合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

101≫ 第2ケルン 合気道誕生まで

2009-05-19 16:16:56 | インポート

 世の中に存在する全てのものには、そこに至るもともとの原因があります(因)。その原因に途中で何らかの働きが加わり(縁)、そして現在があります(果)。それで、因縁といったり因果といった言葉があるわけです。そのような法則が全ての存在を規定しています。

 いまや世界的武道といってよい合気道という存在にも、根本原因と進化過程における付加的要因があります。それについては、合気道の歴史を語る書籍もありますし、開祖に直接そのいきさつを聞かれた方もいらっしゃるでしょう。そこには合気道創始にいたるまでの開祖の修行歴や、合気道黎明期から今日の状況まで述べられています。その中で、わたしがもっとも興味をひかれるのは、開祖がどうして旧来の伝統武術に止まらず、あらたに合気道を創始したか、あるいはせざるを得なかったかという、その理由です。しかしながら、その合気道誕生の《なぜ》について明確に示された資料を見出すのは困難で、少なくともわたしの疑問にストレートに答えたものは見当たりません。なければ自分で考えるしかないわけで、限られた資料からなんとか糸口を見つけてみようと思います。

 合気道の公式な歴史については碩学の方々におまかせし、ここでは時代背景や回りの環境から開祖の心境を推し量り、合気道の因、縁、果を探ってみようと思います。

 開祖植芝盛平先生(以降は先生)は、幼少時、どちらかといえば学問を好む傾向にあったようですが、父君の教育方針で相撲や水練など体の鍛錬にも励まれたようです。1902年(明治35年)に18歳で上京し、天神真楊流の戸澤徳三郎氏に入門されたのが正式な武道修行の始まりです。

 ただ、その年のうちに脚気を患って帰郷を余儀なくされ、ほどなく快癒されたものの、翌年には大阪第四師団に入隊しておられますから、東京での武術修行は中途で終わっています。代わりに大阪では柳生流柔術の門をくぐり、あらためて修行を再開されています。

 1904年(明治37年)には日露戦争が勃発し、先生は自ら望んで2度にわたって出征されています。明治39年には除隊されていますが、軍隊生活には相当なじんでおられたようです。その後、いろいろな武術修行をされていますが、その取り組み姿勢はやはり実際の戦闘経験を無視しては考えられません。

 その後、北海道の開拓に従事され、その頃出会った大東流の武田惣角氏の影響は大きかったろうと思いますが、『武田先生に教わったのはみんな既に知っている技だった(黒岩洋志雄先生から伺った話です)』とおっしゃっていることから、技法そのものの変化というよりは、合気という概念を含め、武術というものに対する認識が変わったことに意味があるのではないでしょうか。それでもその時点ではまだ一流を開くということまではお考えではなかったろうと思います。

 そして、父君危篤の報を聞いて郷里に帰る途次での、大本の出口王仁三郎師との邂逅が大きな心境の変化をもたらしたことは間違いないでしょう。『勝とうと思ってはいけない。武道は愛の構えでなければいけない、愛に生きなければいけない、と悟った』(合気道:植芝盛平監修・植芝吉祥丸著 光和堂-出版芸術社復刻版 以下の引用も同じ)のはその頃のことです。

 さて、この特別な悟りの体験は次のように語られています。

━たしか40くらいの時です。ある日、井戸端で汗を拭いていますと、急に目もまばゆいばかりの金線が、天から無数に降って来て、体をすっかり包んだかと思うと、こんどは、みるみるうちに体が大きくなって、宇宙一杯になるくらい大きくなってしまったんです。あまりのことに呆然としているとき、はっと悟ったんです。━というものです。

 先生は1883年(明治16年)のお生まれですから、その出来事があったのは1920年代半ば、大正末年のことと思われます。このことが合気道誕生に大きく関わっているといわれていますが、どうもそれだけではないようです。

 前述の体験談は、某新聞による座談会の席で語られたものです。その記事を《合気道》に転載、収録しているのですが、新聞の発行日時は記されていません。ただ、前後の話の中身から1953、4年(昭和28、9年)頃の刊行物であることがわかります。その中に、『7年前、真の合気の道を体得し』という先生ご自身の発言があります。であれば、それは終戦直後のことです。わたしの手持ち資料ではそれが具体的にどういうことなのかわかりませんが、ただ、父君を思い財産を手放して帰郷したり、師と仰ぐ人に献身的に仕えたり、開拓団の人たちを一心に守ったりと、もともと家族や回りの人々を大切にする先生としては、誰にとっても一大事である敗戦を迎え、心境に大きな変化があったことは想像に難くありません。

 そのころに『真の合気の道を体得』されたというのは、これまであまり注目されていませんが、現代に生きる合気道としては、とても重要なことであろうと思われます。

 昭和20年代以降、先生は合気道を説明するのに、《和合》《愛》《平和》《地上天国》など、およそ武道らしからぬ言葉をキーワードとして登場させます。かつては軍隊になじんだ開祖といえども、『戦争中は人を殺傷するための武を軍人に教えたため戦後非常に悩みました』とおっしゃっており、愛と平和の武道は、なによりご自身にとって必要なものだったのかもしれません。そしてそれは身の回りの人に限らず、全ての人の幸福を、合気道を通じて築き上げたいという壮大な夢となって立ち現れたのでしょう。

 先生の生きた時代の日本は、欧米列強に伍するべく近代国家建設に突き進み、その過程で幾度かの戦端を開き、あげくに国家存亡の瀬戸際まで追い詰められました。先生の武術修行もそれと無関係ではあり得なかったということではないでしょうか。

 時代が先生に武術を授け(因)、諸々の人々との出会いや戦争体験を通じ(縁)、それによって先生は、それまで存在することのなかった愛の武道を確立された(果)ということでしょう。それが具体的にどういうものであるか、今後それがどうなっていくべきかは、第3ケルンに続くということで。


100≫ 第1ケルン   

2009-05-05 12:29:30 | インポート

 なんと100回目です。一昨年の2月2日から始めて、よくもまあネタ切れもせず続いてきたものです(いずれヤバくなるでしょうが)。そのうち3回は道友T様からの寄稿ですが、志を同じうするものの論述として回数に含めさせていただきます。

 そこで、ひとつの区切りとして、またここまでのまとめの意味もこめて、合気道の来し方、今、そして望まれる将来像について、何回かに分け述べてみようと思います。ただしそれは、そもそも客観的な論を張るだけの能力、知識のあるはずもない、あくまで一合気道家の主観に過ぎません。どこをどうとっても公式的見解とはズレていますから誤解なさいませんように。ですからそれを語るにあたり、せめて、合気道とわたし自身との間合いというか、思い込みの度合いのようなものをまずは開陳しておきます。わたしの論が決して推奨品ではなく、いささかの毒(致死量には届かない程度の)を含んでいることがおわかりになると思います。

 わたしはもともと武道というものに特別の関心があったわけではありません。ただ、ものごころつくかつかないかの時期に、ラジオの相撲放送を聴いて栃錦が勝つと盛んに喜んでいたらしく、また小学生のころは、ちょうどテレビが一般家庭に普及し始めた時期でもあり、ご存知力道山や吉村道明、遠藤幸吉らが活躍するプロレスや、矢尾板貞雄とかファイティング原田らのボクシングなどは父に付き合わされてよく観ました。斎藤清作(たこ八郎:我が県出身)が日本フライ級チャンピオンになったのもこの頃です。また、東京オリンピックの柔道無差別級でやはり我が県出身の神永昭夫選手がアントン・ヘーシンク選手に敗れたのを悔しい思いで観たのも忘れられません。格闘技や武道というものに対する興味の種がこのころ植え付けられたと言えば言えるのかもしれません。

 わたしは、早生まれのせいもあり小学校低学年のころは体格が見劣りするほうで、どうせ負けるので自分からケンカをしかけるようなこともした覚えはありません。どちらかといえば優等生タイプ(自己申告です)の子供でしたが、妙な義侠心みたいなものはあって、争いごとがあればたいがいは弱いほうに味方していました。したがって、勝った覚えもあまりありません。

 中学に通うようになるとひょろひょろと背は伸びてきましたが痩せており、まわりの大人たちからは『ソバを縦に喰っている』などとからかわれる始末でした。スポーツは嫌いではありませんでしたが、チームプレーが必要とされる競技は苦手でしたし(気を使いすぎるのです)、格技(当時は武道をそう呼んでいました)をしようなんてハナから思いもしませんでした。それで中学校では卓球部に入りましたが、まわりはガキのくせに上級生に取り入るような輩ばかりで、3ヶ月でやめました。その後、籍だけは陸上競技部に置き、夏は水泳、冬はスキーなど(これらはチームプレーと関係ないので)をやっていました。

 高校一年のとき塩田剛三先生の演武をテレビで観たのはただの偶然だったでしょう。しかし、きっかけというのは案外そんなものです。それに大いに惹きつけられ、待ちに待って大学入学と同時にO道場に入門したのですが、それでも、ここまで長く続けることになろうとは思いもしませんでした。それが今日まで続けてこられるについては、なんといっても優れた指導者や稽古仲間との出会いのおかげであることは言うを俟ちません。

 強く望んで始めた合気道でしたが、それでもこれまでの間に稽古がおろそかになった時期がないわけではありません。わたしは好奇心が強すぎるのか、いろんなものに手を出してはやめ、出してはやめということがよくありました。東京での学生生活を終えて帰郷する前後には合気道もそんなふうになるのかなと考えたこともありましたが、これもやめてしまったら、いずれの日にか生涯を通じてやり遂げたと胸を張って言えるものが何ひとつないことになると思い、細々でいいから決して途中で投げ出さないことにしようと決めたことでした。

 そこから、青年が中年と呼ばれるまでの年数を経ました(中年とはもっと若い人だという声も)。そして、思いは形になって顕れるということなのでしょうか、ほんのちょっとしたきっかけから始めたことが、結果として、ひとに指導する立場にまでなり、わたしの人生の大きな位置を占めるものとなりました。

 しかしながらこのブログを始めて感じたのは、書けば書くほど、いままで見過ごしてきたことの多さに気づかされ、理想の合気道からは未だ遠い位置にいるなぁという感懐です。他への批判は遠慮なくするくせに、自分の技量はどうなのだと自省することしばしばです。批判はそのまま天に唾するものでありましょうし、それが主観という名の独善であることは百も承知しています。

 それでも、仮想稽古としてのブログでは書くという作業を通じて問題を明らかにし、一つずつクリアしていくことによってしか理想に近づく方法はないのだろうと思っていますので、九牛の一毛であっても、言い続け、書き続けるべきだと思っています。

 そのような立場にご理解を賜り、ブログをご覧いただいたり、コメントをお寄せくださる皆様と貴重なご縁を持てたことはこの上ない僥倖です。この機会に改めて心から御礼を申し上げます。ありがとうございます(これを一番最初に言わなくちゃいけなかったですね)。

 さて、これだけで終わると読んでくださっている方々にとって、ほとんど値打ちのない、それこそ勝手なひとりごとになってしまいますので、ひとつだけわたしの技法、というか考え方についてご紹介いたします。

 片手取り四方投げの裏の足遣いを例に。これは転換から始まりますが、わたしの場合、片足を軸に回るのではなく、半身で両足を地に着けたまま2点の母趾球(親指の付け根)で180度向きを変え(2軸回転)それから前の足を引くようにしています。それからまた2点で180度回り、前になった足をもう一方の足元まで引きつけ、そこにできたスペースに受けが落ちるような感じで倒します(一般的には前足を踏み出して受けを倒すのではないでしょうか。なお、そのとき引きつける足を柔道の大外刈りのように遣えば、受けは頭から落ちます。そんなこと稽古ではまったくする必要がありませんが、もともとそのような展開が可能な技法だということです)。

 したがって、母趾球2点での方向転換を2回やることによって360度回ることになります。常々なにげなくやっている転換や裏技を分解すると、そのような足遣い、体遣いになるのだということがわかります。そうすることによってこちらの体勢を安定させながら相手を崩すことができます。

 と、もったいぶって言いましたが、全体的な動きは、たぶんほとんど全員の方がそのようにやっているでしょう。わたしがここで言いたかったのは、合気道は円の動きだということを鵜呑みにしてただ流れるように動くのではなく、その前に細部の動きをきちんと把握することが大切だということです。例えば、宙返りの得意な人は、回っている最中も自分の体勢がいまどうなっているか認識できているのと同じです。そうでなければ体操選手のような月面何回ひねり何回宙返りなんて絶対できません。

 それに比べたら転換はずっと単純な動きなのですから、円を描くとき、最初からコンパスを使うのではなく、まずは短い直線を連続的につないで曲線を描いてみようということです。昔の大相撲中継での分解写真、今なら連写を想像してもらえばよいと思います。そうすることによって、流れだけでは気づかなかった時間、空間の各点における動きの意味がわかってきます。それがわかれば後はコンパスでもなんでも使えばよいのです。

 以上、おまけの技法論でした。

 ここまで、まずは節目の論考の前置きということで、次回に続きます。なお、タイトルのケルンとは《山頂や登山路に、道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの》と辞書にあります。

※100回を迎えたからか、バックナンバーのタイトル表示がなされなくなってしまいました。今後バックナンバー引用の際は年月日付きでお示しいたします。タダのブログなのでしかたないんですかね。