最近、映画俳優の不祥事が続いています。婦女暴行や薬物摂取などの容疑ですが、その人たちが出演している映画その他の作品の扱いについて、公開するかしないかを決めるためのマニュアルを作ったらよいのではないかという意見が出ていました。
マニュアルとは本来機械などの取り扱い説明書や合理的業務遂行などの方法という意味でしょうが、上記でいうマニュアルとはトラブル時の対処法をさして言っているのでしょう。ぶれない結論を導き出すためには確かに役に立つものではあります。ちなみに、わたしの幼いころからの友人で、どんな問題に出会っても即座に結論を出せるひとがいます。わたしなどはいつも優柔不断で、適切な答えを得るまでに相当な時間がかかっている者から見ればとてもうらやましい限りの人物です。そんな彼の判断が早いのはクリスチャンであるからだろうと後で気づきました。なにしろ、かの聖書にはあらゆる問題の答えが書いてあるのですから。普段から聖書に親しんでいる人たちは、極端な話、自分で考えなくても正解にたどり着くことが可能です。もちろん、実際はそんな簡単なことではないでしょうが、いちいち右往左往している凡人にはとても真似のできないことではありました。
ひるがえって、わが合気道でもマニュアル的な稽古要領はあります。相手がこうするからこちらはそうする、のような考えです。初級中級の方にはそれは有効な稽古法でしょう。面倒なことは考えず、決まった通りに動けばよいのですから。
しかし、この段階で止まってしまっている人が多いのは感心しません。しかも、ある程度稽古歴の長い人にも見受けられます。それでは初・中級の閾を越えるためには何をどうすれば良いのでしょうか。
いわゆる合気道マニュアルでは、ひとつの術技を形作るための動きが解説されています。その内容についてはあえて説明しなくてもほとんどの皆さんがおわかりでしょう。要するに、ここまでが初・中級のレベルです。そして、それ以上の立場にある方はそれでは済まされません。
それでは何をすべきか、それは、動きの意味を理解することです。この技はこう動く、それはなぜか、それを理解することこそが上級者の上級者たる所以です。大きくは、足運びや体捌き、小さくは指先の向きまで、あらゆる動きにはそうでなければならない理由があります。『ここで一歩進めるのは右足ではなく左足でなければならない』それはなぜか、『手のひらは下ではなく上を向かなければならない』どうしてか、それら全部に理由があります。
自慢話になったらみっともないのですが、わたしは50年近く合気道に接してきて、その間に動きのほとんどを解析し、その理由を突きとめてきました。平凡な動きに隠された必勝技法(あるいは必殺技法)をいくつも見出しました。マニュアルにはそんなことは書いてありません。気づかない人は永遠に気づかないでしょう。
それらを踏まえ、合気道は最強武道(武術)だと思うようになったのです。ですが、遣える武道を目指してたどり着いたのが、現代においては危険すぎて遣えない武道であるというのは強烈な皮肉です。剣術家の真剣みたいなものです。ですが、真理に近づいたという喜びはあります。
考えなくても合理的に物事を運ぶためのマニュアル、そこに創造性は必要ありません。しかし合気道修行はそれを乗り越えたところにあります。大いに創造性を求められます。もちろん、創造性とは勝手な思い込みとは全く異なります。それはまた次の機会に。一山越えるとまた一山です。
マニュアルとは本来機械などの取り扱い説明書や合理的業務遂行などの方法という意味でしょうが、上記でいうマニュアルとはトラブル時の対処法をさして言っているのでしょう。ぶれない結論を導き出すためには確かに役に立つものではあります。ちなみに、わたしの幼いころからの友人で、どんな問題に出会っても即座に結論を出せるひとがいます。わたしなどはいつも優柔不断で、適切な答えを得るまでに相当な時間がかかっている者から見ればとてもうらやましい限りの人物です。そんな彼の判断が早いのはクリスチャンであるからだろうと後で気づきました。なにしろ、かの聖書にはあらゆる問題の答えが書いてあるのですから。普段から聖書に親しんでいる人たちは、極端な話、自分で考えなくても正解にたどり着くことが可能です。もちろん、実際はそんな簡単なことではないでしょうが、いちいち右往左往している凡人にはとても真似のできないことではありました。
ひるがえって、わが合気道でもマニュアル的な稽古要領はあります。相手がこうするからこちらはそうする、のような考えです。初級中級の方にはそれは有効な稽古法でしょう。面倒なことは考えず、決まった通りに動けばよいのですから。
しかし、この段階で止まってしまっている人が多いのは感心しません。しかも、ある程度稽古歴の長い人にも見受けられます。それでは初・中級の閾を越えるためには何をどうすれば良いのでしょうか。
いわゆる合気道マニュアルでは、ひとつの術技を形作るための動きが解説されています。その内容についてはあえて説明しなくてもほとんどの皆さんがおわかりでしょう。要するに、ここまでが初・中級のレベルです。そして、それ以上の立場にある方はそれでは済まされません。
それでは何をすべきか、それは、動きの意味を理解することです。この技はこう動く、それはなぜか、それを理解することこそが上級者の上級者たる所以です。大きくは、足運びや体捌き、小さくは指先の向きまで、あらゆる動きにはそうでなければならない理由があります。『ここで一歩進めるのは右足ではなく左足でなければならない』それはなぜか、『手のひらは下ではなく上を向かなければならない』どうしてか、それら全部に理由があります。
自慢話になったらみっともないのですが、わたしは50年近く合気道に接してきて、その間に動きのほとんどを解析し、その理由を突きとめてきました。平凡な動きに隠された必勝技法(あるいは必殺技法)をいくつも見出しました。マニュアルにはそんなことは書いてありません。気づかない人は永遠に気づかないでしょう。
それらを踏まえ、合気道は最強武道(武術)だと思うようになったのです。ですが、遣える武道を目指してたどり着いたのが、現代においては危険すぎて遣えない武道であるというのは強烈な皮肉です。剣術家の真剣みたいなものです。ですが、真理に近づいたという喜びはあります。
考えなくても合理的に物事を運ぶためのマニュアル、そこに創造性は必要ありません。しかし合気道修行はそれを乗り越えたところにあります。大いに創造性を求められます。もちろん、創造性とは勝手な思い込みとは全く異なります。それはまた次の機会に。一山越えるとまた一山です。