合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

216≫ 技法考察⑦ 武器術

2013-09-20 21:20:03 | インポート

 タイトルに武器術と書きましたが、厳密には現今の合気道に武器術はありません。あるのは刀取りとか杖取りとかの対武器術です(これも、あくまでもそのかたちを利用して間合いやタイミングを身につける修練ですが)。大先生ご自身は剣、槍、銃剣術などの各種武器術をおおいに研鑚されましたが、それをまとまった形で残してはおられません。なんらかのお考えがあってのこととは思いますが。

 岩間におられた頃に教えを受けた斉藤守弘先生が大先生直伝と銘打って合気剣、合気杖を教授されましたが、一部の地域、人脈にとどまり、最終的に合気道の正規教程に組み込まれるまでには至りませんでした。他の指導者も独自に剣術や杖術を考案しておられますが、やはりいずれも市民権を得たとはいいがたい状況です。

 わたし自身は刀取りや杖取りがあるのなら、せめて初歩的な剣術や杖術があってもよいのではないかと思っています。基本的な刀や杖の扱いも知らないで稽古に用いるということがあってはならないし、その道の専門流儀に対しても礼を失していると思うからです。

 実はそれだけではなく、合気道の稽古に得物を使うことにはメリットがあります。以前にも書いたことですが、合気道の体遣い、足遣いはややもすればいい加減になりがちです。右足が出るべきところで左足を出しても、なんとなくお終いまで行ってしまう、ということはいくらでも見受けられます。本人も気づかないし、見ている人や先生も気づかない。わたしはそういうのは自分でやるのも見るのも気持ち悪くて我慢なりません。

 しかし、道具(得物=武器)を使うことによってそのようないい加減さを『矯正』できます。武器に限らず、道具というものは使う人に適正な姿勢を『強制』するからです。正眼の構えといえば、ほとんどの人は(すべての人と言えないところが苦しいですが、最近は)右手右足を前に刀を構えます。そのように、武器術には、こうあらねばならないという決まった姿形があります。ノコギリでもノミでも、包丁でも箸でも、正しい使い方をしないと能率が上がらないばかりか、ヘタをすれば自分を傷つけてしまいます。いわんや武器をや、です。

 それに比べると合気道は良くも悪くも、そのへんがユルイのです。それを得物を使うことによって、適正な構えや動きを強いることができます。適正な動きとは、手足が意味のある連動(れんどう)をすることです。

 武芸十八般という言葉があり、それにふさわしい武術家が昔はいたのでしょうが、現代に生きるわたしたちは武芸に使える時間は限られています。一般の合気道家(合気道愛好者)で考えれば、他武道を学ぶということは、そのための時間を合気道の稽古時間から割かれるということです(それでなくても少ないのに)。有意義だということはわかっていても、実行に移せる人はそう多くないでしょう。

 ですから、得物の初歩的な扱い方や作法くらいは合気道の正規教程に組み込んでほしいと思うのです。とは言っても、武術流派がいろいろあるように、剣の振りひとつとってもいろいろな考え方があることでしょう。そこで大事なのは、われわれは剣術家や杖術家になろうとしているのではないということです。合気道の向上のために剣や杖の助けを借りるのだから、本当に初歩の、基礎、基本のところを学べばそれでよいという心構えが必要なのです。それ以上のことを求める人は、それが可能な環境にあるのでしょうから思うようにご精進なさればよろしいのです。

 まずは、正眼の説明をしなくてもよい、木刀といえども刀身を持たない、座るときにどこに置けばよいか、人の通るところには置かない、せめてその程度でもわかれば第一歩でしょう。

=お知らせ=

黒岩洋志雄先生の合気道理論に則った技法をご紹介する 第7回 特別講習会を  11月17日(日)に開催いたします。

詳細は左のリンク欄から≪大崎合気会≫のホームページをご覧ください。


215≫ 技法考察⑥ 突き

2013-09-06 20:09:22 | インポート

 合気道には突きへの対処技法がありますが、これまた往々にしてファンタジーに陥っている場合が多く見受けられます。しっかりとした攻めと、しっかりとした応じ方がないと武道にはなりません。今回は、突き技法のあるべき姿を考えてみます。

 受け(攻撃側)にとって最低限必要なことは、せめて相手(取り)が『これは当たったら痛いだろうな』と思うくらいの突きを出せることです。ずいぶん控えめな要求じゃないかと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、この最低限のレベルさえ確保できていない稽古風景を目にするのは決して難しいことではありません。 

 とは言えこれは、日本武術の来歴からして、ある程度はやむを得ないところがあります。一部を除けば、日本武術において素手で相手をなぐること自体が攻めになっている流派は限られています。武術はもともと命懸けの闘争に資することを目的としていますから、殺傷力のある武器の操作に重点が置かれていて、わざわざ素手に限定した攻撃を表看板にすることは考えにくいことでした。

 そういうわけで、そもそも素手による突きという攻撃を想定していなかったのですから、それへの対処法が貧弱なのも道理なのです(短刀などの小武器による突きはありました)。近、現代になって空手やボクシングなどが入ってきて、はじめて突きというものを研究しだしたというのが実情でしょう。もっとも、琉球で空手(ただ手とも唐手とも)が発達したのは薩摩藩によって武器の使用が禁じられていたからということですが、それでも農具などに発した武器術があります。

 そういうなかで、現代武道としての合気道が時代の要請により突きへの対処法を持つに至ったわけですが、その鍛錬法はやはり未完成と言わざるを得ません。なにしろ、『これが合気道における突きだ』と、はっきりいえるようなものがあるのか、わたしは寡聞にして知りません。多くの人は空手や拳法の突きを代用にしているようですが、それらの突きはその武道の最も根幹をなす技法であり、門外漢が見よう見真似でできるようなものではないのです。

 それなら、その武道を一時的にでも学べばよいではないかという考えもあるでしょう。実際、合気道の世界にはそれらの武道を経験した人がたくさんおられます。

 しかしながら、他武道に学ぶべき点もたくさんあることは認めますが、自前の鍛錬法がないことを正当化できるほどの意義があるとも思えません。もちろん、他武道で一定程度、突きの鍛錬をしてきた人は、合気道の稽古でもそれを遣えばよいのです。問題は、そのような経験のない人が形ばかり真似てもまったく意味のある稽古にはならないということです。

 それではわたしたちはどのようにすべきか。わたしは、古流武術には必ず備わっている当身技法をしっかり身につけることが一番ふさわしいと考えます。もちろんこれもただの真似事ではどうしようもありませんが、空手などから引っ張ってくるよりは合気道としての必然性があります。

 ただしこの当身は本来攻撃技ではなく、相手を瞬間ひるませたり体勢を崩したりさせることが目的ですから、突きとしての威力よりは至近距離から急所を狙うようにできています。ですから、攻撃技法として採用するなら、それをやや遠間から打ち込んでいく形に調整する必要があります。もちろんある程度拳を鍛えることも必要です。そういう工夫をすることも稽古の楽しみにしてしまえばよいのです。

 当身のしかたは、いまはいろんな書籍等で公表されていますから探してみてください。少なくとも空手の突きほどには難しくありません(空手の突きは本当に難しいのです)。

 そのような稽古を重ねて、やっと『当たれば痛いかもしれない』と思わせる程度の突きができるようになるでしょう。とにかく、拳立て(握り拳でする腕立て伏せ)さえもろくにしないで有効な突きができるはずがないのです。

 百歩譲って、そのようなことは自分の合気道には必要ないとお考えの方はそれでも結構ですから、せめて自分たちの突きはナマクラであるという自覚だけは持っていてほしいものです。それだけでもファンタジーの世界からは距離をおくことができるでしょう。

 テーマが突きのせいか、少し攻撃的な文章になってしまったかもしれません。お許しを。