合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

256≫ 年末のご挨拶

2014-12-28 16:14:44 | 日記
 だいぶ寒さが厳しくなってまいりました。わたくしの主宰する会も25日に稽古納めをし、新年5日の稽古始めまで10日間の休みに入りました。

 この期間はややもすると怠惰になりがちで、体もなまってしまいます。といって合気道の場合、一人稽古というのもなかなか様になりません。学生時代に長期の休みで帰省するとき、指導者の方や仲間にその方法を訊ねましたが、これといって有効な方法を示してはいただけませんでした。結局は自分で工夫するしかないようです。ちょっと広い空間があれば木刀や杖を振ると良いと思いますが、一般的な住環境ではそれもできないことのほうが多いでしょう。

 そこで提案です。まずは一般的な柔軟体操で十分に体を覚醒させます(体はなまけ者で、甘やかすとどんどん怠惰になります)。その上で持久力トレーニングや筋力トレーニングをしたい人はそうすればよいと思います。年齢にもよりますが、一般の社会人の場合、柔軟体操だけでも体力、体調維持には十分効果があります。また、この柔軟、持久力、筋トレという順序は自分の経験から体力維持のために重要と思われる順番です。前の項目を飛ばして筋トレばかりやるような方法はお勧めしません。

 言うまでもなく、やり過ぎは絶対に良い結果を生みませんからご注意ください。プロならまだしも、一般の方にとっては益がありません。故障をかかえ歳をとってから苦労します(そういう人をたくさん見てきています)。

 以上はごく普通のことで、特に目新しいことはありません。そこで、わたしがお勧めするのは、体さばき、すなわち足運びの練習です。体さばきは武道の基本中の基本で、かつ極意に至る必要条件です。その体さばきを実現するのが足運びですが、普段の稽古では相手のあることでもあり、自分の興味で足運びばかり練習するわけにもいきません。ですから、休みのときに家の中でできる稽古法としてこれをやってみてはいかがかと思うわけです。わたしの理想は精密機械のように精度の高い足運びです。それを休みの間に身につけることができたら素晴らしいではありませんか。畳一枚分のスペースがあればできますから試してみてください。

 ただ、そのためには本来あるべき足運びというものを知っていなければなりません。このブログでずっと言い続けていますが、どのような足運びが正しく何が間違っているかは普段の稽古のなかで探り出しておく必要があります。そのことは本来指導者が教える責務を負うべきものですが多くの方が注意を向けていないのも事実です。この機会に稽古の目的や稽古法を見直してみるのも良いかもしれません。

 さて、そういうことを言いながら、なんとか年の暮れまでたどり着きました。この1年、拙い文章にお付き合いいただき心から感謝申し上げます。合気道が趣味教養にとどまらず、皆様の日々の生活を力強く支える身体文化となりますよう願っております。

 それではどうぞ良いお年をお迎えください。

255≫ 法話から

2014-12-17 11:53:08 | 日記
 今年もあとわずかの日を残すばかりとなりました。日暮れて道遠し、特に何事かを成したということもなく、まことに慙愧に堪えない思いです。

 ところで、この《慙愧》、その出典は涅槃経という仏典であることをつい先日知りました。父の二十三回忌をささやかに行じた際、方丈様に法話をいただいたのですが、そこで引用されていました。

 慙愧とは天に恥じ、地に恥じ、己に恥じることで、仏典にはそのような心の無い者は人ではないと記されています。ずいぶん強い表現ですが、このことを日常的に平易に言えば、世のため人のためと頑張ってみても、それでも最後には自分かわいさの気持ちが残るであろうから、そこで廉恥を知らなければならないということのようです。われわれ凡人にはそれくらいの受け取り方でちょうど良いのではないかと思います。そのためには自己を慎み、調え、気ままを言わないことだと教えていただきました。

 日本人の価値観の底流には恥の文化があるといわれますが、元をたどっていけばここに至るのかもしれません。よく、武士道を語るときに陽明学など儒教からくる論理あるいは倫理に言及されますが、仏教の教えも同等以上に影響を与えています。山岡鉄舟などは神儒仏をひっくるめて大切に考えていたようですが、このような柔軟な受け止め方もやはり日本人特有の価値観を形成する一助となっているのでしょう。

 それはともかく、わたしのようなものが何を為すでもなく、あっという間に一年を終えようとしている一方で、新しく稽古会を始めた方が、知人やこのブログを通じての仲間を含めて三人いらっしゃいました。それぞれ事情が違うでしょうが、何事によらず新規に始めるについてはいろいろと苦労があります。その苦労が将来実を結ぶことを願ってやみません。
 
 わたしの場合、大学を卒業し帰郷して、まったく私的な稽古会を始めてから38年になります。当時、稽古場所の確保や人集めで何人もの友人、知人に世話になり、本当にありがたく思っています。そして、帰郷の後も数年のあいだは月に一回くらいのペースで黒岩洋志雄先生の指導を受けるために上京できたことがなんといっても一番の支えでした。

 先生のその存在感には較ぶべくもありませんが、わたしもそのようなかたちで後進の方々のお役に立ってよい歳になりつつあるだろうと感じています。ただ、わたし自身いまだ発展途上にあると考えていますので、当分のあいだ(あるいは一生)利他と自利の2本立てで頑張ろうと思いますが、自利にかまけている限りこれもやはり慙愧なのでしょうね。 
 
 ところで。当会に20年以上も在籍している人が先日、三教を稽古しているときに、『ああ、この肘の角度は90度を保つと良いのですね』としきりに感心していました。彼はこれまでも稽古ではいつもそのようにしているのですが、特に角度を意識したことはなかったらしいのです。ところが、それを意識したとたん、動きの意味がわかり、技の切れ味も違ったとのことで、『合気道は何年やってもどんどん上達するものですね』と有り難い感想を述べてくれました。

 それに関連するようなことを例の法話でもうひとつ勉強しました。自己を慎み修めるには齢(よわい)と経験が大切で、それを積んで習熟することを老というのだと伺いました。そうすると、老人というのは馬齢を重ねた者ではなく、習熟者を意味するのであり、年長者を敬うべき根本の理由がここにありそうです。

254≫ 講習会資料から② 

2014-12-06 16:07:54 | 日記
 前回に引き続き、当方の講習会で配布した資料をご紹介します。

 これは《剣の法:けんののり》=前田英樹著:2014年3月10日:筑摩書房刊=という新陰流の解説書(著者によれば技の解説書ではなく、この刀法の成り立つ根本原理を書いたということです)からの引用です。わたしはこれを読んで大いに触発されるものがありました。その一部をご紹介します。

引用①
【新陰流では、流祖以来「青岸」の太刀筋と呼んでいるものがある。これが、四十五度の傾斜角を持つ一番目の太刀筋です。
 これを正確に行うには、まず青岸の構えができていなくてはなりません。右足を前に、左足を後ろにして立ち、左腰だけを左に四十五度開いて立ちます。この時、右足は真っ直ぐ前を向き、左足は左に四十五度で開いています。こうした種類の立ち方を一般にはよく「半身」と言いますが、新陰流では「右偏身=みぎひとえみ」と呼びます。開く角度は、「青岸」の構えでは四十五度とはっきり決まっていて、そこが単なる「半身」と違うところです。】

 さて、引用①で重要と思われるのは、体や足の開き角に関し《四十五度》という具体的な数字が示されていることです。そもそもは直角の半分ということを表しているのだと思いますが、角度を限定するには、そうでなければならない合理的な理由があるのでしょう。また、デジタル的に数字を出されると、1,2度ずれてもいけないような気になるのが不思議です。もちろんそれが狙いなのでしょうし、精度を高めるということはそれほどの厳しさを伴うのだということをわたしたちはここから学ぶべきです。
 わたしたちの半身は必ずしも四十五度でなければならないわけではありませんが、さりとて他に定められた角度というものもなく、ここで言われている『単なる半身』の域を出ていないのでははいでしょうか。各自がそれぞれ意味のある角度を作り上げることが肝要かと思います(本当は、吉祥丸先生が足の構えを定めておられますので、そこから一定の角度が生まれます。今はだれも気にしていないのです)。

引用②
【大切なのは、打ち込んだ時の立ち幅です。これは必ず「一歩長」に維持されていなくてはなりません。右足を大きく踏み込んで、左足を継ぐ時、この左足は右足との間に「一歩長」を保つ位置で、自然に止まらなくてはなりません。接近した間合で、右足の踏み込みがほんのわずかでしかない場合は、どうするのでしょう。右足を踏み込んだ瞬間に、左足を後ろに引いて「一歩長」の立ち幅を作ります。
 したがって、真っ直ぐの中段や青岸の構えから出された打ちでは、必ず自分の体から一尺くらいのところに柄頭が自然に納まるようになるのです。】

 ここでのポイントも、やはり《一歩長》という限定的単位です。さすがにこれは各人に体格の違いがありますから何尺何寸というような表現にはならないのでしょうが、必ず個々の一歩長を守る意識は伝わります。少しぐらいずれても良い、とはならないのです。
 わたしたちとしては、普段の稽古のありようを思い返して、あいまいさを改善する部分はないか考えてみる必要がありそうです。

引用③
【互いに間を詰め合って、両者の太刀先が軽く触れ合うくらいのところにまで来た時、敵が青岸の構えから、四十五度の切り筋で、こちらの左肩のあたりへ切り付けてくるとします。こちらは、切りつけてくる相手の左拳が自分の右肩の高さに下りてくるところをはっきりと観て、その左拳を青岸の太刀筋で切ります。つまり、彼我、まったく同じ太刀筋を出して、後から動いた者が勝つわけです。
 この立ち合いで最も大事な点は、自分の右肩から右膝を通る移動軸の線に、切り付けた瞬間の相手の左拳が、正確に位置していることです。切っ先から三寸位のところで、自分の刀は相手の左拳を切っている。自分の刀と相手の拳とのこの接触点が、右偏身の移動軸の先に、およそ肩の高さにあること、これが重要なのです。これによって、自分の太刀筋は、ただ相手の拳を切るだけでなく、切り込んでくる相手の体勢を、その動きの途中で大きく崩すことが可能になります。
 相手が低くこちらの腰のあたりへ切り付けてきた場合はどうでしょう。青岸の太刀筋で相手の左拳を切るには、切る瞬間に相手の拳の位置が自分の肩の高さにあるくらいまで、身を低くする必要があります。さらに低く脚のあたりに切ってくる場合には、こちらは後ろの左膝が床に着くくらいまで低くなります。そういう関係を取らなければ、切ることがすなわち崩すことになるような、彼我の接点を持つことができません。】

 引用③のポイントは読んでおわかりの通り、相手の狙い所が高かろうが低かろうが、こちらの動作は膝の曲げ角以外は何も変わらず、腰から上はまったく同じ動きと体勢であることです。相手の出方に応じて小器用に技を変えるという、言うなれば対症療法的対応とは大いに趣が異なります。
 
 ついでに言えば、崩しということを意識していることも、その専門家であるわたしたちとしては心に留めておくべきでしょう。

 さて、以上のように、新陰流というのはまことに頑固な思想を持つ流派であることがわかります。すなわちそれが原理であり法であり、流派の存在理由でありましょう。わたしたちはここで述べられていることから学ぶことがたくさんありそうです。
 
 今回紹介した本はあくまでも新陰流の解説書ですから、主たる読者として想定されている同流の修業者が読めばもっと深く理解できるのでしょうが、門外の者が読んでも大いに得るところがあると感じました。容易に入手可能ですので、ご興味のあるかたは一冊通してお読みになってみてはいかがでしょう。

 どうも他流の宣伝になってしまった感がありますが、人間がやることですから必ず共通項あるいは共感するところはあるはずです。ましてや未完の武道としては・・・。