合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

343≫ 技量向上論-3 だんご理論

2018-08-05 16:24:56 | 日記
 今回は個別具体的な技術論に入る前に理解しておくべき『技の構造』について述べておきます。

 合気道の技は一説には三千数百もあるといわれます。もっとも、大先生が動けばそのまま技になるといわれていたのですから、実際はもっと多かったかもしれませんし、逆に技とはいえない程度の区別も含んでのことかもしれません。ただ、これから述べる『だんご理論』からすればそんなことはどうでも良いということがおわかりいただけると思います。

 この理論は黒岩洋志雄先生がよく稽古や講習会で話されていたことで、簡明にして、かつ鋭く合気道技法の本質をついた見方を示しています。まことに先生の天才性を見せつけられる思いで聞いたものです。

 それではこの理論を説明しますが、文章だけですので、ぜひ想像力を駆使して動作を思い描いてください。まず、稽古相手の協力を得て、太い木に抱きつくような形で胸の高さで両腕で輪を作ってもらいます。これがだんごです。そして両手の合わせ目と胸とをつなぐように棒を保持してもらいます。これはだんごの串です。地球と地軸といっても良いのですが、『だんご3兄弟』という子供向け歌謡が流行っていた頃だったので先生はだんごということにしたのだと思います。

 それはいいとして、ある程度棒をしっかりと握ってもらい、こちらはその棒をゆっくりとひねり回します。そうすると輪もゆっくりと回り、片腕が上に向かい、違う腕が下になります。この、上の腕を操作する(つかむ)のが一教、下の腕を操作するのが四方投げです。要は、基本技といわれ、別個の技と考えられている一教も四方投げも、上下どちらの腕を攻めるかの違いだけです。

 さらには、足運びもほぼ共通です。わたしの稽古では、より明確に同一性がわかるように相半身片手取り一教と逆半身片手取り四方投げで説明しています。ここで転身の捌き(転換とは逆に相手の正面に回り入る動き)から技にはいると驚くほど足運びが一致しているのがわかります。

 このように、別個の技と考えられている技が、上の手をとるか下の手をとるかの違いだけで、足運びは同じということになると、各技に本質的な違いというのは無いのではないかというところに思い至ります。結果として、稽古の目的はこのようなごく限られた動きを身につけることにあるというのがわかってきます。

 ということになると、相手がああするからこちらはこうするとか、こうきたらこうするとか、対症療法的な技術は少なくとも練習の過程ではあまり意味を持ちません。大事なのは、稽古を通じて多くの技に共通する体捌き(すなわち足運び)をしっかりと身につけることです。結局はそれがあらゆる局面に有効だからです。それが自分の間合いをつくるということになります。反対に、これがわからないと、いつまでも枝葉末節ばかりが気になる、使い物にならない技の所有者になってしまいかねません。 

 黒岩先生はよく、一つひとつの技の極めなんてのはおまけですから、錬るべきはそこじゃありません、とおっしゃっていました。その時は、ああそうですかといった程度に受け止めていましたが、実はこのような深い意味があったのだと、長い時を経て理解しました。わたし、それほど馬鹿でもないつもりですが、長いこと黒岩理論の真ん中には届いていなかったと認めざるを得ません。簡単なことって実はとても大切な事なんです。
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342≫ 技量向上論-2 間合い

2018-07-20 17:49:44 | 日記
 使い物になる合気道を求めておられる方に向け、そのための稽古法を順次述べていきますが、あらかじめ留意していただきたいことを2、3触れておきます。

 まず、上達にいわゆるコツというような安易なものは無いということ、正しい方法で人の何倍も努力を重ねること、そして稽古につきあってくれる仲間を大切にすること、それらを理解した上でご精進いただく、それが大前提です。このブログではその正しい(とわたしが思っている)方法を紹介してまいります。

 これから述べていくのは普段皆さんが稽古している合気道と違うことをしようということではありません。たぶんどちらの道場でも、強くなりたい方もおられれば健康法で楽しむ方もおられるでしょう。それでもみんな同じことをやりますね。目的でカタを分けたりしていないはずです。それと同じで、ここで述べることだって、突拍子もないことをしようというわけではありません。ただし、一つひとつの動き、一つひとつの技の意味を考えながらやりましょうということです。要するにアプローチの仕方で大きく合気道が変わります。

 さて、合気道稽古の勘どころ、その第一は間合いを感得することです。合気道に限りませんが、自分の間合いをつかめていない人はそもそも勝負に勝てません。ただ、試合がある武道では否が応でも間合いを意識せざるを得ません。結果的に間合い感覚が身に付きます。合気道ではそういう機会がありませんから自発的に間合いというものを意識することが肝要です。

 そのためには、普段の稽古のカタは間合い感覚の養成法であることに気づけば良いのです。わかりやすく言えば、肩取りは近い間合い、片手取りは中間の間合い、正面打ちは遠間を意識したものです。それを黒岩先生風にボクシング式に言えば、近間はフックあるいはアッパーカットの間合い、中間はストレートの間合いです。遠間はそのままでは安全圏で、大きく踏み込まないとパンチの当たる距離になりません。それらの距離は双方にとって同じですから、本来取りは受けの第二撃を想定して位置取りをすべきです。ただ合気道の実際の稽古では第二撃はないので、そのような対応がお座なりにされてしまいます。注意したいところです。

 要するに、受けの掛かりは単にどこをつかむとかどこを打つというだけのものではありません。一定の間合いを取りに強制してくるのです。その、受けに強制された間合いを自分のものにする、合気道のカタにはこのような意味がかくされています。これが『アプローチの仕方で大きく合気道が変わる』ということです。このようなことは動きの意味を考えながら稽古をやっていれば自ずと気づくものですが、なかなかそこまでできていないというのが実情です。

 ちなみに、古流武術において型として表現されるものは外部の人に見られても構わないもので、そこに隠された技法の本来の意味は師から口伝で教授されます。合気道ではそのようなことはありませんから自分で気付くしかないのです。その点、わたしたちに気づきのヒントをたくさん与えてくださった黒岩先生は特殊だったと言えるかもしれません。

 ここまで、話を単純化するため、間合いというものを自他の距離という意味で使ってきていますが、間合いは距離のほかに相手のいる方向、重心の高さの違いも含むより大きな空間概念です。さらには時間(とりわけ動き出しのタイミング)を合わせ、空間の間と時間の間で成り立つ四次元時空を意味します。

 さっそく今日の稽古から間合いを意識して動いてみてください。ここなら相手に追撃されるとか、腰高では引き倒されるとか、それを防ぐための足運びや体の向きなど、いろいろなことが気になると思います。それが上達への道につながります。

 間合い(四次元時空)については、あらためて四方投げや一教等の技術論でも言及する予定です。
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341≫ 技量向上論-1

2018-07-02 17:27:46 | 日記
 本ブログのように限られた興味領域のことを長いこと書き続けていると段々ネタが無くなってくるのはお察しの通りで、まあ致し方のないことです。それならやめてしまえばいいようなものですが、黒岩合気道とでも言うべきものがあった、あるいは今でもあるということを訴えるのがその流れの末に位置する一人としての役目と考え、いましばらくは続けたいと考えています。

 時間をさいて読んでくださる方々のためには常に何か新鮮な情報をお伝えしたいと思いますが、正直申し上げて特別な隠し玉があるわけではありません。それで、これまで述べてきたことを少し模様替えして表すという姑息な手を使っていこうと思いますので、笑ってお許しください。

 さて、合気道は間口の広い武道ですから修行として勤しんでおられる方から、日々の息抜きとしてあるいは健康法として取り組んでおられる方まで様々だと思います。後者に関してはあまり小難しい理屈など考えず、のびのびと楽しんでいただければ結構かと思います。一方、武術本来の制敵技法として稽古しておられる方にとっては技量の向上が一義的な目的でしょう。

 ここでひとつ問題があります。それは、正直に言うと、一般に稽古で教授される各技法は、そのままでは実戦で通用しないということです。もっと正確に言うと、自分より体格、体力が劣っている武道の素人が素手でかかってきたとき以外には通用しません。合気道に強いあこがれをもって入門し、若いころは多少血の気の多かったわたしが長いこと稽古してきて思うのですから、まあ絶対とは言わないまでも、似たような経歴の方には共感していただけるのではないでしょうか。

 柔道や空手道、剣道、相撲などをほんの少しずつかじった経験から、これらの武道はツボにはまれば一瞬で相手を制する威力をもっています。単純に言うと素人では高校生レベルにかないません。それに比べて合気道ではそういう実感はあまり持てないというのが正直なところです。その違いはどこから来るか、そしてそれではなぜ稽古を続けているのか、そういうことをここでは考えてみたいと思います。

 上記の各武道との一番の違いは試合があるかないかです。試合ではお互いが技と力をつくし、一瞬のすきに乗じて相手を制圧するわけですが、そのためには常に技量の向上をはかり、結果として個人にとどまらず斯界全体の技量が変質しつつ高度化するということになります。

 合気道ではそのようなことがありませんから、何年やろうとも技法は基本的に変わりません。ですから、初期に身につけた技を何百何千回繰り返しても文句は言われませんし、むしろ伝統を大事にする合気道家であると称賛されるでしょう。わたしは、このこと自体は否定しませんが、留意すべきことがそこに隠されていることに意欲ある合気道家は気付かなければなりません。

 もちろん、合気道においても技量の向上を感じられる稽古者は少なからずおられると思います。でもその向上感というのは動きが滑らかになったとか技数が増えたとかいうことではないでしょうか。それももちろん大切なことではありますが、合気道修行の本筋ではありません。この場合の本筋とは、合気道が武道として使いものになるかどうか、ということです。

 残念ながらいまのままでは遣えません。ですが、わたしは合気道を最強の武術と考えています。それを理論的に証明するため、どのように稽古をすればよいのか、そのことを以後何回かに分けて論じてみたいと思います。
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340≫ 潔いということ 

2018-06-07 16:29:19 | 日記
 日大アメフト部がひき起こした違反タックル事件について、合気道人の立場からなにか言うべきことがあるのではないかと、あれこれ考えていましたが、いまやスポーツにおけるルール違反の範疇を越え大学そのものの組織運営論にまで飛び火しました。

 ことの経緯をみるとそこまで世間の関心を集めていることは当然かもしれませんが、もはや一人の合気道人のブログなどがしゃしゃり出るレベルではなくなっていますので、ここでの取り扱いはやめます。ただ、ひとこと言っておくとすれば、それなりの立場にある方々でも間合いのとり方がわかっておられないということです。合気道家はその間合いというものを獲得することに生涯をかけるというのに、です。この場合の間合いとは何を指すか、その意味合いは皆様それぞれにお考えください。

 ついでにもうひとつ、マスメディアの狂乱ぶりです。事件直後のきちんとした裏付けや証拠がない時点で、すでに事件の黒白が決まっているかのような報道は、結果的に間違っていないとしても行き過ぎであろうと思います。試合におけるルール違反を扱っているのに、視聴者や読者の感情に訴えるばかりで法治の原則を無視し、自分たちの意図する方向に世論を導こうとするのは傲慢というべきものです。簡単に誘導されてしまうわれわれ世間もどうかと思いますが、まあ、いろいろ考えさせられる事件ではあります。

 ところで、ルールと感情のちょうど中間にあるのが『潔い』という価値観ではないかと思います。ルールのように固定的ではなく、感情のように個々ばらばらではない、その両面を持った感覚です。ルールではないので価値基準はひとつではありません。かといって単なる感情ではないので人によってみな違うわけでもありません。『潔い』はある程度の範囲をもつものだとお考えください。

 ルールからは多少外れるが感情に任せるほど無軌道ではない、その許容範囲がみんな生きやすい環境というものではないでしょうか。と言うといかにも捉えどころがないように思われるかもしれませんが、間合い感覚こそが『潔い』の範囲を示すものです。その間合い感覚を長い時間をかけて身につけようというのが合気道、広くは武道の修行だと思います。

 ですから、少なくとも合気道の楽しみは誰かを投げたり押さえたりするばかりではなく、その動きを成立させている原理や取り受けの役割分担などを理解することで得られるものではないでしょうか。

 件の事件の登場人物はおそらく合気道はやったことがないでしょうから高いレベルの間合い感覚というものは持ち合わせていないでしょう。したがって『潔い』とは離れた価値観の持ち主なのでしょう。もちろんアメフト愛好者がという意味ではありませんので念のため。
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339≫ 気と導き 

2018-05-20 19:53:17 | 日記
 言葉によってイメージが形づくられ、実感や経験がないのに何かわかったようなつもりになることがままあります。合気道でいえば『気』や『導き』といったようなことです。多くの合気道愛好者のなかで、本当に気というものを把握している人や相手を導いていることを体感している人は、いったいどれくらいいるのでしょうか。なんとなく感じるとかいつもやっていると信じている人は結構おられるでしょうが、それは自己催眠に類するものや慣れによるものではないでしょうか。

 黒岩洋志雄先生は稽古でこれらの言葉を使って技法を説明されることはありませんでした。ただし、気や導きというものを頭から否定しておられたわけではありません。意味を限定した上で、そのようなこともあり得るという立場です。

 今回はもう一度それらを取り上げてわたしの考えを説明したいと思います。表現の仕様によっては善意の合気道家にケンカを売ってしまうようなことにもなりかねませんが、少なくとも感情論で斯道を語ることは避けたいと思います。

 さて、最近刊の『大東流合気柔術 琢磨会:森恕著 日本武道館』を読みました。大東流についてのわたしの理解は部外者の域を超えるものではありません。ただ、数ある同流関係の出版物のなかでは、著者の真摯な人柄もあいまって参考とすべき部分がいくつかありました。

 とりわけ、この本のなかで著者が述べている『合気とは技術である』という考えには共鳴できました。変に『気』を使いまわす合気道家よりはよほど科学的であり、科学的であるからこそ再現性があるといえます。もちろん、合気技法を文章で表現することの困難さは、こんなブログを綴っているわたしにもわかりますので、わたしの理解と著者の理解に隔たりのあることは容易に想像できます。

 その上であえて言えば、読後にあってもわたしの(正確には黒岩洋志雄先生の)合気道理論は変わることがありませんでした。すなわち、著者にあってもいわゆる合気や導きというものは結局相手の自発性に依存するものであるからです。簡単に言うと、技法がきれいに決まるのは日々の稽古による慣れによるものであり、逆に武術的センスのない人には掛からない技術です。具体的に言うと、合気とそれに続く技法によってつかまれた腕を小さく回すだけで受けが飛んだり倒されたりするのは、相手に受け身の技術があるからです。受け身の技術がないと、投げられた恐怖が先に立って人間はとても地べたに向かって飛んだりできません。なにしろ人間の神経や平衡感覚は転ばないために発達したものだからです。

 また著者は相手の体の特定の部位に触れることによって動きを制御する、いわゆるツボがあるということを言っています。これもまんざらあり得ないことでもないのですが、厳密には部位だけではなくタイミングも関係するとわたしは考えています。それこそ、部外者が何をわかって言っているのかと叱られそうですが、相手が自由に動く人間であることを考えれば当然のことだと思います。

 柔道は言うまでもなく、力のぶつかり合いである相撲でもちょっとしたきっかけで相手をきれいに投げることがあります。柔道の出足払いや相撲の小股すくいなどです。これは明らかにタイミング主導の技です。試してみたい方は、稽古の時ちょっとだけ時間をもらって、自分は座り相手にはその前に立ってもらって、軽く一歩足を踏み出してもらいます。そのとき、浮いた足の足首付近にそっと手を触れると相手は躓いたように足を止めよろめきます。足と手では明らかに力の出具合が違うのに手が勝ってしまうのです。もちろんタイミングを誤ると成功しません。

 また、黒岩合気道では相手の腰を特定の方向に手で押すと腰が崩れるという技術があります。しかしこれもまた、相手がそれを予測して下半身を固めるとできるものではありません。やはりタイミングです。

 さて、気や導きというものの不確実さを言うのに合気道以外の文献を利用したのはいささか不誠実かもしれません。ただ、ここで取り上げた本は先述のとおり参考とすべき内容を含み、かつ著者の師である久琢磨氏は大先生から合気道八段を与えられた方ということもあって、わたしたちといくらか縁のある方とその著書であることを前提とした敬意を含む客観評価であって、為にする批判ではないことを申し添えておきます。

 著者は合気というものを本当にわかるためには長い長い稽古が必要だというようなことも言っています。それはまったくその通りと言うほかありません。
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