monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその50
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 1978年7月4日、独立記念日、わたしがエンターティナーの仕事から帰宅してしばらくして午前3時くらいに臨月を迎えていた妻が腹が痛いと訴えた。すぐにUSCジェネラルホスピタルへ車に乗せて行った。すると出産は隣のウィメンズホスピタルで行うとのことだった。大きな腹を抱えたラテン系の妊婦で賑わう待合室で妻があせって、もう生まれると言っても看護婦はゆうゆうとしてまだまだととりあってくれない。妊婦の人数がだんだん減ってやがて看護婦が妻を連れて行った。わたしは妻が出産に立ち会ってほしがっているからと立ち会いを頼んだが断られた。立ち会うためには前もってそのためのコースを受講しなければいけなかったらしい。妻はストレッチャーに乗せられて産科に入って行きわたしはドアの前で立ちつくした。受付のあたりで時間をつぶして待っていると午後5時くらいに名前を呼ばれた。新生児室には多くの赤ん坊が紙おむつ姿でうつ伏せに寝ていた。ガラス越しにわが子を探した。他の子よりかなり小さい子がそうらしかった。ラテン系の子はみんな大きく見えた。腕に巻かれたネーム票を確認して看護婦に告げると妻のいる分娩室に連れて入れてくれた。初対面のちっちゃな赤ん坊はキョトンとした顔をしていた。髪がナポレオンのような形に生えていた。宇宙人みたいにみえた。2700gで抱くとずいぶん軽かった。産婦は体調が回復するまで何日か入院するのか、と思っているとみんなすぐに退院するのだという。それでそのままヘトヘトの妻を乗せて車で帰宅した。アメリカの女性は丈夫で自分で車でやって来て出産すると自分で車を運転して帰る人もいると聞いて驚いた。日本では産後の肥立ちが悪くてよく命を落とすという話しを聞いていたのでお産は大イベントだと思い込んでいたのだ。
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カリフォルニアサンシャインその49
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わたしがハリウッドのクラブでエレキギターの相棒と仕事が終わった時、店の外に出てギター、ベース、アンプ類を車のトランクに運び込んで一旦店に戻って店主と三人でしばらく談笑してから外に出ると車のトランクを数人の黒人がバールでこじ開けていた。幸い、まだ楽器を盗らずに逃げていった。それで翌日、修理工場へトランクの修理に行って、みてもらうとトランクの奥に穴があいて後部座席が外れていたので穴の補修と座席の嵌めこみを頼んだ。多かれ少なかれエンターテイナーはそういう目に遭っている。一時、店のドアを開けて飛び込んできたガンマンがエンターテイナーのピアノに向けて発砲する事件が流行ったことがあった。その頃はみんな戦々恐々としていた。西部劇の一場面のようだった。
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カリフォルニアサンシャインその48
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ある時、中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。アコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのうちラテンギター、ジャズギター、女性ピアノという変則的な編成のバンドのベース兼ヴォーカルを頼まれた。ロックも演歌も歌謡曲もラテンインストルメンタルもなんでもありだった。とにかく譜面をたくさんコピーしてきてなんでもやれるようにまわりもちでだれかの家に集まって練習した。のど自慢などの出場者のバック演奏も譜面通りではなくその人のキーにあわせてすぐ弾けなければいけない。審査の間にはわたしはゲストのプロとして演歌の「与作」を歌ってみせたりした。わたしの家の裏庭で日曜に機材を使用してみんなで稽古していると裏の長屋のメキシカンや黒人住民が石を投げ込んできた。休みの日にうるさいと腹が立ったのだろう。わたしにとってそれは幸せな日々であった、とにかく歌を歌って暮らせるのだから…。
それは幼い頃からの望みだった

 そのころ、島健 はジャズ雑誌のファン投票で上位に入るトランペッター、アル・ヴィズッティ (AL VIZZUTTI)のバンドでキーボードを弾いていたがそれだけでは生活できないのでクラブのピアニストも始めた。わたしはその店に仕事ではなく客のフリして訪れてかれの伴奏でスタンダードやポピュラーソングを歌ったりした。
 ある音響メーカーの新製品のPCMレコーダーがいかにクリアな音でデジタル録音できるかのテストと宣伝のためにジャズバンドの紹介を頼まれて、わたしはアル・ヴィズッティのバンド を紹介した。ひとり100ドルのペイで請け負って、ドラムス、ベース、ギター、キーボード、トランペットとプロユースのスタジオで時間をかけてPCM録音した。それが日本でその社の宣伝資材として使用されたのだろう。
そのとき、島健はキーボードをハモンドオルガンの名器B3の音が出る設定にしたと自慢していた。一般の人には、それがどうした、という話題だがわたしは感心してその音を聴いた。かれは仕事をまわしたお礼にわたしの曲をアレンジしてやる、といっていた。それはかれらにとっておいしい仕事だったのだろう。

 わたしは「カリフォルニア・サンシャイン」のシングルを作っている時、島にアレンジを頼んでアルにトランペットのソロを頼もうかと思ったが、それではあまりに人頼みに過ぎるので思いとどまった。今にして思えばそれも面白かったかも。なにしろ島がのちに日本でストリングスアレンジしたサザンオールスターズの「TSUNAMI」はレコード大賞を受賞したのだから…。
 やがてラテンギター、ジャズギター、女性ピアノにわたしのベース兼ヴォーカルのバンドもみんなのモチベーションが落ちて自然解消のようになった。日々の仕事をこなすだけでなにかの目標がないとバンドの維持はむづかしい。
中島茂男はいつのまにか、サンフランシスコから戻ってきていたがもうエンターティナーには戻る気はなく別の方向に転進していた。それでわたしは中古のギブソンレスポール・エレクトリックギターを購入してふたたびひとりでエンターティナーを始めた。どんな形態であろうと歌を歌い人を楽しませて暮らせることは幸せだった。
宮下富実夫、中島茂雄、山下富美雄、そして島健というバラバラな指向性をもつミュージシャンたちをほんの一瞬邂逅させてアルバム「プロセス」を作らせふたたびチリジリにした存在の意図は奈辺にあったのだろう。
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カリフォルニアサンシャインその47
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1980年の終わりにアルバム「PROCESS」は完成して、そのころ流行の媒体、カセットテープの形でリリースした。翌年、仲間の芸術家集団の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海(MAIDEN VOYAGE)』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでこのアルバムの収録曲をライヴ演奏した。クラブ『処女航海』は昼間はバンドの練習スペースとして貸していた。それでわたしたちが到着した時アマチュアのバンドがまだ稽古していた。入れ替わりにジャズのクラブはこんなふうになっているのかと思いながら仲間と楽器と機材のセッティングをして開演を待つ。島健はピアノはスタジオミュージシャンとして手伝ったけれど自分は正式メンバーではないからと客席で見ていた。ごく普通にまるでいつもの仕事のようにライブは始まり普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。楽屋では仲間たちがドライアイスを買ってスモークマシーンに入れたり用意してわさわさしている。ライヴの後半、嵐 の曲で宮下富実夫が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。そのあとエンディングの「HOME TOWN」 を歌うと、冷たいガスがのどに入ってむせそうになって危うかった。ライヴではなにが起こるかわからない。演奏の稽古は充分したけれどドライアイスの煙を吸わないように歌う稽古はしていなかった。はじめからアンコールを求められることなど考えていなかったのでアンコールの声が沸いた時、困った。応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してごまかした。そしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。 そして、アルバム「PROCESS」 は80年代初頭には一部の支持者以外には全く理解されることなく20年の眠りについた。ふたたび目覚めるきっかけはわたしがアリオンの主宰する世紀末フォーラムに参加したことであった。そこで知り合った佐藤邦明氏の尽力によってCD化 されたのだ。デジタル化されたおかげでホームページ上にアップロードすることができたので不特定多数の人がその気になれば聴けるようになったのである。


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カリフォルニアサンシャインその46
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1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われた。今もあの時の感覚がわたしのどこかに残っている。
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カリフォルニアサンシャインその45
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わたしは高校時代アメリカのヒットランキングをノートにつけていたのだが1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドの Go Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがミックスダウンを行うことになったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。
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カリフォルニアサンシャインその44
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ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。
レコードのレコーディングはエジソンが「メリーさんの子羊」歌ってレコード盤に直接刻んだ時代からテープを使用する1チャンネル1トラックのモノラルから2チャンネル使用するステレオへそしてビートルズの4チャンネル多重録音に始まるアナログ多重録音へと移りそして倍々(バイバイ)ゲームで8チャンネルそしてすぐに16チャンネルのスタジオが主流になりそれからなんと24トラックという大きい立派なスタジオが当たり前になってしまった。それでわたしたちもアルバム「PROCESS」のプロジェクトではハリウッドのチャイニーズシアターの向いのビルにあった「ガナパーチ」というインデイアン名のエンジニアがやっている24チャンネルスタジオPARANAVA STUDIOを録音に使用しのだがプロデューサーとしての宮下富実夫は厳しくて最高の作品を製作するためにはガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンには機材がふさわしくないと判断した。理由は基本的な設備、装置や機材。それで当時最新最高の機材やエンジニアを揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。それでPARANAVA STUDIOにおいてすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンにはインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)を使用することになったのだった。
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カリフォルニア・サンシャインその43
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宮下富実夫に映画の主題歌の仕事が入った時、インデアン名「ガナパーチ」の24chスタジオPARANAVA STUDIOを使用した。英語圏用に日本の民謡の英語版を作って主題歌にするという指示を受けて、英訳は専門家に頼んで、昔、日本でジミー時田のバンドでウェスタンをやっていた人に歌ってもらった。わたしたちの役目はバック演奏と囃しことば「ナカナカナンケ、ナカナンケ」とコーラスすることだった。PARANAVA STUDIOの広い収録室でワイワイとみんなで打楽器類を叩き祭りの雰囲気をだした。そのとき普段キーボードでは気付かない島健のリズム感に驚いた。
映画ができあがって喚ばれた試写会に行くと、それは神代辰巳監督の「一条さゆり 濡れた欲情」という作品だった。英語版を作ってアメリカで公開する目論見のようだった。試写会では演奏を集中して聴き作品は流して見たけれどその後、アメリカで実際に公開されたのかどうかは定かではない。
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カリフォルニアサンシャインその42
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米国の地方からのお上りさんの聖地、チャイニーズシアターの向かいの24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)でのボーカルの収録がようやく終って録らなければならないのはドラムス、パーカッション類とピアノであった。宮下富実夫には白龍飯店(インペリアルドラゴン)でのデイスコパーテイのたび何度もドラマーとして参加してもらっていたのでその腕を見込んで中島茂男がこのアルバムでもドラマーとしての参加を打診した。宮下は腰を痛めているということで心配だったがわたしも打楽器での参加を要請した。プロデューサー、宮下富実夫はこの日はドラマー兼パーカッショニストとしての仮面を付けてレコーディングルームに入った。わたしたちは調整室から指示してダメだしする。ドラムスのレコーディングはOKが出るまでパターンを変えて叩き直すので重労働だが宮下は最後まで元気でへたばらかった。それから様々なパーカッションに挑む。何種類もの大きさの違うチャイナドラム、ゴングをブラ下げ踊りながら叩く。ライヴではその踊りが見せ場になるのだ。楽器店にあるほとんどの打楽器を揃えて曲に合わせてパフォーマンスしてゆくのだ。宮下の打楽器関係を全曲録り終えて、最後に島ちゃん(島健)のピアノを青春 とふるさと の2曲レコーディングした。かれは日本でもスタジオミュージシャンとして活躍していたので簡単なコード譜を渡して打ち合わせするだけで曲に合ったフレイズを紡ぎだした。当時の世間の最低賃金は1時間2ドル50でエンターティナーのペイの相場は一晩で50ドルなので50ドル支払った。とにもかくにもレコーディングはそれで完了した。あとはミックスダウンで完成である。
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カリフォルニア・サンシャインその41
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中島茂男が「青春」という言葉が好きだからアルバムに入れたいといって日本語で歌詞を書いてきた。それでわたしは英語で「puberty」 という題名にした。そしてコーラスの部分は「Age of puberty イズ・ザ・メモリーズ・ホーム」とした。
 ある日、息子が留学中のセントラル・オクラホマ大学(University of Central Oklahoma) の生徒達にアルバム「プロセス」を聴かせると収録曲の「puberty」 という題名に異を唱えていたということだった。このことばはなんだか恥ずかしいからもっとほかのことばはなかったのか、というのだ。思春期から青春期あたりを表すにはyouthや the springtime of life、young days、adolescence.などあたりさわりのないことばがあるのだが、「reach the age of puberty」という表現があって、「 思春期に達する, 年ごろになる」ということなのである。それは語源的には「pube」が性的成熟を意味してpubic hair(陰毛)の語源でもある。the age of pubertyを語源通りに具体的に訳せば「毛が生える頃」となる。それでオクラホマの大学の生徒達はこそばゆく感じたのだろう。しかしながら、あたりさわりのない通常の表現より反対はあってもなにかを奥に秘めた表現のほうがふさわしく感じたので採用したのだからしかたがない。かと言って母国語で「毛が生える頃は思い出の住処」とコーラスせよと言われると二の足を踏んでしまう。われながら勝手なものである。
fumio

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カリフォルニア・サンシャイン40
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わたしはアルバムのタイトルを「プロセス」としてプロデューサー、宮下富実夫に人類が絶滅する嵐を音楽にした曲を作ってほしいとオファーした。地球規模パンデミック、温暖化気候変動、経済破綻、原発稼働、エネルギー危機、核戦争などなど解決できない様々な問題の渦中で争い地球絶滅につき進む人類の姿をストームとして音楽にするのだ。宮下富実夫が自身の8トラックレコーダーで時間をかけてレコーディングしてきたシンセの多重録音の曲「嵐(STORM)」を24チャンネルトラックにコピーする際、エンジニア、ガナパーチと揉めた。宮下は嵐のすごさを表すために50ヘルツ以下の低音をインジケーターの針振り切れッ放しにして録音していた。ガナパーチはエンジニアとしてそれを非難した。それでも宮下はアーティストとしてゆずらず論争になったがそのままコピーさせた。エンジニアは電気、物理の法則に忠実に仕事するがアーティストは常にべつの可能性を求めて無理でも試そうとする。アルバム「PROCESS」ができあがって大音量で聴くと、その部分にさしかかると部屋の窓ガラスが震えてずいぶん効果があったのだがのちにCD化された時、自動的に50ヘルツ以下の帯域がカットされて再現されなくなって残念ながら宮下の苦労は水の泡になってしまうのである。
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カリフォルニアサンシャインその39

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その頃、中島茂男の住んでいた長屋式集合住宅に杉本圭(KEI SUGIMOTO)という青年が住んでいた。
かれは日本でミュージシャンをしていたが渡米してガーデナー(庭師)の手伝いなどをして暮らしていた。そして自分達のバンドを組んでベースギターをやっていた。中島はかれにレコーディングへの参加を打診し、やるならストリングス系の音がほしいと言った。わたしはかれのベースアンプとベーススピーカーを買い上げた。それで杉本はその頃、発売されて話題のアープ社のストリングスアンサンブル(STRINGS ENSEMBLE)を購入して参加したのであった。
 ローリング・ストーンズの元メンバー。ビル・ワイマンのローリング・ストーンズへの加入は、かれが立派なベースアンプを所有していたからだという伝説があるように必要な楽器の所有はメンバーとなるための大きな条件となるものである。
基本的な楽器の音録りを終えて24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)に入ってヴォーカルを録る時、エンジニアのガナパーチ(GANAPATI)に英語の発音のダメだしを頼んだ。
 アバはスェーデン式発音をキュートな訛りと感じさせることができたので大成功した。日本でも東北出身歌手たちが訛りを武器にしているように訛りも魅力になれば素晴らしいのである。芸術関係はなにかひっかかりがあるほうがいい。
とはいえ、なにを言ってるかわからないと困る。ガナパーチはありがたいことに厳しくてなかなかOKをださない。日頃英語で歌う仕事をして会話も問題なく通じてもネィティヴスピーカーの耳で聞いてもらうとやはりかなり「ダメだし」が多くて矯正にずいぶん時間がかかった。何度も何度も歌いヘトヘトになってやっと終わった。これで一応ネィティヴスピーカーにも歌の意味は通じるはずである。
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カリフォルニアサンシャインその38
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そしてだんだんアルバムのレコーディングが進んでドラムスの収録というところまできた。ところがドラムスは出る音が多くて8トラックではとても対応できない。それで、24チャンネルトラックレコーダーのスタジオを探そうということになった。有名スタジオはどこも高かった。ハリウッドにチャイニーズシアターというマリリン・モンローやスターのサイン、手形足形などで有名な映画館があってその向かいに老朽化したビルがあった。取り壊して新しくするという噂だった。その中の24チャンネルトラックスタジオのレコーディング料金が工事などの関係で安いということだった。チャイニーズシアターの向かいのその老朽ビルに入ると、ところどころ工事していた。全体を取り壊すわけではなく特にひどいところを修復してリフォームしているようだった。その中の24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)はガナパーチ(GANAPATI)というインディアン名をもったエンジニアがやっていた。レコーディング料金は格安で防音もきちんとしているし心配なら工事していない時間に録音すれば問題はなかった。それでそのPARANAVA STUDIOでドラムス、ヴォーカル、ピアノ、などなどのレコーディングを行うことにを決めたのだった。
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カリフォルニアサンシャインその37
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まず、アルバムの曲のリズムトラックとして宮下の自宅スタジオ「カールトンウエイスタジオ」のティアック8トラック・レコーダーにリズムギターとベースを録音した。
このティアック8トラック・レコーダーはファー・イーストファミリー・バンドを脱退した高橋正明(喜多郎)も購入してシンセサイザーの多重録音によってNHKの「シルク・ロード」 を盛り上げた名機種である。ビートルズの時代にやっと4トラックレコーダーができて多重録音が始まり、この頃の自宅スタジオは8トラックが主流になっていたのだ。
その後、勝新太郎が宮下の自宅スタジオに居候した時、映画「座頭市」の音楽としてこのティアック8トラック・レコーダーに三味線を弾いてレコーディングした。杵屋の跡取りとして修業していたので弾けたらしい。コードはE一発だった。わたしは宮下に請われてその三味線に合わせてベースをレコーディングしたが満足できる演奏ができなくて残念だった。三味線のバックはむづかしい。
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カリフォルニアサンシャインその36

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「そろそろ、ふたりで仕事を始めて二年になるから記念にアルバムを作りましょうか」
と中島茂男が提案した。それから毎日の仕事中、曲の構想を練り演奏しながらコード進行や互いのフレイズを練りあげていった。宇宙創生から現代までを語る歌詞は規則通りの教科書英語より生きた表現につとめた。
この時期に渡米していた山本コータローがわたしたちが曲を試行錯誤して練り上げている途中に店にやってきて酒を飲みながらジッと聞いていた。そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。まだ仕上がっていない曲の作成中の中途半端なところを聴いて結論を出したらしく、中島が落ちぶれてまともに音楽にとりくめていないように思って中島を名指しでがんばれ、と励ましていた。ちゃんと完成してから聴いて批判してほしかった、と思う。

やがて数曲、形ができてくると宮下富実夫にプロデュースを頼むことにしたのであった。
友達関係仲間内の「なあ、なあ、」に陥らないためにプロデュース料を1ドル360円の時代に1000ドルに設定してアドヴァンスに500ドル、完成後に500ドル支払った。それでプロデューサーとしての宮下富実夫は真剣に仕事としてわたしたちのアルバムのプロデュースに全力で取り組んだのである。
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