合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

356≫ マニュアル

2019-03-25 16:52:43 | 日記
 最近、映画俳優の不祥事が続いています。婦女暴行や薬物摂取などの容疑ですが、その人たちが出演している映画その他の作品の扱いについて、公開するかしないかを決めるためのマニュアルを作ったらよいのではないかという意見が出ていました。

 マニュアルとは本来機械などの取り扱い説明書や合理的業務遂行などの方法という意味でしょうが、上記でいうマニュアルとはトラブル時の対処法をさして言っているのでしょう。ぶれない結論を導き出すためには確かに役に立つものではあります。ちなみに、わたしの幼いころからの友人で、どんな問題に出会っても即座に結論を出せるひとがいます。わたしなどはいつも優柔不断で、適切な答えを得るまでに相当な時間がかかっている者から見ればとてもうらやましい限りの人物です。そんな彼の判断が早いのはクリスチャンであるからだろうと後で気づきました。なにしろ、かの聖書にはあらゆる問題の答えが書いてあるのですから。普段から聖書に親しんでいる人たちは、極端な話、自分で考えなくても正解にたどり着くことが可能です。もちろん、実際はそんな簡単なことではないでしょうが、いちいち右往左往している凡人にはとても真似のできないことではありました。

 ひるがえって、わが合気道でもマニュアル的な稽古要領はあります。相手がこうするからこちらはそうする、のような考えです。初級中級の方にはそれは有効な稽古法でしょう。面倒なことは考えず、決まった通りに動けばよいのですから。

 しかし、この段階で止まってしまっている人が多いのは感心しません。しかも、ある程度稽古歴の長い人にも見受けられます。それでは初・中級の閾を越えるためには何をどうすれば良いのでしょうか。

 いわゆる合気道マニュアルでは、ひとつの術技を形作るための動きが解説されています。その内容についてはあえて説明しなくてもほとんどの皆さんがおわかりでしょう。要するに、ここまでが初・中級のレベルです。そして、それ以上の立場にある方はそれでは済まされません。

 それでは何をすべきか、それは、動きの意味を理解することです。この技はこう動く、それはなぜか、それを理解することこそが上級者の上級者たる所以です。大きくは、足運びや体捌き、小さくは指先の向きまで、あらゆる動きにはそうでなければならない理由があります。『ここで一歩進めるのは右足ではなく左足でなければならない』それはなぜか、『手のひらは下ではなく上を向かなければならない』どうしてか、それら全部に理由があります。

 自慢話になったらみっともないのですが、わたしは50年近く合気道に接してきて、その間に動きのほとんどを解析し、その理由を突きとめてきました。平凡な動きに隠された必勝技法(あるいは必殺技法)をいくつも見出しました。マニュアルにはそんなことは書いてありません。気づかない人は永遠に気づかないでしょう。

 それらを踏まえ、合気道は最強武道(武術)だと思うようになったのです。ですが、遣える武道を目指してたどり着いたのが、現代においては危険すぎて遣えない武道であるというのは強烈な皮肉です。剣術家の真剣みたいなものです。ですが、真理に近づいたという喜びはあります。

 考えなくても合理的に物事を運ぶためのマニュアル、そこに創造性は必要ありません。しかし合気道修行はそれを乗り越えたところにあります。大いに創造性を求められます。もちろん、創造性とは勝手な思い込みとは全く異なります。それはまた次の機会に。一山越えるとまた一山です。

355≫ 文化の枠組み 

2019-03-08 17:05:46 | 日記
 来年の東京オリンピックに向け、新採用されることになった空手道界隈の方々は喜びに沸き立っておられることでしょう。斯界の長年の夢でしたでしょうから、まずはお祝い申し上げます。

 しかし、それを追いかけるように、その次のパリ大会では不採用となるようだというニュースがありました。なんと非情な判断でしょう。ということは、東京での採用は開催のために大金を注ぎ込んでくれた日本に対するその場限りのご褒美でしかないということでしょうか。

 とはいえ、運営者側の一貫性のない価値基準を一応は批判をし、その上で、わたしはそれはそれで良かったのではないかと考えています。それは不採用の理由についての主催者の言い分が、ある意味正直で、文化としての武道の本質に関わることだからです。それは『わたしたちの文化と異なるから』というものです。具体的にどういうところが、ということまでは言っていませんが、なんとなくわかる気がします。

 空手競技には型と組手がありますが、たぶん、そのいずれの意義も彼らには理解不能なのでしょう。型はそれが表す意味がわからないと固いダンスにしか見えないでしょうし、組手は寸止めですから素人には勝敗がわかりにくく、面白みに欠けるのでしょう。つまり、このような武道が生まれ発展してきた背景がわからないとそれが持つ存在意義がわからないのです。日本人だってみんながみんな理解しているわけではないでしょうが、なんとなくわかる、ということを可能にするのが文化というものです。

 ですから、その文化を知りたいと思う人たちが自ら空手道、広くは武道に親しむのは歓迎しますが、その土壌のないところに無理やりこちらの文化を押しつける必要も意義もないのです。競技としての面白さのために大切なもの(勝敗に先立つ精力善用、自他共栄)に目をつむった柔道をみれば、外からの圧力がいかに本質を壊すかわかります。要するに、勝つことしか見えなくなるのです。

 この頃はボーダーレスの時代ということで、国の枠にとどまらない交流が各分野で盛んです。それはまことに結構なことですが、なんにでも世界に共通する価値観があると考えるのはちょっと行き過ぎのように思います。文化というのはある一定の土地と時代によって区切られたところに生まれるもので、ですから世界には様々な文化があるわけです。

 そうしてみると、パリ大会の関係者が『わたしたちの文化と異なるから』というのは本当に正直な言い草で、わたしたちはこれを素直に受け入れるべきでしょう。

 日本の武道が持つ深い精神性や本当の意味での一撃必殺に気づいた人はその修業のために海外からもたくさん来ておられます。別に押し売りみたいに拡張しようなどと思わなくても、わかる人にはわかるのです。

 というわけで、パリ大会から外されたと憤慨しているひとに、まあまあ落ち着いてと申し上げます。