今年最後の文章になりますが、前回に引き続き≪合気道とは≫を考えてみます。今回は合気道の宗教的側面です。
合気道の創始にあたっては、開祖 植芝盛平先生(大先生)と出口王仁三郎師(教派神道のひとつ大本の実質上の教祖)との邂逅が大きく関係しています。
青年期から柔術、剣術、槍術等の武芸を修めた大先生は、大正8年の出口師との出会い以降、神道的教養を深めていかれました。さらに大正14年、不可思議なる霊的体験により、それまでの魄(肉体を司る気)の武道から魂(精神を司る気)の武道へと昇華する体験をされ、ここに合気道が生まれたのです。
このように合気道は誕生のいきさつからして宗教的です。大先生の残された言葉からすると、合気道は≪地上天国を建設するための羅針盤≫であるということです。大先生が修行の末にたどりついた境地は、わたしたち凡人には推し量りかねるところ大ですが、合気道は神道でいうところの禊(みそぎ)であり祓(はらえ)であって、清浄な世の中を築く道そのものであるという理解で大きく誤ってはいないと思います。
しかしながら、そのころ合気道に求められたのは高邁な宗教的精神ではなく、闘争技法、闘争本能を高めるための武術的側面でした。時代の要請で仕方がないとはいえ、大先生の志が公に披瀝されるのは終戦まで待たなければなりませんでした。
いまわたしたちが合気道の稽古を楽しみ、その輪が世界中に広がっていることは、≪美しき此の天地の御姿は主のつくりし一家なりけり≫と詠まれた大先生の望みそのものであると言ってよいでしょう。
ところで、多くの武道はなんらかのかたちで宗教とつながりを持っています。それは戦いの場において精神を安定させるための修養法としてであったり、宗教的背景を持たせることによって権威付けするためであったりといろいろです。いずれにしろ、武道があって、その添え物的に宗教があります。しかし、大先生にとっては武道と宗教とを分けて考えるのではなく、合気道そのものが、人が正しく強く優しく生きるための道の全てなのです。より良い未来のために今この時点、この場所から力強く前に進んでいくという≪武≫本来の意義に忠実であるように思われます。
わたしがこのように思い至るについては一つの教えがありました。敬愛する(財)合気会宮城県支部長の白川勝敏先生は神道家でもありますが、先生によれば『神道は宗教ではありません。それは人間の生き方そのもの、歩むべき道そのものです。ですから神教とは言わず神道というのです』とおっしゃっています。日本に生まれて神道の空気に触れずに生きている方は一人もいないと思います。合気道が地上天国建設のための羅針盤であると同時に、神道的素養が大先生の合気道を理解(相当むずかしい)するための羅針盤でもあるわけです。
さて、合気道の宗教的側面に対するわたしなりの理解をごく大雑把に述べました。それは武道の姿を借りた高邁な人の道でした。それでもなおかつ、わたしは、合気道は武術であると言っておきます。大先生の目指された生きる道としての合気道をわたしは最大限に尊重しますが、天才的武術家の大先生にして幾多の変遷を経てたどり着いた境地です。まね事ながらその軌跡を辿りたい、大先生がとっくの昔に捨ててしまったものを五感をもって追体験してみたい、そうしないと本当には理解できないのではないかと、そう思っているからです。
そんなわたしを哀れと思し召して、これからもこのブログをご笑覧いただければ幸甚に存じます。
天国はあの世ではなく地上にこそ築かれます。
皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。