合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

169≫ 特別寄稿 その4  寿陵余子様より 

2011-12-25 12:19:27 | インポート

 お寒うございます。年の瀬、いかがお過ごしでしょうか。

 このたび、本ブログを通じての敬愛する道友 寿陵余子様から貴重なご投稿を頂戴しました。一年を締めくくるのに相応しい論旨であると思いますので、いただいた文面そのままに掲載させていただきます。どうぞご高覧ください。

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管理人様、こんにちは。

以前いただいていた大先生の思想に関する課題を年内に果たすべく投稿致しました。

今回は大先生の説かれた愛、即ち「萬有愛護」の精神について私なりの解釈を開示させて頂きます。
合気道の精神には「合気とは、天地の心をもって、わが心とし、萬有愛護の大精神をもって自己の使命を完遂することであり、合気道に於ける武技はそれに至る単なる道しるべである」とあります。
まずは「天地の心をもって、わが心とし」という部分ですが、『合気神髄』には「天地の大愛を心とし」とあります。これは神人合一、我即宇宙などと同じ意味です。
また人は天之御中主神の分霊であり、人は神の生き宮であるという事とも同じです。古代インドのウパニシャッド哲学では梵我一如、つまり宇宙普遍の原理であるブラフマン(梵)と個の原理であるアートマン(真我)は同一(等価)であるとする考え方とも同様です。
この様な古来からの東洋的な宇宙観に大先生は愛の概念を入れたのではないでしょうか。

「萬有愛護」については「至仁至愛、萬有愛護の大精神をもって合気と名づくるものなり。また、萬有の生命宿命を通じ、おのおの萬有の使命を達成せしむべく萬有に呼吸を与え、愛護する精神を合気というなり」とあります。
この愛とは大虚空に突如現れた中心(・ス)が拡がって宇宙を生成した事、古事記のイザナギ、イザナミ二尊の結婚から島産み神産みによって国土を生成した事を指しています。それを稽古では、受けと投げが二尊に成り代わり、国土を産む代わりに技を産み出します。

仏教でいえば時空の制約を受けず、宇宙の隅々まで光で照らす阿弥陀仏(無量光仏)とも通じます。この中心から宇宙を放射状に照らす愛や光や熱こそ、勝速日であると思います。
阿弥陀仏の場合は時空を越えて衆生済度の光を照らしますが、合気道では自己(宇宙)の中心から萬有を浄化し護り育てる愛を勝速日(愛の攻撃精神)と呼ぶのだと思います。
また大先生は「宇宙の心とは何か?上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である」と説かれています。その宇宙の心を我が心とすれば、個人(小宇宙の中心)と神の愛を縦の結び、個々人の隣人愛を横の結びとして十字に○の球体の宇宙が形成されます。
また「自己の愛の念力(念彼観音力)をもって相手を全部からみむすぶ。愛があるから相手を浄めることが出来るのです」ともある通り、愛を観音力といわれています。音とは光と同様に波動ですが、「五体の響きの槍を阿吽の力によって、宇宙に拡げる」事が武産合気の気の結びの第一歩であるとしています。

普段の合気道の稽古は、宇宙の愛の働きを再確認しているのです。人を害する精神は穢れたものですが、稽古では敢えて受けにその役回りをやってもらい、投げはそれをやっつけるのではなく、相手と気結びして一体となり、螺旋に廻ることで相手の邪気(害意)を払い相手に恵み(心の立て直し)を与えます。
「合気はある意味で、剣を使うかわりに自分の息の誠をもって悪魔を払い消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである」とある通り、本来ならば斬るところを斬らずに許し生かす事こそ愛による転換であるとするのです。

大先生は大宇宙に対する小宇宙を説かれているのであり、小宇宙たる個々人の自己完成(宇宙建国、他人ではなく自己の立て直し、禊ぎ、浄化)が拡がって行けば、同じ原理をもつ大宇宙の浄化、立て直し、結果地上天国の建設へと繋がるのだと考えたのではないでしょうか。
よって合気道は、宇宙万世一系の理=天授の真理(宇宙の真理)=武産の合気の妙用=天地人、和合の道=萬有の処理の道(無抵抗主義)=言霊の妙用=宇宙みそぎの大道、となります。

その合気道の精神、原理を技術に還元すると、天地の心をもってわが心とした(無我)の中心軸をもって相手の中心を捉え、自己の中心から発する愛で彼我の空間を満たし、相手の攻撃精神たる邪気を転換して浄化する事となります。
これはどの様な状態で成されるかといいますと、以下の道歌を例に挙げれば

おのころに 常立ちなして 中に生く 愛の構えは正眼の道

地球の芯に神気発動して立ち時空の中心に存在する、萬有を護り育む形は、陰陽(岐美)調和した正眼にある、となります。

従来の魄の武道は気勢をもって相手を圧伏し斬り倒すものでしたが、大先生は相手を圧する気なくして圧する愛の結びによって相手を包み許す魂の比礼振りに転換したのです。
それはあたかも悪さをする我が子に罰を与える代わりに、慈顔をもって接する事により自ら悔悟させる慈父の如きとても強く、優しさに満ちた愛の様に感じます。

『合気神髄』や『武産合気』を読めば、大先生の説かれている事は一貫していりのがわかります。大先生の思想を理解するには、大先生ご自身が宇宙の成り立ちや原理をどの様に考えられたかを虚心で求め、その精神に技を添わせて行くのが一番の近道であると思います。

今回の投稿記事は、読む方によっては宗教色が濃く、胡散臭いものに感じられたかもしれませんがその点はご容赦下さい。
私にとっては合気道は武道であり、私を救い導いてくれる宗教でもあります。ただ合気道が武道である以上、武技を疎かにしてその精神性のみを追究しては本末転倒であり、それを合気道とは呼びたくないですね。

以上、萬有愛護の精神について私なりにまとめてみましたが、こころというものを文章で表すことの難しさ、己の文才のなさを痛感致します。結果、この様な要領を得ないものとなってしまいました。
至らぬ点はご批判を、ご不明な点はご質問下さい。

最後に、管理人様にはこの様な機会を頂いて感謝致します。
ありがとうございました。

寿陵余子

===============================以上です。

 天災である大地震・大津波と人災である原発事故で混乱を極めた2011年が終わろうとしています。多くの人々がいまだに困難の只中にあり、それでも再生に向けて果敢に立ち上がろうとしています。どうぞ変わらぬお心配りを賜りますよう、あらためて東北の地からお願い申し上げます。

 皆様にとって、いや、すべての人々にとって来年が希望に満ちた年となりますように。

 どうぞ良いお年を。


168≫ 生きる力

2011-12-13 13:43:55 | インポート

 わたしは以前、概略次のように述べました。『武道憲章などで、武道を通じて優れた人格の形成をはかる、というようなことを謳っているが、そもそも武道そのものに道徳律が内在しているわけではない』と。

 先ごろ柔道の某金メダリストが恥ずべき不祥事を起して、はからずもわたしの論を証明してくれました。そのような状況にありながら、本日の新聞のコラム欄で山下泰裕氏はグランドスラム東京大会での柱となるべき選手の不甲斐なさを嘆くばかりで、日本の武道文化を代表する人物としてはいささか状況対応がお粗末ではないかと感じました。彼ほどの人物がなぜ競技的な話題しか述べないのか(新聞社の依頼に沿ったものではあるでしょうが)、記事依頼者にかけあってもっと本質的な問題に取り組まれてはいかがかと思うのです。そんなことだから競技武道はもはや武道ではないなどと揶揄されるのですよ。

 一般に、高い精神性は経験と知識と思索によって得られるものであり、とりわけ危険な技術を駆使する武道家は、≪武技とは別に≫そのための学習が絶対に必要です。

 ここで、武技とは別にと書きましたが、開祖におかれては精神性と武技は一体のものという認識です。ここが合気道の優れた点であると同時に誤解を招く原因でもあります。それは、開祖のお考えを大事にするあまり、武技においても精神性においても進化改変を厭う空気を産み出しているのではないかと感じるからです。わたしたちはあまりそのことを恐れる必要はないのではないでしょうか。自ずと良いものは残り、ダメなものは消え去ります。

 また、開祖のおっしゃる通り合気道が絶対不敗、万有愛護の武道であるならば、合気道界における様々な軋轢や混乱は起きるはずのないものですが、現実はなかなかそのようには行っていません。とにもかくにもわたしたちの修行が足りないことの証左です。

 そういう意味で、高い精神性ということに対して、わたしたちはもっと謙虚でなければなりません。武道界とまったく違うところで、それを獲得し実践した人たちがたくさんいるからです。そして、ある意味では武道を大きく越えて、人々の生きる希望の灯火となっています。

 先日ニューヨークで世界の宗教者の集いがあり、東日本大震災の被災地へ祈りを捧げたということをあるテレビ番組で紹介していました。そのなかで宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が英語訳で朗読される様子も映し出されていました。

 この詩はあまりにも有名で、あらためて紹介する必要はないでしょうが、要するに市井の片隅で、人々の喜怒哀楽に寄り添ってつつましく生きたいと、ただそれだけのことを言っているにすぎません。それがなぜ注目されたのか、あえてわたしの感想は申しませんので、どうぞ皆様それぞれにお考えください。

 それにしても、詩は詩人によって産み出され、読む人(受け止める側の人)によって強くなるのだなと思いました。金子みすゞの詩にしてもそう、永六輔氏の『上を向いて歩こう』にしてもそうです。それは単なる文字の並びではなく、それを発する人の人生観が読む人の共感を呼ぶからでしょう。その輪、和が広まれば詩は文学の域を越え、生きる力そのものになるのだと思います。

 合気道もそれと似ています(やや我田引水ですが)。最強の武道は最も優しくないといけない。文武両道とはそういうことではないでしょうか。普通に考えられているような、学問と武術に優れているというだけのことではないような気がします。個人のあり方のみを言うのではなく人々の共感を得るものでありたいと。外部からの目を気にしているようでは、いかにも小物の料簡ではありますが、それでもやはり武道家は社会から高い評価を勝ち得る存在であってほしいと思うのです。

 さて、今年も師走に入り、一段と寒さが増してまいりました。いつも使用している当地の武道館では、わたしたちの隣で稽古している剣道の皆さんが先週この冬初めてヒーターに火を入れました。おかげでこちらまで暖かくなり、けっこう汗ばむほどでしたが。

 ともあれ、わたしの住まいする東北地方では、これからが稽古に取り組む覚悟を求められる時季になります。そこで、ただ寒さに耐える体をつくるということにとどまらず、そんななかで合気道をすることの意味を考えることが大切なのだと思います。学習のタネはいろんなところに転がっているわけです。