合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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127≫ 武の美

2010-04-25 18:54:34 | インポート

 世界標準技法の提示は一休みして、今回はいつもと違う角度から武道を考えてみようと思います。ここでの世界標準は合気道に関するものですが、一般的に武道における標準とは、流儀に伝わる理念を象徴的、具体的に表した技法のことであろうと思います。理念の裏付けがない技法は単に個人的な趣味嗜好の範囲にとどまるものです。

 さらに標準というからには、そこにはある種の普遍性があるべきで、それはすなわち時代を超えて伝授すべき価値を持つということです。他所に例をとれば、いまも残る伝統武術には創始者の思いとそれを引き継いだ人たちによって培われた武の本質が感じ取れます。ここでいう武の本質とは、要するに自分を守り敵に勝つことに他なりません。しかし、少なくとも日本伝統武術においてはそれだけでは価値あるものとは認められませんでした。そこには美学がなければならないのです。

 ちょっと話は違いますが、俗に≪横綱顔≫という言葉があります。大相撲の横綱たるものはだれもみな美男におわします、ということになっています。まあ、例外もなくはないのでしょうが、立場が人をつくるということもあり、ひとかどの人物はそれに相応しい容貌を持っているということはいえると思います。これはやはり実力に裏打ちされた美しさを表す言葉でありましょう。

 さて、かつての武人は常に死と隣り合わせにいて、最も命のはかなさとありがたさを感じていた人種であろうと思います。そういう彼らの着用した甲冑は己の身を護る道具であると同時に自己表現の手段でもあり、かつまた武運つたなき場合には死装束ともなるもので、それゆえ自分の生を語り死を飾るにふさわしい個性的で優美な形態を持たせたのでありましょう。

 彼らは平時には能や詩歌、音曲、絵画、工芸などにも親しみ、現代のわたしたちの想像以上の美意識を持ち合わせていたようです。そのような武人が、自分の本領である武芸に美を求めなかったはずがありません。実際、今に残る伝統武術の有りようは、優勝劣敗を決める手段にとどまらず、動きにも得物にもそこはかとない美しさを感じとれるものです。それらはしかし、時に見とれるほど美しくありながら、なおかつ武術としての本来の働きを損なうものではありません。

 つまり、優れた武道は美しいのです。それはやはり武道としての強さの裏付けをもつ、いわゆる機能美であろうと思います。ひるがえって合気道はどうでしょうか。わたしはこれはとても美しい武道だと思っています、本来は。しかし多くの場合、美しさが誤解されているように思います。

 かつて、演武会等で技を華麗に見せてくださる先生がいらっしゃったのです。わたしもその華麗さに惹かれましたが、自分でやろうとは思いませんでした。そこで示された華麗さは武の本質から外れていると思ったからです。でも、その動きをそのまま受け取って合気道を理解した人たちがたくさんいたのも事実です。その先生は、そのような動きはあくまでも演武用だとおっしゃるべきでした。

 一方、それと反対に、力強さを前面に出した合気道こそが本物だとの信念を貫いた先生もいらっしゃいました。それもある意味見事な生き方ではありますが、いかんせんスマートじゃない。美しさとは縁遠いところにあります。強さが美しさまで昇華していないというところでしょうか。

 どちらの例でも、合気道家は不器用だなぁ、というのがわたしの感想です。

 いま合気会では基本技法の統一に向けた動きがこれまでになく強まっているように思います。≪基本≫とあえて言ったのは、少なくとも地方における講習会等では本部師範方がそれ以外の技をお採りあげにならないので評価、判断のしようがないからです。いまの段階では個々の自由に任されているということでしょうか。

 それはそれとして、現在の状況は、個性豊かな開祖の直弟子師範方が世を去るにつれ(はっきり言えば目の上のたんこぶが消えるにつれ)、権威の有りどころを明確にし、拡がりすぎた間口を一旦収斂して、技法を標準化させようということなのでしょう。これは、一流をなすうえで当然のことではあります。

 そうであるならば、この機会にこそ合気道がもともと持つ強さと美しさを兼ね備えた優れた技法を理念とともに提示することこそが大切ではないかと思うのです。ここでいう理念とは、合気道の思想ではなく、それを実践する上での技法の必然性を説明する理論のことです。

 しかし、どうもそのようなことは権威筋からは聞こえてきません。わたしごときが、失礼を省みず、分際もわきまえず、世界標準を謳っているのはそういう説明不足な状況への警鐘のつもりでもあります。ですから、今後どなたかが何かを示され、それを標準と称しても結構ですが、その場合は時代を超えて伝えられるべき価値を有するものであることを是非証明してくださることを心から期待するものです。


126≫ 世界標準 ④

2010-04-10 13:13:57 | インポート

 大先生によれば3000を越えるといわれる合気道の技の中で、ちゃんと名前のついているものは10種前後でしょうか。現代剣道のように、面、胴、小手、突きの4種しかないのは別格として、武道流儀の技法名が10種というのはいささか少ないと感じられます。

 ただ、仮に3000の技にそれぞれ名前がついていたとして、それによってもたらされる混乱や得失を考えると、本当に大事なものにだけ名前をつけておくというのは案外賢い判断なのかもしれません。

 そういうわけで、さすがに基本の技とされるものには一教、四方投げ、入身投げと名前がありますし、それに準ずる技とされるものにもなんとか名前がつけられています。

 今回はそれら(基本に準ずる技)について、その技法上のポイントを示しておこうと思いますが、それを説くにあたっては『遣おうと思えば遣える』ということを前提に話を進めます。つまり、予定調和的に受けが勝手に倒れてくれるというようなものではなく、取りが積極的に受けを倒しにいくことを踏まえた技法を提示します。

 それでは天地投げからまいりましょう。この技はわたしが大いに気に入っているものです。なぜかというと、崩しの理にぴったりはまると面白いように受けが倒れること、そして≪虚と実≫の稽古の意味をはっきり認識できる技だからです。

 その一番のポイントは【天地】投げでなければならないということです。あえてこんなことをいうのも、多くが≪左右≫投げになっているからです。天地ですから、両手は正中線上を上下に開くのであって横に広がってはいけません。きちんと上下に分かれないと崩れません。わざわざこのような名前をつけてあることを認識すべきです。要点としては、下の手は自分の重さを乗せられるように重心の真下にもってくる、上の手は手を上げるというよりも肘を受けの水月あたりに押し出すようにすること、以上の二点です。これで間違いなく受けは崩れます。

 以上が一般的な虚の技法ですが、それと同じ動きを自分から相手の手を取りにいって施せば、それが実の技になります。

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 次は小手返し。これのポイントはなんといっても低いところで返す、これに尽きます。このことは大先生がおっしゃていたことだと黒岩先生から伺いました。その理由を推察するに、小手返しは、返す瞬間に相手と対面するかたちになることと関係すると思います。このかたちは相手の反撃を許しかねない危険な位置取りです。そのため、転換の時点で腰を沈めて捕った手を低い位置にもっていくと、受けは肘が伸びつつ自然に前かがみになりながら回り込んでくることで一定の間合いがとれます。ここで返せば頭の位置も低くなっていて地面が目の前にあるので、受けとしては反撃よりも自分の受け身を優先せざるを得ません。合気道の投げ技はすべて脳天逆落としだということがここでも当てはまります。

 腕を大きく回して返す方もいらっしゃいますが、それはどちらかというと呼吸投げの感覚ですので、小手返しとは区別されたほうがよろしいのではないかと思います。

 その次は天秤投げです。これは受けの肘逆を攻めて投げるというように考えられています。それはそれで間違いではありませんが、その前に一旦受けの肩を突き上げて上方への崩しをかけることが大切です。下に向かって投げるために上に崩すのです。この際、取りは受けの腕に添わせた腕の先の指でのど元を突くことができます。これはまあ、あくまでもオマケですが、そのくらいの構え、位置取りだということです。

 なお、天秤投げという名前から察するに、本来は受けの腕を肩にかついで肘逆を攻める技であったのであろうと考えています。これを反対の肩にかつげば柔術の逆一本背負いになります。いずれもかなり危険な技ですので試す場合は十分に気をつけてください。

 もうひとつ、腰投げをあげておきたいところですが、こればかりはわたしの文章力ではいかんともし難い、やっかいものです。ただ、名前の通り腰投げなのであって、肩や背中に乗せるのではありませんから、そのためには取りは受けの目の前に腰を差し出せばよいのです。そして受けが、鉄棒で回るように取りの腰を軸に回って落ちれば成功です。けっして力技で右から左に担ぎ投げるのではありませんのでご注意下さい。

 ちなみに≪腰投げの黒岩≫と呼ばれた先生の腰投げは、正面から相手の股ぐらに前回り受け身のように頭を落として入っていき、後ろの足を一歩進めてひょいと起き上がるようにして後ろに落とす投げ方でした。わたしはもともと腰投げが得意ではありませんでしたが、この技法を身に付けてからは普通の腰投げも難なくこなせるようになりました。

 以上、基本の技に準ずるものとして、とりあえずこれくらいをあげておこうと思います。ここで気付くことは、名前というのはその技の勘所をきちんと表現しているものだということです。古流武術の技法名などに比べれば少々味気ないと思われる名前ではあるのですが、後進のためにそのように表そうとされた先人の苦労や工夫にわたしたちは感謝すべきであろうと思います。