合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

229≫ 黒岩理論 その5

2014-02-22 16:25:26 | インポート

 大宇宙 合気の道は もろ人の 光となりて 世をば開かむ》 大先生の残された道歌のひとつです。厳しい修行と考究の末に、大先生の技と精神は天地を貫き宇宙の高みにまで達したことを表すお言葉だと思います。わたしたち一人びとりは、その系譜に連なる者として誇りと責務を感じとるべき立場にあります。

 さて、そこでです。合気道に励むことがどういうわけでもろ人の光となり得るのか、凡人のわたしたちとしては(いや失礼、わたしとしては)、その因果関係といいますか、必然性といいますか、要するに論理の裏付けが欲しいところです。

 黒岩理論はその疑問に応えます。それが前回提示した、合気道の基本的な技法により3次元空間を構成するという理解であり、そこから出発することで大先生の世界を遠望できることになるでしょう。

 合気道の稽古は基本的に二人でおこないます。しかも畳何枚分かの面積があればそれで事足ります。この、少人数、小面積でおこなわれる稽古ですが、そこには一組の稽古者が技法展開することによって作り上げられる空間があり、その中で築かれる人間関係は相互の信頼に基づいた緊密なものであるはずです。

 さて、大先生がいかにおっしゃろうとも、わたしたちは一気に地球規模や宇宙規模の人間関係を想像すること、ましてや実感することはほぼできないでしょう。しかし、近くの一人を大切にすることはできます。たしかにその規模には差がありますが、目指す方向性がいっしょであれば十分に価値があります。

 つまり、わたしたちは日々の稽古で目の前の稽古相手を大切にすることで、間違いなく合気道の理想に近づいているといえるのです。そのときに必要なのが、稽古者二人が同一の空間を共有しているという意識です。そしてその空間は合気道の基本の技法によって構成されているという理解です。合気道稽古における空間は誰か一人の勝手な思いで作られているわけではないことを心に留めておくべきでしょう。

 この、合気道稽古において稽古者が作る空間というものを意識し、見えるということになれば、それは技法のみならず精神性までも引き上げるということを、だれでもすぐに実感できるはずです。そして、初めは小さな規模で始まる合気道が、稽古の成果としての心技体の向上にともなって、包含する空間が意識の上で徐々に大きくなっていく、そして最終的には冒頭の道歌の世界を目指す、これこそが修行の醍醐味といえます。

 合気道の理想は何かスローガンやオマジナイのようなものを述べ立てていれば実現するというようなものではありません。合気道の理想は合気道の稽古に励むことによってのみ近づくことができます、当然のことです。

 であれば、その稽古のあり方が正しい方向を指し示しているかどうかは常に検証されなければなりません。その道標となる人は、手首をとったり正面を打ってきたりする、いまあなたの目の前にいるその人です。だから、大事にしなくっちゃ!

 =黒岩語録 その5=

 《気》というのはね、出したり引っ込めたりっていうような、そんな便利で都合の良いものじゃないんです。1年稽古すれば1年分の気、10年稽古すれば10年分の気が自ずと表れるんです。

 だから、入門したばかりの人に『気を出せ、気を出せ』って言ったって、そりゃ無茶ですよ。それができるくらいなら、わざわざ合気道なんかに入門しませんよ。


228≫ 黒岩理論 その4

2014-02-13 16:51:13 | インポート

 『虚を真実と取り違えて喜んでいるのは、そう言っちゃ悪いですけど月謝を払ってくれる弟子にしかすぎないってことです』とは黒岩洋志雄先生の言葉。そういうわたしはその月謝さえ払ったことのない居候弟子でした。なにしろ貧乏学生でしたから、自分の所属する道場の月謝を払うのがやっとで、出稽古先の月謝までは賄えなかったのです。そんな無賃乗車のくせに先頭の景色のよい席に陣取って乗客ならぬ上客を目指していたのですからいい気なもんです。それを許してくださった先生だからこそ、このブログのような形で恩返しの真似事でもしようと思ったわけです。

 恩返しといっても、それが価値のない技法や理論であればいかに装飾をしてみたところですぐに化けの皮がはがれます。それを百も承知でなお主張できるのが黒岩合気道です。今回はその真髄をご紹介いたします(とはいえ以前の焼き直しですのでご諒解の程を)。

 それは、タテの崩しとヨコの崩しです。

 人ひとりを投げたり押さえたりするのは、柔道を見ればわかるように、本当に容易なことではないのです。このごろは消極的な動きには注意や指導などのペナルティーがあるので、十分な態勢を作れないまま相当無理な技を仕掛けていく無様な試合をしばしば見せつけられます。

 かつての試合では《一本》と《技あり》しかなかったので、それに満たないものは全て引き分けでした。もちろん体重無差別でしたから、軽量の者がいかに大きく強力の者の攻めを凌ぐかも技術の一つでした。勝たないまでも負けない、多くの日本人はそれで良いと思っていたのです。しかし、柔道が世界的競技となるにしたがって、観る側の論理が取り入れられ(はっきり言えば見世物となり)、柔道本来の品格ある技法にお目にかかる機会はめっきり減りました。

 その、品格ある技法をあらしめているのが崩しの技術です。明治期に講道館柔道が他の古流柔術を圧倒していた理由はいくつかありますが、特に注目すべきはこの崩しの技術でしょう。とにかく、しっかりと崩しをかけないと人は簡単に倒れてくれません。講道館柔道がそれを証明してくれているのですから、柔術系の武術はすべからくそれを念頭に置いておくべきです。この点に関しては合気道も例外ではありません。

 しかしながら、合気道界において崩しということを明確に意識し、それが各技本来の意味であるということを主張しておられたのは黒岩先生だけだと思っています。具体的には、一教は上段の崩し、同様に二教は中段、三教は下段、四教は地(に着く)というようにタテ系の崩しだということです。そして、四方投げはヨコの崩しを表現したものです(いずれも詳細は割愛します)。

 この、タテとヨコの崩しに加え、黒岩先生は奥行を表す技法として再び二教を取りあげています。そのことによって合気道技法はいわゆる縦横高さの3次元空間を構成していると考えておられました。

 なお、不肖の弟子としては、奥行を表す体捌きとして、二教のかわりに入身を加えることによって、合気道の基本の技としてなぜ一教、四方投げ、入身投げが採用されているかということへの解答になるような気がしています(生前、先生に伺うべきでした)。

 いずれにしろ、合気道の技法や体捌きで3次元空間を構成することにどのような意味があるのか、これは次回の課題とします。

 =黒岩語録 その4=

 『吉祥丸先生が技を整理して、それを本に著すときに、わたしは一教を腕押さえだとか、二教は小手回し、三教は小手ひねり、四教は手首押さえなんて名前にしちゃだめだって言ったんです。そんなものは技のおまけみたいなもんですから。それで吉祥丸先生と言い合いになっちゃった』


227≫ 黒岩理論 その3

2014-02-06 16:35:22 | インポート

 『本当は手を放す練習をしなくちゃいけないんです。人間は手をギュッと握るのは教えられなくてもできるんですが、手を開くのは練習しないとできないんです』。前回、黒岩語録その2として紹介した言葉です。

 それに関わる簡単な譬え話も聞きました。『両手に荷物を持って狭い道を歩いていると思いなさい。そこへ前から車が突っこんできた。そのとき、手をぱっと開いて荷物を放り出し、体ひとつで飛び退けば逃げられるのに荷物を持ったまま逃げようとするから間に合わないではね飛ばされるんですよ』。

 これは、持つという動作にしばられている稽古の問題点を指摘しているのです。さらに、持つのではなく持たされるというところまでいくと、意識の固定化に陥ります。動作の主体が相手に移ってしまうからです。これではただの傀儡になってしまいます。これがよく見受けられる、取りに振り回され派手に吹っ飛んでいる受けの実態です。

 とは言え、なんでもかんでも手を開いていたら合気道の稽古になりませんから、ここは、なぜ相手の手首を掴んでいるのか、それにどういう意味があるのか、ということをわかった上でしっかり掴む、ということでなくてはいけません。受けが掴む役割を担うことで、取りはそのことに余分な意識を払わず、したがって余計な緊張を強いられずに全体の動きに専念できるわけです。

 そのような稽古をみっちり積んで、意識せずとも正しい動きができるようになったら、次の段階では、というか最終的には取りが自分のほうから受けを掴みにいくのです。黒岩先生によりますと、戦前、陸軍戸山学校で大先生の指導を受けた方が、『植芝先生は自分から相手を掴みにいってポンポン投げておられました』とおっしゃっていたそうです。これは実際的武術としてはごく当たりまえのことでしょう。相手に掴んでもらわないと成り立たない武術というのは物の役に立ちません。

 そしてこれが黒岩合気道の中核をなす《虚と実》の理論に繋がります。虚というのは、わたしたちが日常的に行なっている稽古法です。つまり受けに掴んでもらって技を施すやり方で、これは、方便といいますか仮の姿といいますか、本質に向わせるための一つの手段です。もちろん、決してムナシイとか嘘という意味ではありません。

 そして、実の稽古の(いろいろある中の)一つが、自分から掴んでいくやり方で、本当はそこまでやらないと武術としては不十分です。ただ、自分が掴むか相手が掴むかの違いを除けば、虚の稽古の体遣いはそのまま実の稽古に通用します。そうでないと虚の稽古の意味がありません。ということは、ほとんどの稽古者は考え方を切り替えるだけで、いつでも実の技を遣えるようになるということです。(虚から実への転化法はわたしの文章力では説明しにくいので割愛します。講習会では取りあげていますので機会があればどうぞおいで下さい)。

 そしてこの先に、黒岩先生が目指した《使い物になる合気道》があります。もちろんこれだけで使い物になるわけではありません。さらに重要な理論は次回以降に述べてまいります。

 =黒岩語録 その3=

 『師匠とすれば、弟子がすべて自分の真意をわかってくれるとは思っちゃいないけれど、逆のことを言ったとしても気づいてくれるのが本当の弟子であって、虚を真実と取り違えて喜んでいるのは、そう言っちゃ悪いですけど月謝を払ってくれる弟子にしかすぎないってことです。』

続く