『運動神経悪い芸人』という不定期の特集を組むテレビ番組があります。運動が苦手な若手芸人を集めて、その動きの滑稽さを笑うという、あまり上品とは言えない趣向の番組です。品が良くないといいながらわたしもそれを楽しんでいるので、多くの共犯者の一人です。
専門家によれば運動神経という神経はないそうなので、正確な表現とはいえないのでしょうが、他にも運動音痴などとも呼ばれていて、運動能力の低い人にとってはさんざんな言われようです。しかし、差別用語が厳しく批判される現在でも、運動神経悪いとか運動音痴とかの言葉がことさらやり玉にあげられるというのは聞いたことがありません。それはなぜでしょう。
これは、多くの人が、そのような能力は先天的に備わったものではなく、練習次第で向上するものだとうすうす気づいているからではないでしょうか。その能力が低い人は、これまでその能力が必要だったことはあまりなく、したがって練習の機会も必要もなかったということだと思われます。
ところで、その低い能力さえ、標準的な人と比べてその差はさほどでもないのです。小学生のころの運動会、200m徒競走を思い出してみてください。校庭一周ですね。先頭の走者がゴールのテープを切るころ、最後尾の子はどの辺にいましたか。半周も遅れた子はわたしは見たことがありません。随分遅くても最終コーナーつまり3分の2周か4分の3周くらいは来ていたのではないですか。能力差なんてその程度のものなのです。それくらいなら練習次第で平均値には必ず追いつけます。
そもそも、今や一丁前の合気道家と称する人でも、初めて経験のない動きを学んだ時は多くの人が苦労したのではないですか。
かく言うわたしも入門間もないころはみんなと一緒に動けず、当時本部から指導に来られていた鳥海幸一先生に『T君(わたしのこと)は見ているばかりで、どうして稽古始めないの』と注意されたものです。わたしの場合は技の始めから終わりまで一通りイメージできないと動きたくないたちだったので、上級者の動きを観察していたのです。その局面においては、動けないと動かないの違いはあるにしても運動神経悪い人と同じようなものでした。
ところで、合気道においては、手の動きがどうのとか足の運びがどうとかいちいち教えてくれる指導方法は多数派とはいえないと思います。教わるほうが積極的に聞いていけばそれはもちろん教えてくれるでしょうが、見て覚えなさいというのが基本です。体を使う芸事はすべてそうではないでしょうか。
したがって、ここでもっとも重要なのはその技を見とる能力です。これにもやはり能力差があるようで、指導者の動きを一度見れば頭の中にイメージとして獲得できる人とそうではない人がいます。黒岩洋志雄先生は前者で、だからこそ本部の稽古生時代には、大先生の稽古が終わった後にみんなを集めて復習の時間を持った、いわゆる黒岩学校というものがあったわけです。大先生は一回しか技を見せてくださらなかったので、みんなにとって黒岩先生のイメージの記憶だけが頼りだったのです。
黒岩先生の例は、これはかなり特別な能力だと思いますが、一般的にはイメージを組み立てる力も運動神経と同じく練習によって向上するものだと思います。その肝はたぶん動きのパターン化にあります。パターンを覚えれば、今度はそれ以外の細かなところにも目が行き届きます。そうなれば先生の動きを一度見ればすぐに覚えられるというのも現実のものとなります。
動きというのはいくつかの限られた要素の組み合わせであり、そのいくつかの要素さえ覚えてしまえば無限の動きを生み出せるのです。それが合気道だとわたしは考えています。ですから合気道は体と頭を使ってパターンを表現する武道です。
運動神経悪い芸人頑張れ。
専門家によれば運動神経という神経はないそうなので、正確な表現とはいえないのでしょうが、他にも運動音痴などとも呼ばれていて、運動能力の低い人にとってはさんざんな言われようです。しかし、差別用語が厳しく批判される現在でも、運動神経悪いとか運動音痴とかの言葉がことさらやり玉にあげられるというのは聞いたことがありません。それはなぜでしょう。
これは、多くの人が、そのような能力は先天的に備わったものではなく、練習次第で向上するものだとうすうす気づいているからではないでしょうか。その能力が低い人は、これまでその能力が必要だったことはあまりなく、したがって練習の機会も必要もなかったということだと思われます。
ところで、その低い能力さえ、標準的な人と比べてその差はさほどでもないのです。小学生のころの運動会、200m徒競走を思い出してみてください。校庭一周ですね。先頭の走者がゴールのテープを切るころ、最後尾の子はどの辺にいましたか。半周も遅れた子はわたしは見たことがありません。随分遅くても最終コーナーつまり3分の2周か4分の3周くらいは来ていたのではないですか。能力差なんてその程度のものなのです。それくらいなら練習次第で平均値には必ず追いつけます。
そもそも、今や一丁前の合気道家と称する人でも、初めて経験のない動きを学んだ時は多くの人が苦労したのではないですか。
かく言うわたしも入門間もないころはみんなと一緒に動けず、当時本部から指導に来られていた鳥海幸一先生に『T君(わたしのこと)は見ているばかりで、どうして稽古始めないの』と注意されたものです。わたしの場合は技の始めから終わりまで一通りイメージできないと動きたくないたちだったので、上級者の動きを観察していたのです。その局面においては、動けないと動かないの違いはあるにしても運動神経悪い人と同じようなものでした。
ところで、合気道においては、手の動きがどうのとか足の運びがどうとかいちいち教えてくれる指導方法は多数派とはいえないと思います。教わるほうが積極的に聞いていけばそれはもちろん教えてくれるでしょうが、見て覚えなさいというのが基本です。体を使う芸事はすべてそうではないでしょうか。
したがって、ここでもっとも重要なのはその技を見とる能力です。これにもやはり能力差があるようで、指導者の動きを一度見れば頭の中にイメージとして獲得できる人とそうではない人がいます。黒岩洋志雄先生は前者で、だからこそ本部の稽古生時代には、大先生の稽古が終わった後にみんなを集めて復習の時間を持った、いわゆる黒岩学校というものがあったわけです。大先生は一回しか技を見せてくださらなかったので、みんなにとって黒岩先生のイメージの記憶だけが頼りだったのです。
黒岩先生の例は、これはかなり特別な能力だと思いますが、一般的にはイメージを組み立てる力も運動神経と同じく練習によって向上するものだと思います。その肝はたぶん動きのパターン化にあります。パターンを覚えれば、今度はそれ以外の細かなところにも目が行き届きます。そうなれば先生の動きを一度見ればすぐに覚えられるというのも現実のものとなります。
動きというのはいくつかの限られた要素の組み合わせであり、そのいくつかの要素さえ覚えてしまえば無限の動きを生み出せるのです。それが合気道だとわたしは考えています。ですから合気道は体と頭を使ってパターンを表現する武道です。
運動神経悪い芸人頑張れ。