合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

292≫ 黒子ではないが

2016-03-25 15:36:53 | 日記
 わたしの会には小学生の部があって、10人ほどが稽古に励んでいます。励んでいるとはいっても、隣りでやっている空手道や剣道の子供たちと比べると、大人の観点からはちょっとおしゃべりが多いように思われます。空手の場合は型稽古では終始号令に従うか、自由組手では相手の拳や足が飛んでくるわけですから、おしゃべりをしている暇はありません。剣道も同じことです。

 ただ、合気道でおしゃべりが多いのは、ちょうど話しやすい位置に稽古相手がいて、不意に攻撃されることもないという、良くも悪くも合気道の稽古の特性かもしれません。目の前にいる稽古相手を大切にしなさいと言っている立場からは、仲の良い証拠でもあり、一概に叱りつけるわけにもいかないという楽しい苦労があります。まずは元気で稽古してくれればそれが一番良いのです。

 さて、そのような子供たちの稽古からこちらが学ぶこともあるのです。彼らの稽古は、とにかく決められた動きを二人でなぞっているという感じです。二人で協力しないと指示されたかたちにならないことをわかっているのです。少なくとも、取りが勝者、受けが敗者というような色づけにはなっていないのがわかります。

 これは合気道の稽古においてとても大事なことです。合気道の稽古というのは取りと受け双方に果すべき決められた役割があります。仮に受けがその役割を放棄し、取りの意図を妨害するような動きをしたら、ほとんど技になりません。稽古の合間に子供相手に柔道の真似ごとをしていてよくわかります。中途半端なことではなかなか倒れてくれませんから。

 合気道の稽古というのは取りが受けを投げたり押さえたりするように見えますが、それが本来の目的ではありません。受けは取りの意図を理解し、正しい動きを引き出してその手助けをする、このようにできているのです。以前は四分六分でいくらか取りに重きを置いていましたが、今や五分五分、半分ずつ主役ということで間違いないだろうと考えています。

 このことは当身についての考え方にも変更を求めてきます。合気道における当身は、それを打ち出すことによって受けの意識に一瞬の隙を生じさせることが目的です。あまり崩し技術を重視しない人にとっては当てが崩しの代わりになります。そのせいか、ことさら当身を多用する人もいます。

 それが別段いけないことではないのですが、取り受けがそれぞれの役割を果すという前提では、あえて受けの意表をつくような当ては必要ありません。だって、来るのがわかっているわけですから。淡々と形に表せばそれで良いのです。

 当身についてもうひとつ。淡々と形に表せばそれで良いと書きましたが、その形のあり方です。合気道の動きは流れる水のように強く優しく美しく、大変よく練られたものに仕上がっていると思います。大先生や吉祥丸先生のご苦労がしのばれる名品です。それを壊すような動きはわたしの好むところではありません。

 そのように言うと、黒岩洋志雄先生の動きは独特で、それは大先生方の形を壊していないのかと思われる方もいるかもしれません。でも、そのような疑問はわたしの言わんとするところをご理解いただければ氷解します。

 合気道では、どんな技であれ、始動から終末動作までの流れるような動きの中にこっそりと当身の動きが溶け込んでいるのです。たとえば四方投げでは、手を振りかぶる前のところで受けをヨコに崩す動きが入ります(単純に刀の振りかぶりのように上下動しかしない方法では分かりにくいでしょうが)。黒岩先生はこのヨコの崩しをボクシングのフックのような腕の動きで表しました。つまり、あらためて当身の動きを取り入れなくても普通の動きの中に当身(この場合はフックや肘打ち)に変化できる動作が含まれているのです。一教においても、これはタテ(上段)の崩しですが、わざわざ胴や顔面の当てを加えなくても受けの肘や手首を突き上げる腕遣いがそのままアッパーカットや掌底打ちになり得るのです。このように、ひとつの動きに複数の意味があることがわかれば、わざわざ流れを中断するような当ての動きは必要ありません。ですから黒岩合気道は強く優しく美しいのです。

 だいぶ本筋から外れました。要は取り受け双方が相手の動きを尊重し、調和のとれた技を表現してほしいということです。芝居や人形浄瑠璃などで活躍する黒子は形の上での主役ではありませんが、黒子がいなければ何も始まらない中心的存在です。わたしはこれと合気道における受けの存在が同じような意味を持っているように感じられます。

 出来の良し悪しはひとえに一方の主役である黒子、いや受けにかかっているのが合気道です。

 =お知らせ=
 第12回合気道特別講習会を開催いたします。
 このブログで述べている屁理屈を形にしてご紹介いたします。
 詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。

291≫ 先生の遺訓

2016-03-13 18:08:12 | 日記
 武道というものは本来若者による修練を想定したものだと思いますが、合気道においては年配の方々もたくさん稽古に励んでおられます。かく言うわたしもそのくくりに属するわけですが、これは合気道が年齢をこえた愛好家の存在を許す稽古法を持っていることに大きな理由があるのでしょう。

 しかしながら、18歳から45年ほども合気道と付き合ってきて、稽古法ばかりではない、別のさまざまな理由に気づく今日このごろです。初期の修行時代には、尊敬する先生に教えていただいているというそのことに満足し、それに秘められた深い意味合いに気づくに至りませんでした。先生としてはずいぶん歯がゆい思いをしておられたことでしょうが、自知できない者はそれまでのことと諦めておられたのかもしれません。
 
 その、別の理由、深い意味合いというものにやっと気づいて、日々の稽古に反映している昨今です。なんとか次代にそれを伝えることで恩返しをしたいものと思っています。いかにも遅かりし由良之助ではあるのですが、気づかないよりは百倍もましだと開き直っているところです。 

 顧みれば、先生に教えていただいたものだからこれは良い技なのだろうと、これまであまり深く考えもせず漫然と稽古してきたものがいくつもあります。四方投げの変化技を例にとると、受けの腕の下をくぐって振り向いた状態から本来のかたちで倒せない場合、相手の肘を突き上げたり首絞めにいったり前後に体移動して別の投げ技に変化したりと様々あります。これを習ったときは、商売でいうと売れる在庫が増えたような気がして、そのことだけで嬉しかった覚えがあります。

 そこで終わってしまっても、それはそれで意味があります。実際に稽古ではみんな興味深そうに取り組んでくれますし、体を練るのにも有効です。しかし、先生に遺していただいたのはそういうことなのだろうかと思うと、どうもそれだけではないような気がしたのです。

 わたしの先生、すなわち亡き黒岩洋志雄先生は四方投げについて『四方八方に投げ分けるというのはつまらない解釈ですよ。あれは投げる方向のことじゃなくて、横の崩しをかけてそこからいろんな技に変化していくことを意味しているのです。その代表が四方投げなんです』とおっしゃっていました。それが先に述べた変化技のことであることは疑いありません。

 しかし、先生の性格を考えるとそこで終わるわけがない、と認識を改めたのはそう昔のことではありません。

 先生はひとつひとつの技の現実性にあまり重きを置かず、はっきり言ってしまえば、制敵技法としての有効性を信用しておられなかったように思います。なにしろ、合気道巧者の喜びそうな複雑な技や動きをファンタジーだと言い、これこれこうなったら殴っちゃえばいいんですよ、などという方でしたから。

 すると、変化技も額面通りには受け止められません。それではそこで何をおっしゃりたかったのでしょうか。先生の口から直接聞いたわけではいので、わたしの勝手な解釈かつ暴論かもしれませんが、それらの技を稽古して、それが結局は役に立たないということに気づけということではなかったかというのが、いま現在の思いです。役に立つことを前提に練磨してきたのではありますが。

 ただし、それだけだと低レベルの虚無主義みたいなことになってしまいます。合気道がそれで終わるようなものでないことは、開祖の血脈に連なる者として自信を持って言えます。今ある持ち物を捨てることで新たな財産が生まれるということだけ申し上げておきましょう。新しい財産がどのようなものであるかは更に修練を積むことで必ずわかるはずなので、それを楽しみにお互い頑張りましょう。

 黒岩先生は、『もし師匠が嘘を教えても、それに気づいて途中からでも戻ってくるようでなければ本当の弟子ではない』という言葉を残しておられます。師匠が嘘を教えるなんてことがあるのだろうかと思っていましたが、本当のことを伝えないというのもそれと同じだと気づくのに何十年もかかって、いま、のんびり戻っている最中です。

 皆さんはそんなに時間をかけないで真理をつかんでください。