世の中に存在する全てのものには、そこに至るもともとの原因があります(因)。その原因に途中で何らかの働きが加わり(縁)、そして現在があります(果)。それで、因縁といったり因果といった言葉があるわけです。そのような法則が全ての存在を規定しています。
いまや世界的武道といってよい合気道という存在にも、根本原因と進化過程における付加的要因があります。それについては、合気道の歴史を語る書籍もありますし、開祖に直接そのいきさつを聞かれた方もいらっしゃるでしょう。そこには合気道創始にいたるまでの開祖の修行歴や、合気道黎明期から今日の状況まで述べられています。その中で、わたしがもっとも興味をひかれるのは、開祖がどうして旧来の伝統武術に止まらず、あらたに合気道を創始したか、あるいはせざるを得なかったかという、その理由です。しかしながら、その合気道誕生の《なぜ》について明確に示された資料を見出すのは困難で、少なくともわたしの疑問にストレートに答えたものは見当たりません。なければ自分で考えるしかないわけで、限られた資料からなんとか糸口を見つけてみようと思います。
合気道の公式な歴史については碩学の方々におまかせし、ここでは時代背景や回りの環境から開祖の心境を推し量り、合気道の因、縁、果を探ってみようと思います。
開祖植芝盛平先生(以降は先生)は、幼少時、どちらかといえば学問を好む傾向にあったようですが、父君の教育方針で相撲や水練など体の鍛錬にも励まれたようです。1902年(明治35年)に18歳で上京し、天神真楊流の戸澤徳三郎氏に入門されたのが正式な武道修行の始まりです。
ただ、その年のうちに脚気を患って帰郷を余儀なくされ、ほどなく快癒されたものの、翌年には大阪第四師団に入隊しておられますから、東京での武術修行は中途で終わっています。代わりに大阪では柳生流柔術の門をくぐり、あらためて修行を再開されています。
1904年(明治37年)には日露戦争が勃発し、先生は自ら望んで2度にわたって出征されています。明治39年には除隊されていますが、軍隊生活には相当なじんでおられたようです。その後、いろいろな武術修行をされていますが、その取り組み姿勢はやはり実際の戦闘経験を無視しては考えられません。
その後、北海道の開拓に従事され、その頃出会った大東流の武田惣角氏の影響は大きかったろうと思いますが、『武田先生に教わったのはみんな既に知っている技だった(黒岩洋志雄先生から伺った話です)』とおっしゃっていることから、技法そのものの変化というよりは、合気という概念を含め、武術というものに対する認識が変わったことに意味があるのではないでしょうか。それでもその時点ではまだ一流を開くということまではお考えではなかったろうと思います。
そして、父君危篤の報を聞いて郷里に帰る途次での、大本の出口王仁三郎師との邂逅が大きな心境の変化をもたらしたことは間違いないでしょう。『勝とうと思ってはいけない。武道は愛の構えでなければいけない、愛に生きなければいけない、と悟った』(合気道:植芝盛平監修・植芝吉祥丸著 光和堂-出版芸術社復刻版 以下の引用も同じ)のはその頃のことです。
さて、この特別な悟りの体験は次のように語られています。
━たしか40くらいの時です。ある日、井戸端で汗を拭いていますと、急に目もまばゆいばかりの金線が、天から無数に降って来て、体をすっかり包んだかと思うと、こんどは、みるみるうちに体が大きくなって、宇宙一杯になるくらい大きくなってしまったんです。あまりのことに呆然としているとき、はっと悟ったんです。━というものです。
先生は1883年(明治16年)のお生まれですから、その出来事があったのは1920年代半ば、大正末年のことと思われます。このことが合気道誕生に大きく関わっているといわれていますが、どうもそれだけではないようです。
前述の体験談は、某新聞による座談会の席で語られたものです。その記事を《合気道》に転載、収録しているのですが、新聞の発行日時は記されていません。ただ、前後の話の中身から1953、4年(昭和28、9年)頃の刊行物であることがわかります。その中に、『7年前、真の合気の道を体得し』という先生ご自身の発言があります。であれば、それは終戦直後のことです。わたしの手持ち資料ではそれが具体的にどういうことなのかわかりませんが、ただ、父君を思い財産を手放して帰郷したり、師と仰ぐ人に献身的に仕えたり、開拓団の人たちを一心に守ったりと、もともと家族や回りの人々を大切にする先生としては、誰にとっても一大事である敗戦を迎え、心境に大きな変化があったことは想像に難くありません。
そのころに『真の合気の道を体得』されたというのは、これまであまり注目されていませんが、現代に生きる合気道としては、とても重要なことであろうと思われます。
昭和20年代以降、先生は合気道を説明するのに、《和合》《愛》《平和》《地上天国》など、およそ武道らしからぬ言葉をキーワードとして登場させます。かつては軍隊になじんだ開祖といえども、『戦争中は人を殺傷するための武を軍人に教えたため戦後非常に悩みました』とおっしゃっており、愛と平和の武道は、なによりご自身にとって必要なものだったのかもしれません。そしてそれは身の回りの人に限らず、全ての人の幸福を、合気道を通じて築き上げたいという壮大な夢となって立ち現れたのでしょう。
先生の生きた時代の日本は、欧米列強に伍するべく近代国家建設に突き進み、その過程で幾度かの戦端を開き、あげくに国家存亡の瀬戸際まで追い詰められました。先生の武術修行もそれと無関係ではあり得なかったということではないでしょうか。
時代が先生に武術を授け(因)、諸々の人々との出会いや戦争体験を通じ(縁)、それによって先生は、それまで存在することのなかった愛の武道を確立された(果)ということでしょう。それが具体的にどういうものであるか、今後それがどうなっていくべきかは、第3ケルンに続くということで。