しをボクシングのフックのような腕の動きで表しました。つまり、あらためて当身の動きを取り入れなくても普通の動きの中に当身(この場合はフックや肘打ち)に変化できる動作が含まれているのです。一教においても、これはタテ(上段)の崩しですが、わざわざ胴や顔面の当てを加えなくても受けの肘や手首を突き上げる腕遣いがそのままアッパーカットや掌底打ちになり得るのです。このように、ひとつの動きに複数の意味があることがわかれば、わざわざ流れを中断するような当ての動きは必要ありません。ですから黒岩合気道は強く優しく美しいのです。
だいぶ本筋から外れました。要は取り受け双方が相手の動きを尊重し、調和のとれた技を表現してほしいということです。芝居や人形浄瑠璃などで活躍する黒子は形の上での主役ではありませんが、黒子がいなければ何も始まらない中心的存在です。わたしはこれと合気道における受けの存在が同じような意味を持っているように感じられます。
出来の良し悪しはひとえに一方の主役である黒子、いや受けにかかっているのが合気道です。
=お知らせ=
第12回合気道特別講習会を開催いたします。
このブログで述べている屁理屈を形にしてご紹介いたします。
詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。