合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

140≫ 温故知新

2010-10-31 16:06:14 | インポート

 『合氣道技法』という本があります(昭和37年:光和堂。手許にあるのは復刻版:平成19年・出版芸術社刊で、だいぶ以前にわたしの修行の助けにと、大切な人から頂いたものです)。これはここでよく引用する『合氣道』の続編として吉祥丸先生が著されたものですが、この中に『現在数万に達している合気道修行者の中からも、更に飛躍した何物かを掴み、世に問うことにならぬとも限らぬのである』という一文があります。また、『この武道は翁とその後継者の絶えざる努力によって、更に無限に向上し、その技法も益々飛躍発展して止まるところを知らぬであろう』とも述べておられます。

 この一文は非常に大きな意味のある言葉ではないでしょうか。これは、わたしが勝手に思っていた『合気道は発展途上の武道である』ということを、当時の本部道場長、後に道主となられる方が自らはっきりと言っておられるのです。開祖ご自身は別として、後の合気道というものはすべてが完成されているわけではないということに他なりません。

 このことは、同書の中身からもわかります。どういうことかというと、この本はわたしが合気道に入門するわずか9年前に著されたものにもかかわらず、そこで示されている動きや技の名称と、わたしが習ったものとが既に違っているのです。わたしが入門当初に指導を受けたのは本部師範の奥村繁信先生や助教(当時の呼称)の鳥海幸一先生などで、いうなれば初代、二代の道主直系の方々です。その先生方の手法が既に本に示されたものではなくなっていたのです。もちろんそれは著者である吉祥丸先生認証の元になされたものに間違いはありませんから、その本で述べられていたように『益々飛躍発展』してきた証であると言えます。

 それを逆半身片手取り一教を例にとって検証します。まず名称ですが、同書では《腕抑え》とあり、ところどころに申し訳程度に一教と括弧書きしてあります。ですが、わたしの入門時には既に腕抑えという表現は使われていませんでした。

 次に技法について、これには転換から入る方法と入身を施す方法と二つあります。吉祥丸先生は同書において、転換からは一教表を、入身からは裏を紹介しています。もちろんそれぞれの体捌きから表裏両方できますが、特に上記のように指示しておられます。しかしながら、現今、技法全般において転換は裏、入身は表というのが基本のはずです。同書の表記はその点、明らかに違っています。そのような矛盾を抱えたまま、かつてこれらの技法が教授されてきたことは事実です。それが、わたしの入門時点では入身からは表、転換からは裏と、基本に忠実に指導されました。

 なんと短期間に変化したことでしょう。このような中核的技法でさえより合理的方向を目指して改革されるのです。そのような柔軟性こそが合気道の特徴かもしれません。

 したがって、これこそが開祖の示された合気道だ、なんて力んでみたところで、現代的価値観や社会的要求にそぐわなければ、それは単なる懐古趣味でしかありません。合気道はあくまで今を生きる現代武道です。ですから、開祖は道のすべてを作ったのではなく、道の入り口を開き、以後進むべき方向を指し示してくださったと理解すべきです。このことは後に続く者にとっては常に革新を求められるという大変な課題を負わされていると同時に、未来へ向けての進歩向上に携わることができるという大いなる希望をも与えられていると言ってよいでしょう。

 とは言うものの、具体的に何が現代にふさわしい技法なのか、今の稽古法では知りえません。試合のある武道では勝利に結びつく技法こそが求められるので、このような苦労はないだろうと思いますが、合気道では工夫が必要です。わたしは演武会こそがその新技法紹介の一番の機会であろうと思います。

 ですが現実はそれとはだいぶ異なっています。日頃のおさらい会のような現在のあり方は、それはそれで意味があるでしょうが、本来は内部でやっていればよいことで、わざわざ広域や全日本レベルに持ち出してくる必要はありません。また、次から次と演武者が登場して、ぽんぽん投げて終わりというようなあり方も、中には注目すべき演者や技法もあるだけに、改善するのが望ましいと思います。そのような場では、演武者数を制限し、時間を十分にとり、技法の事と理をきちんと紹介し、興味があればさらに細かく教授できるようなシステムにしていくのが良いと考えます。

 もちろん、毎年毎年新しい技法が登場するということは考えにくいので、人気と意義のあるいくつかの限られた技法が繰り返し紹介されることになり、結果的にそれが新しいスタンダードとなるわけです。

 ただ、そうなると立場がなくなったり、面子のつぶれる人が少なからず出てくるかもしれませんね。そのときは他武道のあり方を研究してはいかがでしょう。合気道はぬるま湯に浸かっていると感じるかもしれませんよ。

 でもまあ、なにしろ『益々飛躍発展』させなければならないのですから、ここはあらゆる人にその可能性と機会が均等にあるということで理解していただく必要があります。

 


139≫ 犬の遠吠え 

2010-10-17 14:39:52 | インポート

 しばらくおとなしめの文章が続いたような気がしています。そこにつけこんできたのでしょうか、悪魔のささやきが聞こえてきました。久方ぶりに正論(という名のいちゃもん)を吐いてみたらどうかと。こうみえても、もともとひとの揚げ足をとったり言いがかりをつけたりするのが嫌いなほうではない性分なので、ここはひとつ悪魔の誘いにのってみようかと思います。

 いまネット上には玉石混交いろんな情報があふれています。こと合気道に関しても事情は似たようなもので、指導者クラスから初心者まで、様々な人が思いのたけを述べ、あるいはまた目に訴えておられます。が、参考になるのがある一方で、役に立たないならまだしも、弊害のほうが多いようなものまで巷間に行きわたっているのが実情です。とりわけ一部の動画では見るに堪えないものがまことしやかに紹介されていたりします(ごく一部と申し上げておきます。ご縁のある方々には当てはまりませんのでお心安く。このブログのように文章中心のものは実力がバレない分、屁理屈をこねていればなんとかごまかしがきくのですが、映像ではそうもいかないようで)。

 さてそれらのうち、演武の様子を紹介したものは、観る方が勝手に上手だとか下手だとかゴタクを並べながら観ていればいいので、下手だとしても、さっきの言い方をすれば『役に立たない』で済む類のものですから、これはまだ罪が軽いほうです。

 困ってしまうのは講習や稽古指導の様子を採りあげたものです。教えるということは、教える内容について必然的にある種の権威づけがなされています。つまり、『これは開祖の理念と技法を受け継いだ正統合気道である』という前提で教授されるわけです。教えてもらう側はそれを信じて疑いません。

 しかし、わたしはここで悪魔の心をもって次のように思うわけです。『本当か?そんなものがホントに正統の合気道か?じゃ、正統ってなんだ?』と(ひとこと断っておきますと、このようなよこしまな思念にかられる時点でわたしは既にまっとうな合気道家ではありませんので悪しからず)。もちろん何が正統で何がそうでないかに明確な線引きをするのは難しい問題です。経歴にかかわらず多くの方が自分こそ正統であると考えているでしょう。そしてまた、そこには合気道の大切な要素としての精神性を盛り込む必要があるでしょうが、あいにく映像で精神性を汲み取るのはわたしの能力では甚だ困難ですから、純然たる技法のみで判断せざるを得ません。

 正統についてはあらためて論ずる機会をもつことにします。しかしそこまで行かずとも、だいたい、わたし程度の者が見るに堪えないと感じるレベルの指導者というのは、いったいどういうつもりで合気道に接しているのでしょうか。おそらく、間違っても笑って済ませることのできるやくざ踊りなみ、あるいはまた、まったくの個人の趣味くらいの意識でしかないと思えてしまいます。もともと命のやりとりを背景とした武術の現代的表現であるという認識はないとみえます。なにしろ、いい加減な間合い、ドタバタした足運び、そのあげく勝手に倒れる受け。こういうのって、他の武道では見たことがありません。

 以上は、稽古や指導にあたっての心構えや序の口レベルの技法についての感想と疑問ですが、もうひとつ、指導のあり方についても違和感を持っています。それは、動きについてこうしろああしろという指示はあっても、なぜそうするべきなのかという理由付けをしっかりされている指導者は必ずしも多くないということです。意味もわからずに、ただやみくもに動くだけなら別に合気道でなくてもよいのです。まして、実際には(実戦においては)決まったパターンの通りにはならないことのほうが圧倒的に多いのです。ですから動きの意味を知らないと技の多角的な展開、応用がきかないということになってしまいます。

 少なくとも、わたしが知る優秀な指導者は指導上そのあたりのことを決してなおざりにしませんでした。これこれこういうわけだからこのようにするのが良いのだとしっかり教えてくださいました。あることが理にかなっているかいないかということに対する理解はそれを身に付ける上でとても大切な要素です。だれだって理屈に合わないことを強制されたくないのではありませんか。そこで理にかなうか否かの判断を下すためにも動きの意味を教える必要があるわけです。それが遣える合気道に至る方法です。

 さて、《遣える》という判断基準で見た場合の武道の特殊性というか存在意義について、関係者の一部が目をつぶっていることが問題です。どういうことかというと、武道は本来スポーツの枠組みには納まりきらないもので、ある面では今日的価値観に反する部分も含んでいるという、至極当然のことに言及したがらないということです。社会的認知やそれにともなう経済的利益に鑑みて、武道の本来的意義(暗黒的歴史性に培われた部分)を意識の上で抹殺しているのではないでしょうか。

 遣う(敵に対し実力行使する)ことと遣えることは違います。遣わないことは大切ですが遣えないのは論外です。(遣おうと思えば)遣えることが武道が武道であることの必要条件であって、それに納得できない人は武道をしないほうがよろしい、そういうことです。しなくたって特に困ることもないでしょうから。

 しかしですね、実力がバレることも覚悟して映像を公開するというのは、ある意味立派です。下手な文章で偉そうなことを言い放っている誰かに比べれば(…そろそろ悪魔の力が弱ってきたようです)。いずれわたしも動画を出してみようかしらん。


138≫ 合気道の特徴 その2 

2010-10-03 15:28:11 | インポート

 一般的に合気道の特徴ということではいろいろな側面が取り上げられています。いわく、円の動きである、いわく、相手の力を利用する、いわく、順関節に極める、いわく、体術の動きがそのまま武器術に変化する、等々あげればきりがないほどで、そんなにいっぱい特徴があるということが特徴だと言えるほどです。それらはたしかに合気道の一面を伝えるものではありますが、特徴というよりは稽古における心構えといったほうが適切かもしれません。

 これはやはり相手ないしは敵に対して自分の優位性を確実なものにするレベルの技法を検証する必要があります。ものの役に立つということを武道にあてはめて言えば、たとえば、こうなれば合気道は強い、というような状況を作り出せるかどうかということです。もしそうなれば、言葉遊びのように感じるかもしれませんが、特徴が特長になっていると言ってよいでしょう。

 前回そのことに関連し、合気道の場合、間合いの内に入れてしまったら厄介だと思われるような武道であるべきだと表現したわけです。それを今回はもう少し掘り下げて、通常の稽古においてどのようにすればそれに見合う武技を身に付けることができるかということを考えてみようと思います。

 合気道は『離れたところから始まる武道』であること、『動き』が肝心であることを前回引用した二代道主吉祥丸先生の言葉で確認しました。つまり、手の届かない間合いからほぼ密着する位置までの移動こそが合気道の真骨頂であるということです。

 それを黒岩洋志雄先生は具体的に次のように表現しておられます。※相手に打たれるくらいのところまで踏み込まないとこちらも打てない。※手が有効に働く領域は両手で輪を作ったその内側。※相手との接触点までむやみに手を伸ばすのではなく歩を進めて体を寄せていく。※こちらと相手との間のすきまを自分の体で埋めていくのが技。

 読んでおわかりの通り、これらはすべて間合いと動きに関して言われたことで、それこそが相手(実戦の場合は敵)に苦戦を強いる必要条件となるものです。個別の技法はその先にあるもので、これはしっかり実の稽古(参照⑮≪ウソ≫その他:実際的用法を想定し、自分から取りにいったり掴み返したりする稽古法)を積み重ねて自分のものにする必要があります。

 以上のことは、合気道の稽古において通常指導、説明される手先の動きなどの前に、足の働きを重視するべきであるということを示しています。ここでの足の動きとは、爪先の向き、歩幅、膝の曲げ角、踏み出しの速さ、体重の載せ具合などです。合気道を特徴づけるほどの技術であれば相当に詳細な方法が示されるべきであると思うのですが、現実にはそれほどの指導がなされているようには見えません(これは全体論としてです。指導者によってはきちんとなされていることを存じています)。

 右足を一歩進める、次に左足で回るなどというごく大雑把な説明では、中級レベル以上の人の稽古のたしにはなりません。歩幅の大きさはどれくらいか、回る角度はどうか、そのとき腰の高さはどこに保つかなど、注意すべき点は本当はたくさんあるのです。それが曖昧になっているのは、そこまで細かに鍛錬しなくても稽古では受けが勝手に倒れてくれるからです。道場の古株が偉そうに振舞っていられるのも、自分たちが作り上げたそのような稽古風土に助けられ、さも実力が高いかのように自分もまわりも勘違いをしているからです。そんなところに少し足腰のしっかりした新人が入ってくると、思い通りにならずとたんに馬脚を現すことになります。ですからわたしは素人に技がかかるようになったら一丁前だと言っています。

 さて、それでは足遣いが合気道の特徴なのでしょうか。正確にはそれは合気道の特徴そのものというよりは、特徴を支える諸条件の中の上位にあるものというべきでしょう。それでは合気道の特長になりうる特徴とは何か。すでにお気づきの方もおられると思います。それは『入身』です。なぜならばすべての技は離れたところから始まり、間境を越え、相手に密着して成立するからです。それがわかれば、稽古において何が重要であるか、その重要なものを磨くにはどうするかということがはっきりしてきます。結局、合気道は入身をしっかり身につけ、それを個別技法に結びつける武道だといえます。

 今回、合気道の特徴を吉祥丸先生と黒岩先生の言葉を手がかりに探り当てようと試みました。その結果は意外にもとても身近な技法にありました。真理は極めてシンプルなものであることがここでも証明されました。正しい練習によればだれでも手に入れることができるもので、多くの複雑に見える技法をできるだけ単純に統一したいと思っているわたしには嬉しい結果となりました。

 世間にはあまり入身を重視するふうでもない稽古も散見され、それが演武会などで披露されることもありますが、そのような楽しみ方もあるのでしょうから、今回そこまで否定することはやめにしておきます。