合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

363≫ 武道家の心構え 

2019-08-22 18:36:20 | 日記
 このブログをお読みいただいている ji-ji dai-chan様から次のようなコメントをいただきました。

【この一週間テレビのワイドショーや定時のニュース報道でも取り上げられている煽り運転と暴力について考えているところです。
そもそも巻き込まれないためには五感を働かせて、そういう輩には近づかない危機察知能力を高めればよいのでしょうが、仮に運悪く遭遇してしまった場合、運転席シートに座ったままだとして、相手のストレートパンチを捕えてもう一方の手で腕の下側から肘を手前に決めたら折れますね。
しかし、あとで警察や検察で、過剰防衛は起訴できません。相手の治療代はあなたが支払ってくださいなんて言われたら茫然とします。
半身半立ち技の応用できますでしょうか。
窓を開けないのが一番ですが、腕に覚え有る人ほど
反撃したくなるのでは・・・・
だまって殴られているほど胆力がないもので。
でも、現行の法律では喧嘩両成敗とか、納得いかないですね。】

 以上のようコメントです。実はわたしもこの不条理な出来事については本ブログで取り上げようと考えていたところでした。ちょうど良い機会ですので、思うところを述べてみます。もちろんわたしは一介の市民ですので、あくまでも個人的な感想でしかないことはおことわりしておきます。

 さて、テレビにこの件の動画が流れるたび、わたしは本当に胸糞が悪くなって、チャンネルを変えていました。まことに唾棄すべき男です。しかしながら ji-ji dai-chan様と同様、武道に関わる者としては如何に対処すべきかということを考えるのは義務のような気もします。それを複数の視点から見つめなおしてみたいと思います。

 まず、あのような理不尽な人間と一方的にやられるだけの人間、その両方ができあがる根本的な原因はどこにあるのかということです。少し風呂敷を広げて言うならば、戦後70年以上にわたる平和教育にあるのではないでしょうか。いや、平和教育というのは正確ではありません。無抵抗によるその場しのぎ主義とでも言うのが当たっているかもしれません。このごろネットで言われる『お花畑』というのが近いでしょうか。被害者を責めるようで気がひけるのですが、自分が平和を唱えていれば相手は攻めてこないという楽観的状況把握のことです。
 
 要するに、何をやっても相手は反撃してこないという前提で一方的に暴力をふるう者が出現し、その餌食になる人が生まれるのです。いつもここで言っている合気道の稽古法と似ていますね。もちろん合気道は暴力ではなく理性に基づく武力であり、双方の了解のもとでやっていることなのでまったく似て非なるものではありますが。

 とにかく、一方的に暴力を受けるということは、武道家に限らず絶対にあってはいけないことです。動画で見れば、顔を殴られ、それでも軽傷のようですが、ひとつ間違えば失明したり、場合によっては命を落とすことだってあります。あの場合の両者はそのことをわかっていなければなりません。ですが、いわゆる平和教育のせいで、そのような人間世界の下世話でしかも必須の、身体生命を守る教育がなされてこなかったのです。

 それはなにも肉体的なことだけではなく、心のありよう、つまり道徳の教育もなおざりにされてきたことの帰結です。学校教育で道徳を扱うことに反対する人たちがいます。それならそれで結構ですから、そのかわり自分の子供はしっかりと真人間になる教育をしてほしいものです。

 さてここまでは事件を引き起こした背景についてでした。もう一つ、武道家としてなすべき具体的な対処法を考えてみましょう。

 ji-ji dai-chanのおっしゃっていることはその通りです。要するに、対処のしかたによっては、制圧するには力が足りなかったり、反対にやりすぎたりと、ちょうど良い塩梅にはなかなかいかないものです。それを解決する方法、それは圧倒的な実力を身につけることです。大人と子供ほどの差があれば容易に解決します。理想論と思われるかもしれませんが、わたしたちはそのために日々つらい稽古を重ねているのではありませんか。圧倒的な実力があれば逃げることも守ることも可能です。もちろん最悪の場合攻めれば容易に制圧できます。なるべくそこまではしたくありませんが。

 その反対が『生兵法は怪我のもと』ということです。生兵法を是非しっかりした兵法にしたいものです。そのしっかりした兵法を身につけた人にはそれに見合った気が表れる、というようなことを黒岩洋志雄先生はおっしゃっていました。普段の稽古で気などという言葉はめったに使わなかった黒岩先生がこれだけは言っておられましたが、よく言われるオーラのようなものだろうと思います。そういう人に勝負をしかけようという阿呆はいないでしょう。そこに至るまでの稽古、修行を積みたいとわたしは念じております。

 また普段の説教、というかお節介ですが、合気道の稽古の眼目は間合いを身につけるということです。自分の間合いの内には他人を踏み込ませない、一旦踏み込んだ者は瞬時に制圧する、身を護るためには必須の意識です。なお、通常の稽古でする技法はそのままでは実戦に投入できませんのでご留意あれ。

362≫ 技法の成り立ち   

2019-08-01 17:45:53 | 日記
 普段の稽古で、教えていて一番わかってもらえないのが技法の(合気道そのもののではなく)本質です。それがわからないと合気道はダンスの域を出ません。ではその本質とはどういうことか、これを今回のテーマとします。

 以前にも述べたことがあると記憶していますが、だいぶ前に柔道経験者の門人に一本背負いをかけてもらったことがあります。親子二代の柔道家で、子どもの頃から柔道に親しんできた若者です。『本当に投げていいですか』と聞くので『遠慮なくどうぞ』と答えました。受け身には自信がありましたし、なにしろ今どきの道場用畳は表面が柔らかくできているので心配はありませんでした。それで実際に投げてもらったのですが、わたしが驚いたのは、組んでから担ぎ上げ投げるまで、要するに一連の動きがが想像以上に速かったのです。中学生の時校内競技大会の相撲に参加し、運が悪いことに相撲部員とあたり、はっけよいのこったが聞こえたと同時に土俵下まで吹っ飛ばされたのを思い出しました。どちらも速い速い。別段、掛け手が全日本レベルとかじゃなくても、素人を投げることくらいは屁でもないのです。剣道だって空手道だって同じでしょう。みっちり稽古を積んできた人は間違いなく強いです。

 そういう目で合気道を見た場合、素人相手にも途切れることのない、流れるような動きで制することができるでしょうか。これは、できそうでなかなか難しいかもしれません。いつも上手くできているのは相手が合気道の受けを知っているからです。

 しかし、それでもなおどんな相手でもきれいに制するために必要な事、それが間合い、崩し、その上での技につながる体捌きです。合気道の稽古はそれらを身につけるためになされるものです。

 武道、武術の勘どころはなんといっても間合いです。足運びも間合いを作るための手段です。次に崩し、これがないと投げ技も固め技も成り立ちません。そして、入り身、転換に代表される体捌きです。これは間合いや崩しと一体のものですが、要するに合気道の動きを象徴する合理的な体表現です。

 間合いを意識するためには、気の合う稽古仲間に頼んで、技の途中でも隙があったら打ち込んでもらったり蹴ってもらったり、あるいは返し技でもしてもらったらよいかもしれません。すると、こんなところにいてはダメなんだとか構えがなっていないんだとか分かってくると思います。

 崩しについては、これは一般的にはあまり考慮されない要素なので、どうすればよいかわからない人が多いかもしれません。でも簡単なことです。受けが、あまり崩れていないのに容易に技にかかってあげなければよいのです。うまく崩されたときには余計な抵抗をせずに技にかかればよいでしょう。これも、やり方によっては意地悪にも見えてしまうので、事前の了解のもとに実行するのがよいでしょう。

 ちなみに、黒岩洋志雄先生の合気道では一~四教がタテの崩し、四方投げがヨコの崩し、加えて二教が奥行(前後の崩し)です。さらにわたしは入り身も奥行の崩しと理解しています。

 それらを全体を通して合気道らしく表現するのが体捌きです。わたしは合気道の滑らかな動きが好きですが、それは滑らかなほうが技が強力だと思うからです。力んだ動きは見た目ほど強力ではありません。

 さて、合気道ではいろんな目的を持って稽古に励む方がいらっしゃいます。ですから、ここでわたしが述べているようなことだけが正しいなどとは露ほども考えていません。ここで対象としているのは合気道は真に強い武道である、あるいは、そうありたいと考えておられる方です。合気道は愛の武道であるとともに強力な武術でもあります。どちらを選択するかは自由ですが、合気道はそれらを全部飲み込むだけの許容量をもっています。できれば両方選んでください。

 良かったですね、合気道家で。