合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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179≫ 武道の中核たれ  

2012-05-21 16:05:25 | インポート

 このブログを通じてわたしが言い続けてきていること、それは、一定以上の立場にある合気道家はすべからく合気道の武術性というものにもっと関心をはらうべきだということです。ここで言う武術性とは単純に闘争、格闘のための技術であり、それを支える理念のことと受け止めていただいて結構です。ですが、それと現今合気道が掲げている理念(愛と和合、地上天国の建設など)との落差が大きいため、武術性というものを声高に語る人はあまり多くないでしょう。

 しかし、それでもやはり合気道は武道の中核として武術を語るべきだと思います。なぜ合気道が武道の中核と言えるのか、なぜ合気道が武術を語らなければならないか、それについて今回は釈明したいと思います。

 かつて武術といわれた各種戦闘法が古流などと呼ばれ、今や愛好者人口の多い柔道、剣道、空手道、あるいはわれらが合気道などが、その存在感により武道界の中心であるかのように一般には認識されています。わたしは一介の合気道家であって専門の武道研究家ではありませんので、武術から武道へと呼称が移行したのがいつのころのことかは厳密にはわかりません。柔道を例にとっていえば、嘉納治五郎師が教育手法としての理念のもとに、それまで柔術といっていたものの中から特定の技法を抽出し、大々的に柔道という名称を採用したのが明治10年代なかばのことです。しかしそれ以前にも柔道の呼称を用いていた柔術流派がありますので、嘉納師は正確には講道館柔道の創始者と呼ぶのがふさわしいのです。そのあたりの事情は剣道でも似たようなもので、剣術、撃剣、剣道と、同時期に複数の呼称が並存しながら明治から大正にかけて徐々に変わっていったようです。

 術から道に変わるのは、一般的にはより精神性を重んずるがゆえと考えられますが、その精神性とは明治、大正期においては単なる心の涵養という意味ではなく、むしろ国威発揚を目指した精神教育の手段という意味合いが強かったと思われます。また、旧来の武術がなんとか時代に合わせて生き残るための工夫でもあったことでしょう。ともあれ、初期の講道館の構成員が柔術各流の経験者であったことが物語るように、武道家といえども武術性と縁が切れたわけではありません。剣道にしても、かつての軍人にとって刀は決して装飾品ではありませんから、やはり武術としての直接的効用は当然期待されていました。

 このように、明治、大正期から昭和二十年までは武道と称しつつも武術性がなおざりにされていたわけではありません。そして、いよいよ戦後に至って武道から武術性が取り去られました。GHQから武道再開の認可を得るためということもあったでしょうが、日本人自身がそのような方向性を選択したということもいえると思います。その証拠に、現代の武道各団体で構成する日本武道協議会と並んで、古流武術各派によって構成する団体が日本古武道協会を名乗ることでも、術から道へという意識の変化がわかります。

 それに関連し、本道からそれますが、よそ様にちょっと苦言を。古(いにしえ)からの連綿とした流れのもとに在る武術、それをわたしたちが古流武術と呼び習わすのは当然として、彼らが自らを古武道と称するのは如何なものでしょう。それではまるで単に古いことに意味があるかのような、しかも現代的価値観に擦り寄った呼称に甘んずる古典的身体文化の保存団体としか見えません。ですが、古流武術は現代武道と比較してなんら劣るところのない、というよりも現代武道が逆立ちしてもかなわない技法と理合をもった戦闘法であり精神鍛錬法です。すなわち古流とは長い伝統を持ち、その時間の中で技法と理念を熟成させてきた最強の武道であるということ、わたしたちはそこを見誤ってはいけないと思います。

 わたしが、おのれの立ち位置もわきまえずそこまで言及するのは、そこに合気道の進むべき方向が示されていると考えるからです。それは、刀は切れなければいけないということです。わたしたちは合気道を通じて自分の体と技をしっかりと切れ味の鋭い刀に作り上げているでしょうか。現代的価値観からも受け入れられる精神の練磨は、実はそうした稽古の中からしかもたらされないのです。ぎりぎりの緊張感の中でしか生まれない精神のあり方、それが武道の精神であり、合気道の愛です。

 このような問題はもともと現代武道のすべてに存在し、各武道において本来あるべき姿と社会に受け入れられる姿との相克に悩んできたはずです。しかし戦後、直接闘争に関わるような技法や理念は、どちらかといえば善ならざるものとみなされ社会の深淵に埋没させられました。武道界もその流れに抗うことはありませんでした。これでは武道の本来依って立つところの意義を自ら擲ったといってよいかと思います。であれば、武道の関心が競技での勝敗に傾くのもいたしかたないでしょう。

 そういう現状を踏まえ、武道が武道であるための、原初を忘れぬための算段をだれが考えるべきか。必然的に、競技のない、ということは比較的古流の姿に近い合気道がその任を負うということになるのではないでしょうか(言うまでもなく試合と果し合いは別物)。

 冒頭、合気道は武道の中核として武術を語るべきだと述べました。これは合気道が現時点において武道の中核であるということではありません。中核になるべきだというのが正確です。そして、合気道が武術を語らなければならない理由は、現代武道の中で合気道だけがルールなしの真剣勝負(これが果し合いですね。当然試合はできません)を前提とした武道だからです。いまや他の武道ではそのような任に堪えられないのではないかと思うのです。ものすごく卑近な例でいえば、剣道において、相手が面を打ってきたとき、首をちょっと傾げて肩に当たればポイントを取られることはないのですが、本当なら袈裟懸けに斬られています。それは既に剣術とは別物であり、そこから剣術の本質をとらえるのはほぼ不可能です。

 わたしの言い分は相当過激に聞こえるかもしれませんが、そもそも武道(この際、武術と言っても同じ)とはそういうものでなかったでしょうか。もちろん、そんな殺伐としたことを実際にやろうということではありませんが、少なくとも心構えとして持っていなければとても武道家とはいえないと思うのです。

 わが師 黒岩洋志雄先生は、そのような、武術の持つ合理性をいかに現代社会の価値観にかなうものにして合気道に生かすかということに砕身されたと受け止めています。結果的に、先生の合気道は技法や理合において、一般的なものとは外見上若干異なるものとなっていますが、根源では大先生の合気道を踏襲したものであることは疑いがありません。むしろ、大先生の真意を見通していたのは、いささか異端の風貌をもった黒岩合気道ではないかと思っています(贔屓の引き倒しかもしれませんが)。


178≫ 間合い その3

2012-05-07 13:45:39 | インポート

 わたしは、合気道の稽古における術技上達の目安といいますか、目的の第一番は間合い感覚の獲得だと考えています。武道としてとても大切な要素ですが、合気道の場合は仮にそこがいい加減でもなんとなく格好がついてしまうところが問題といえば問題です。本ブログでは過去記事(98、99)でも間合いをテーマにしているものがあります。今回はこれに関しその3として、正面打ちを例に考えてみたいと思います。

 正面打ちは攻撃動作の基本のように思われていますが、合気道としては、これほど意味づけの難しい掛かりはないのではないでしょうか。元をただせば刀をもって真っ向から斬りこむ動作から来ているものですが、それを現代武道たる合気道に取り入れることにどのような意味があるのか、またどれほどの効用を生み出せるのかをしっかり検証する必要があると思います。

 まずは刀の振りかぶり、切り下ろしがきちんとできないと素手の正面打ちも正しくできないだろうと思います。また、単に手で打てば正面打ちになるというものでもなく、実際に当てたら打ち方によっては相手の頭より手のほうが参ってしまうことだって大いにあり得ます。このことは、万が一当たっても大したダメージのないようななまくらな突きを出された時も同じで、これでは真剣に捌きを考えようとは思わないのではないでしょうか。ともあれ今回は、なまくら手は措いておきます。

 大先生は正面打ちについて『今どきそんなふうに打ってくるやつはいない。いまはこうだ』とおっしゃってストレートパンチみたいな打ちを繰り出してきたそうですから、打ちでも突きでも問題の本質は同じなのかもしれません。ここでは一般的な正面打ちを想定しますが、稽古における有効性(武術としての)を決めるのはやはり間合いです(この場合、特に距離)。上に述べた≪問題≫とは、その間合いが稽古においてどのように作られるかということです。

 わたしの経験では、多くの場合、打ち込みの際の受けの踏み込みが足りないように感じられます(大先生は取りが自分から打っていくのだと、また吉祥丸先生は受けを誘い出すとおっしゃっていますが、ここでは便宜上受けが打っていくと表現します)。その結果、取りは特段腕で払ったり体をかわしたりしなくても相手の手刀が当たるおそれがないので、わざわざ技を施すに及ばないということになりかねません。せいぜいボクシングで言うところのスウェーバックで、それこそ文字通り間に合ってしまいます。間合いが遠すぎるわけです。

 これと似て否なるものに空手道の自由組み手における寸止めがあります。これは、当たる間合いだけれども当てないように攻撃の際、肘や膝に余裕を持たせているのであって、間遠くて当たらないのとは根本的に違います(標的を実際の体より前のほうに想定するという考え方もあるようですが、それだと突き蹴りに対する払いは遠すぎて意味をなさなくなります、他人事ながら)。

 このように、間合いの有効性を大切にする意味で、これまで自分にも稽古相手に対してもより深く踏み込むことに留意するよう求めてきました。それを大きく変えることは考えていませんが、このごろ少し緩やかに考えてもいいかなと思うようになってきました。

 その理由は、間合いの作り手は誰か、主導権は誰が握るのかということに関係してきます。良質な緊張感を伴った稽古をしようとすれば、適切な間合いは必須です。それは通常受けによってもたらされるものと考えられています(前述の、大先生や吉祥丸先生のおっしゃるように、簡単には言い切れないのですが)。しかし、本当にそれでいいのか、それなら取りは単なる受動的施術者ではないのかという思いが強くなってきました。

 わたしは、合気道の稽古において、一般に考えられているよりは受けの主体性というものを大事にしています。ですから、間合いをおもに受けが作る、あるいはそのつもりで掛かることについては肯定的にとらえています。でもそれが漫然と取りの受動性を許容してしまうということであれば話が違います。取りは技を施す一連の動きの中のいずれかの時点で完全に主導権を握らなければなりません。その、いずれかの時点というものをどこに定めるかということなのです。

 わたしはこれは早ければ早いほうが良いと考えています(極論すれば、触れた時点で勝負が決まるのが最善ですが、そうすると受けが働く時間がなくなってしまいますが)。ですから、受けが作る間合いが取りにとって不都合なものであれば(受けの都合で攻めてこられるのですから大概の場合は不都合です)、取りは積極的に間合いを作り直す作業をすべきです。したがって、しっかり面を打たれるようなら体をかわす(打ってくる腕を受け止めるのは愚策)、間遠なら自分から踏み込みを大きくして自分の体で間を埋めるということが求められます。

 要するに、正面打ちの稽古というのは、そのうような動作を利用し、間合い感覚を練ることを目的としているのだと考えるのが適切ではないかと思うわけです。相手が正面を打ってきた時の対処法を練習するのではないということです。以前に述べたことですが(98,99)、肩取りや片手取りは、初動の時点で間合いが決まってしまっています。それに対して正面打ちは受け、取り双方の裁量で間合いが変わるところが特徴でありましょう。難しさも楽しさも両方味わえる技法ではないでしょうか。そう考えてはじめて正面打ちが稽古に採り入れられていることの意味がわかってきます。

 なお、(相手と自分とのあいだの)空いたところを自分の体で埋めていくのが合気道の技である、というのは黒岩洋志雄先生の重要な教えのひとつです。これは間をつめることが技の有効性を担保するということに他なりません。いろんな動き、技にあてはまりますのでお試しください。