合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

123≫ 世界標準 ①

2010-02-28 15:25:10 | インポート

 いよいよ、世界標準( にしたいと勝手に思っている技法 )の中核をなす基本の技について、能力の範囲で説明してまいります。

 まず一つめは一教ですが、そのなかでも特に相半身片手取り表を基本中の基本として採用したいと思います。なぜ正面打ちでもなく逆半身でもなく、その他の取り方でもないのか、から始めます。

 その最大の理由は、タテの崩しを代表する一教として、武道において正中線と呼ばれる意識と運動の中心を把握するのに相半身片手取りが最も適しているからです。全ての技法において正中線を意識することは重要ですが、とりわけ一教がその代表であることは技法上ご理解いただけるものと思います。武道の勝負はつまるところ正中線の取りあいですから、その認識、獲得は最重要事項といってよいでしょう。

 それ(相半身片手取りの有効性)を考証するため、そうではない受け方とどう違うか吟味してみます。たとえば正面打ち一教を考えると、受けと取り双方が振りかぶった腕を上段で合わせますが、腕力に自信のある人ほど空手の上段受けのような腕遣い(自分の前腕を頭上に横たえ相手の打ち込みを受ける)をする傾向が強いように見えます。しかしこれは突きには有効でも、上から振り下ろしてくる攻撃(つまり正面打ち)に対する受け方としては適切ではありません。なぜなら、それはどうしたって打ち込んでくるほうが受けとめるほうより力や重さの乗りが大きいからです。横木を渡して木刀で打ち込めばどうなるかを想像していただけばおわかりでしょう。また、打ってきた腕を横にそらすにしても、受け止めるほうは前腕のみの働きとなり、正面に縦に構えた場合に比べて遅く弱いものになります。

 ですから腕を横木のように、つまり上段受けのように遣ってはいけないのですが、そのようにしている人が多いのも事実です。しかもこの場合、より正中線を意識しているのは打ち込んでくるほうです。

 大先生は、正面打ち一教表は取りのほうから打ち込んでいくのだと教えておられたそうですが、そうであればなおさら横木のような遣い方はありえません。

 そこで相半身片手取りです。正面打ちはまだしも上段で合わせますから力ずくで切り下げて押し返すことができるかもしれませんが、中下段で手首を押さえられる相半身片手取りでは、体格、体力が同等以上の人にしっかり押さえられたら、とても腕力のみで上に押し上げることはできないでしょう。ここで求められるのは単なる腕力ではなく、足腰や体幹の筋力を総合して生まれる運動エネルギーです。これは結構大きなエネルギーですから、いい加減な腕遣いでは腕が負けてしまって、エネルギー(体移動の力)を相手に十分伝えることができません。

 この場合の適切な腕の遣い方とは、肘をしぼって体の中心線に添って腕が上がっていくようにするものです。それこそが体術において正中線を意識するありかたで、それを身に付けるのに相半身片手取りが有効であると、そういうことです。そうして身に付けた腕遣いをもってはじめて正面打ちでも遣えるようになります。

 ここでひとつ注意しておくべきことがあります。以前にも言っている通り、合気道技法において表と裏はほとんど別物なので、そこは分けて考えていただきたいのですが、一教運動におけるすり上げ(表)も正面打ちの切り下げ(裏)も肘をしぼることは同じです。表の場合はこちらからすり上げ(振りかぶり)に誘う、裏の場合は打ち込んでくる相手の腕に乗って切り下げる、というように、いずれの場合も肘をしぼって、相手の力をまともに受けることはしません。

 以上が腕遣いにおける留意点です。

 次に足遣いです。これはなにより相手(受け)を押し返さないような間合いを得られる運び方でなければなりません。一教表は、こちらに向いている受けを、腕を介して後ろ向きにさせますが、このとき必要以上に押し返すような動きになりがちです。そうなると受けは足を進めて体勢を保とうとします。それでは上段の崩しをかけ一気に下に落とすという一教の意味合いがなくなってしまいます。

 そうならないためには、一歩目は相半身で前に出ている足を大きく(受けの前足に並ぶくらいのところまで)進めます。この段階では腰を低く保ち、受けの肘を軽く突き上げます。二歩目は一歩目の足と受けの後ろ足との中間に進めます。ここで受けの手を受けの後ろ足に向かって切り落としていきます。うまく運べば受けは尻餅をついたように崩れます。

 ここで、一歩目を大きく踏み出すのも二歩目は小さく進めるのも、受けを必要以上に押し返さないためです。一歩目の踏み出しが小さいと間遠になり腰も低くならないので結局手を伸ばして押し返すような動きになり、上段の崩しができません。

 手も、上に突き上げ下に落とすことで前方への移動を小さく収めることができます。要は、自分と相手とで作る空間内で技を完結するのが理想です。

 ここまでで一教(主に表の解説をしてきました)の意味を理解していただれば、裏は別物だということがおわかりいただけるのではないかと思います。表と裏で同じなのは最初の手合わせと最後の押さえだけです。間合い(距離だけではなく方向角度やタイミング、心構えも含めて)も全く違います。表が先の先だとすると裏は後の先になります(大先生は先も後もなく、既にして勝っているとおっしゃっていたようですが。ちなみにわたしは、裏の場合、受けの腕を表と同じように突き上げることはしません。体をかわして、つかみにきたり打ってきたりした腕をそのまま下に切り落とすようにしています。したがって上段の崩しは明確に表れません)。そして表は入身で裏は転換、というようにほとんどの項目で一致しません。ただ、裏は回りながらも正中線を確保する意識を錬るには好適な動きです。そのほかの点については以前に述べたことも参考にしていただき、ここでは以上ということにしておきます。

 こまかな点についてはまだいろいろ工夫すべきことがありますが、大きくは、タテ(上段)の崩しであり、それを使って正中線感覚を獲得するということで本来の目的は達成されるものと思います。

 もちろん説明不足はあろうかと思いますので、興味のある方で不明な点がありましたらコメント欄を使って問い合わせていただいて結構です。 


122≫ 技と思想

2010-02-19 12:07:11 | インポート

 一教、四方投げ、入身投げは合気道の基本の技として皆に親しまれています。これが基本の技として採用されるについて、わたしは大先生の直感と吉祥丸先生の構想力にただただ脱帽するしかありません。両師がこれらの価値と意義をどのように理解されていたのかは伺ったこともありませんから勝手な推測は差し控えるべきでありましょうが、それ以外の選択肢はありえないということは言えると思います。合気道界の末席に連なる者としてわたしもこれをそのまま世界標準技法に採用しようと思いますが、これがとても合理性に富む選択であることの理由を以下に述べます。

 これは通常、入門まもなく教えてもらうので初歩の技と思っている方も多いのではないでしょうか。しかし基本と初歩とは違います。初歩というのは、初歩の段階を過ぎたら捨て去ってもよい(意識しなくてよい)ものですが、基本はいつまでたっても大事にしなければならないものです。なぜなら、基本には技法だけではなく思想も含まれるからです。

 高等数学を学ぶ者がいつまでも初歩の算数を手がける必要はありません。しかしどこまでいっても数学の基本(加減乗除など数学を成り立たせている原則)から離れて成り立つ高等数学はありえません。それが思想だからです。

 合気道の基本の技もそれと同じなのですが、では、それのどこが思想なのか、これがよくわかっていない、あるいはそこまで思いの及ばない、またはその必要性を認めていない人がおられるのも事実です。つまり、思想なんか関係ないと。

 ところで、趣味であれライフワークであれ、それを続けていけるのは充実感や楽しさを味わうことができるからですが、つきつめていけばそれは自己の存在を確認する行為といえます。自分がいまあることの意味を行動を通じて明らかにする、そのような働きを合気道は持っています。わたしが思想といっているのはこのことです。

 合気道において技を繰り出すということは、お互いが自分の役割を自覚し、相手の行動を引き出すことでひとつの空間を創造し共有するということです。そのとき、それぞれの自己は完璧に自律的にコントロールされ、かつ他と調和しています。これが合気道における最小単位の和合であり、それを押し広げることが地上天国の実現につながります。これが合気道における根本思想です。

 その具体的表現方法が、一教(タテの崩しの代表)であり四方投げ(同ヨコ)であり入身投げ(同奥行)なのです。それらが、相手と共有する3次元空間、すなわち相互に相手の間(マ)に入り込んで形作る、相手と自分を包む空間の構成要素となります。わたしたちはその空間にあることを楽しむわけです。実際にはそれぞれの要素が単一で表れることはなく、ほとんどの場合その3つの要素が複合的に組み合わされて一つの技になります。この技を用いて合気道の思想を表現しているわけです。だからこその基本の技なのです。けっして簡単だからではありません(むしろとっても難しい)。

 さて、思想の意義を理解していただいたところで、そろそろ世界標準たるべき基本技法の説明に入っても良い頃合ですが、その前にさらに理解しておくべき大事なことがあります。それは、基本の技は全技法の中核なので、それ自体の向上なくしては全ての技法の上達が望めないということです。ですから実際の稽古方法としては、初歩の段階で基本を学び、一段上がったところでまた基本を学びというように、常にフィードバックしながら基本技法の精度を上げていくということを心がける必要があります。一般的に考えられているような、基本から応用へ、というような直線的で単純な図式ではなく、むしろ基本技法の精度を上げるためにいろいろな応用技法を手段として使うというのが大切ではないかと思います(これを以前の項で帰納法的稽古方法と呼びました)。

 まずはその第一歩として、次回以降、基本技法の説明をしてみようと思います。ただ、どうしても文字の限界というものはあります。たとえば≪手をチョンと当てる≫という表現からは雰囲気は伝わるかもしれませんが、その強さや角度は読む人の想像力に委ねるしかありません。一度実際に手合わせをすればすぐにわかるのに、なんとも歯がゆいことではあります。

 私事ながら、このたび講習会を開こうと思ったのも、その文字の限界を感じているからに他なりませんが、ブログはブログとして、できるだけ詳細に解説する努力はいたします。

 わたしはここにおいて、わたしが考える正しい動きを提示します。もちろんそれだけが正しくて他は間違いだなどどいうつもりは毛頭ありません。ただ、大先生や後に続く先師方の言動を検証すると、これからお示しすることが当然の帰結ではないかと思っているのも事実です。そういう意味で、わたしは自信をもってお伝えしますので、是非参考になさってください。


121≫ 上達法

2010-02-05 17:24:42 | インポート

 いよいよ世界標準作り第3番目の確認事項、≪地道に稽古することでだれでもが上達できる方法の提示≫に入ります。その提示はわたしがするということではなく、全ての指導者、上級者の仕事です。

 まず、ここでいう≪上達≫とは何かについて認識を共有しておく必要がありあます。武技として目指すのは≪遣える合気道≫です。それに向かっての武道的体つくりと武道的体捌きを身に付けるために日々の稽古があります。それを続けるなかである程度のレベルに達することを上達といいますが、≪ある程度のレベル≫については後に述べます。

 その際、なにか特別な才能が必要とされるということでは本来の武道(弱者が強者を打ち負かす技芸)とはいえません。努力次第でだれでもできるようになる、そのために上達論が必要なのです。

 わたしはかつて職人に取り囲まれて仕事をする環境に身を置いたことがあります。一番最初に熟練した職人の技を見た時はとても普通の人が行き着けるものではないと感じられました。長年の作業により、指先が下手な道具より作業に適するような形状に変形しています。それを見ただけでも畏れ入るのですが、それでも、彼らの仕事ぶりを見ているうちにある考えにたどり着きました。それは、玄人と素人の違いは絶対的なものではなく、むしろひとつのことを成し遂げるのに必要な時間、これがおそろしく違うということです。要するに玄人は短時間で良い仕事ができるのです。それで飯を食っているのですからこれは当然のことといえます。一方、素人は玄人の仕上がりに遜色ない程度に近づけることはできますが、それにはほとんど実用的とはいえない時間がかかるということです。

 そのような職人ですが、昔は(あるいは今でも)義務教育を終えるか終えないかのうちに親方のところに弟子入りし、そのそばにいることによって技と考え方を学んでいきます。そんな子供に才能があるかないかなど、親方も本人も当初はわかりっこないのです。ですがどんな弟子でも、たゆまぬ努力を重ねることによって、お金を頂ける程度には上達していくのです。

 玄人と素人の話に戻ると、たとえば手先を使って何かを作ろうとすると、素人は目で仕上がり具合を確かめるのですが、玄人は指先で塩梅がわかります。体が道具であり秤であり物差しであり算盤にもなるのです。合気道においても、初心者と上級者の違いは、そのように体が動きの物差しになっているかどうかです。

 先日これで面白いことがありました。当会の会員に技の説明をしている時、わざと間違った動きをしてほしいと頼んだら、やろうとしてもできないと言うのです。これはダメな動きを体が拒否しているのであり、体に物差しができつつある証拠です。素人から玄人に移る大切な時期であり、これを乗り越えると視界が一気に広がることと思います。

 このように、武道的体つくりと体捌きこそが上達を語る基準となるべきものですが、そのためには細かな動きの一つひとつを正確に繰り返し繰り返し練習するしかありません。ただ、どのような動きが正しい動きといえるのか、これが非常に重要かつ難しい問題ではあります。その目安を言っておくのが、このような論を展開している者の義務だと思いますので、かいつまんで申し上げます。

 合気道の稽古においては取りと受けがそれぞれ定められた動きをする中で技が成立します。ですが、受けが決められた動きとは違った動きをしたり抵抗することもあります。こんな時に取りがどうにも出来ないようでは武道とはいえませんが、ここで言いたいことはそういうことではありません。

 取り、受けとも決められた動きをきちんとこなすのは当然ですが、仮に受けが本来の動きと違う動きをした場合、その原因は何なのかを究明する姿勢が大切です。それが単なる間違いであれば次から直せば良いのですからすぐに矯正できます。そうではなくて、取りの動きにまずいところがあって、受けに無理を強いているようなケースは問題です。受けは取りに主導権をあずけて追随して動くのですから、取りが不正確な動きをすれば受けもそれに見合った動きをせざるを得ません。とりわけ、取りが受けよりも上位者である場合、受けがクレームをつけるのも憚られ、結果として双方が間違った合気道を身に付けていくことになります。

 受けが、抵抗なく窮屈さや度を過ぎた痛みなどを感じることもなく、自然に倒れたり押さえられたりしている場合、それは間合いも崩しも含め、取り受け双方とも正しい動きをしていると言って良いとわたしは思っていますが、いかがでしょう。受けをとるのが気持ち良いとまで感じてもらえるくらいの技を出せたら最高です。これも他の武道では経験しにくい合気道ならではの妙味です。

 合気道の究極の目標は≪地上天国の建設≫ですが、遣える合気道というのはその前提であると同時に必要条件でもあります。そのために体に物差しを作る、これがわたしの上達論です。

※本ブログ管理人からお知らせがあります。

 自由な発言のやりとりを大切にしたい本ブログ使って告知するのは若干憚られるのですが、これまでわたしが述べてきていることを実際に多くの方にお伝えするため講習会を開催しようと思います。黒岩先生のツメのあかでも煎じて飲むのが先だという気もしますが、ある意味でいい時期だとも思っています。

 詳しくはわたしの主宰する大崎合気会のホームページ≪http://www14.ocn.ne.jp/~aga/≫をご覧ください。東北の片田舎までおこし頂ける方はどうぞお気軽にご参加ください。