monologue
夜明けに向けて
 



米国生活中、息子を保育園に送って行って帰りの道で正面から来るマイケル・ジャクソンに似たかっこいい黒人の若者を不審に感じて避けようとしたがすれ違いざまに肩に下げていた30ドル入りのポシェットを引きちぎられたといってある朝、妻が泣きながら帰ってきた。
。わたしは朝、2時にクラブのエンターテイナーの仕事を終わって帰宅して眠っていたので起きて警察に連絡したりしたが、やってきた警官は、それで済んでよかったということだった。当時はヒルサイドストラングラーと呼ばれる凶悪連続殺人事件が起こったりして近所の多くの家の窓は格子を取り付け防犯工事していた。格子のない窓を破って入ってきて絞殺するのだった。
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わたしがハリウッドのクラブでエレキギターの相棒シゲさんと仕事が終わった時、店の外に出てギター、ベース、アンプ類を車のトランクに運び込んで一旦店に戻って店主と三人でしばらく談笑してから外に出ると車のトランクを数人の黒人がバールでこじ開けていた。幸い、まだ楽器を盗らずに逃げていった。それで翌日、修理工場へトランクの修理に行ってみてもらうとトランクの奥に穴があいて後部座席が外れていたので穴の補修と座席の嵌めこみを頼んだ。多かれ少なかれエンターテイナーはそういう目に遭っている。一時、店のドアを開けて飛び込んできたガンマンがエンターテイナーのピアノに向けて発砲する事件が流行ったことがあった。その頃はみんな戦々恐々としていた。西部劇の一場面のようだった。
fumio

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真夜中のパトロール
このところ、米国では警官の容疑者殺傷事件が人種問題などに絡めてニュースによく採り上げられているが日本より市民と現場の警官の関係が近いと感じる。毎夜同じ時間にパトロールに出て目をつけている犯罪容疑者たちの家を順に廻り窓にパトカーのヘッドライトを当てていつも見張っていることを知らせてそれ以上の犯罪を抑止する。そのルートにあるドーナツショップで一休みする。夜12時過ぎにドーナッツショップに行くとよく休憩中の警官に会った。
ある時、日系人の女性の家に歌がうまい白人女性がいるというので招ばれてギターをもってゆくと数人のパトロール警官がやってきた。毎夜その時間に警邏巡回するコースになっていていつも寄ってゆくらしい。しばらく防犯について話したあと、わたしのギターを見て演奏してほしいという。白人女性が、バーバラ・ストレイサンドが流行っている頃だったので「追憶」を歌いたいというのでギターで伴奏した。その歌はすごくうまかった。みんながわたしにも歌えというのでスリードッグナイトの「シャンバラ」を弾き語りした。真夜中のパトロールには息抜きも必要なのだろう。パトロール中、麻薬の取引現場に遭遇したりすると相手が強力な銃を持っているので警官の方が危ない。テイザーガンで銃を持っている容疑者に近づいてゆくのは勇気がいる。はたしてバイデン大統領が今回、銃規制法を通せば米国は安全になるのだろうか。残念ながら人々のマインドが西部劇時代のままではむづかしい。

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それでもそれを愛と呼べるのだろうか…。
 古い表現だがまるで万力で締め付けられるような気がした。
 背中から突然羽交い締めにあったのだ。頭の中ではジャック・ポットのようにつぎつぎにそんな冗談をしそうな友の顔が回転した。そのジャック。・ポットはついに止まって特定の像を結ぶことがなかった。わたしはふりほどこうともがいたがどうにもならない。相手の顔を覗こうとしたが見えない。時刻はそろそろ午前三時過ぎである。クラブのエンターテイナーの仕事が午前二時に終わって楽器類を片づけて店を出たのが二時半頃。ハーバー・フリーウェイからサンタモニカ・フリーウェイに乗り換える頃、おかしいなと感じた。後ろについていた車が離れない。不気味なものを感じた。スピードをあげていつものランプ(降り口)に達した。フリーウェイを降りるとさっきの車は随いてこなかった。安心して家の前に停車した。後ろの座席に置いたギターを取りだそうとした、そのときだった。だれかが突然わたしを後ろから羽交い締めしたのである。フリーウエイを降りてからも随けられていたのだ。こうなれば必死で戦うしかない。友だちの可能性を捨ててむちゃくちゃに暴れた。やっと相手の腕がゆるんだ。そのすきに回転して向き直る。対峙すると相手は見知らぬ白人であることがわかった。その頃、世間では連続強姦魔事件が取りざたされていて後ろからわたしの長髪を見て女性と勘違いして襲ってきたのかと思った。白人はおまえはキムじゃないのか、とわけのわからないことを口走りながら逃げて行った。キムという韓国人の友とまちがえて冗談をしてみたらしかった。翌日、隣のアパートの黒人女性に、二階から見ていたけれどよく助かったわね、うちの子供にもカンフーを教えてくれ、と頼まれた。わたしはカンフーは知らない、と断ったものだった。残念ながらその頃の天使の町、ロサンジェルスでは毎日、強姦や殺人事件が当たり前のように起こっていたのだ。
fumio

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天使の町、ロサンジェルスはエンジェルズ!


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グッドモーニングアメリカなど全米ネットワークテレビショーでトムクルーズのパリオリンピックから次のロサンジェルスオリンピックへの旗の手渡し式の模様を報じ、ハート・ウオーミング、すごいと賞賛している。
ネットでもハリウッドサインを五輪のマークにしたり楽しい動画が配信されている。わたしはロサンジェルス時代、あのハリウッドサインのHの看板のところにあったユダヤ人医師の家にホームステイしていたのだった。
fumio


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kid  


ベスト・キッドシリーズ主演のダニエル ・ラルフ・マッチオは気のいい若者で「本当は沖縄空手じゃなく出村先生の流派だったんだ。それで撮影には出村先生が教えに来ていたよ。」と明かしてくれた。その後、全米空手選手権大会が開催された時、沖縄小林流空手チームは黒人インストラクター、ロンが率いていたのだが、出村先生のチームや他のチームが優勢だった。わたしたち夫婦は息子が通う沖縄空手道場のチームを応援したのだが優勝はできなかったのだった。
fumio

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karate  




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1984年に製作された「カラテキッド(The Karate Kid)」邦題「 ベスト・キッド」という映画がテレビで放映されるという。
映画は大ヒットしてピコ通りにあった沖縄小林流空手道場は入門する少年たちで大盛況になった。太田英八道場主はカラオケ好きでオキナワ県人祭りでその咽喉を披露していた。その沖縄県人祭りで会った先生役のノリユキ・パット・モリタは「アイ・ネヴァー・ラーンド・カラテ(わたしは空手を習ったたことがないんだ」)とわたしに笑いかけたのだった。
fumio


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66  


一時、巨大竜巻がカリフォルニアで発生したことをよく報じていたことがある。ABCニュースではキャスター、ダイアン・ソウヤーが竜巻の被害に遭ったミズーリ州ジョプリンから中継してジョプリンの町を説明するのに「ルート66」の歌を覚えていますかと視聴者に尋ねた。
「ルート66」とはシカゴからカリフォルニアまで2000マイル以上も走って達するという歌でまずナット・キング・コールでヒットして
同名のテレビシリーズができた時、主題歌としてジョージ・マハリスがロック風に歌っていた。その歌詞は「ジョプリン・ミズーリ、オクラホマシテイ 」とジョプリンや、オクラホマシテイが途中で出てくるのである。オクラホマシテイにはライブハウスに息子が大学時代「エンプティカップ」というバンドで週末に出演していた。
わたしは息子のオクラホマの大学バンドメンバーマイケルやブランドンたちとMSNメッセンジャーで交流したとき、かれらは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとわたしに尋ねてきたりしてそれからセッションしたいというのでかれらの演奏を数曲聴かせてもらったあと、わたしにもなにか歌えという。
それで歌詞にかれらの町、オクラホマシティが出てくる「ルート66」を選んで伴奏を頼んだものだった。
まだADSLの時代でインターネットで米国で伴奏し日本で歌うのは太平洋をまたぐタイムラグがあってギターの音が微妙に遅れてリズムがとりにくかった。「ルート66」の最終地点サンタモニカの海岸からそのまま海に入り海底の太平洋プレート上を走れば日本に達するのだ。その日のわたしたちのパフォーマンスは本当の「ルート66」だったのである。
あの時のインターネットのチャットに集まりわたしと楽しい時間を共有した先進的なオクラホマの大学生たちは日本人は英語で普通に会話できてアメリカのテレビシリーズの主題歌程度なら原語で歌えるのだと思っただろうか。
fumio

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宮下フミオの自宅スタジオに集まるアーティストのひとり、「走れコウタロー」でヒットした山本コウタロー(本名・山本厚太郎)は1年間アメリカで暮らしていた。かれはパチンコが好きだったらしくリトルトーキョーでパチンコ台と玉を買ってきて遊んでいた。
その頃のロサンジェルスには梁山泊のような芸術家集団が共同で大きな家に暮らしていた。ある日、かれらがサンフランシスコに自生するマジックマッシュルームを採ってきてカレーを作ったことがあった。わたしがその家に行って将棋をしていると昼食を食べろというのでキノコが入っていることを知らず勧められるままに食べているところにコータローが来てかれも勧められて一緒にそのカレーを食べたのである。わたしは将棋をしているうちにそのキノコの成分が効いてなにがなんだかわからなくなっていつも勝つ相手に負けかけた。コータローはサンタモニカ海岸までドライブしてきて帰ってくると太陽がすごい勢いで海に落ちたように見えたという。やはり感覚がおかしくなったらしい。そして、一休みした時わたしが将棋を指そうか、というと嫌がったのだった。
それからある時かれはシゲ(中島茂男)とわたしがコンビで出演してるハリウッドのクラブを訪れてじっと聴いていた。わたしたちはその頃、今は日本でもCD化されているプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を作るために曲をクラブで実際に色々演奏しながら仕上げていたのだった。未完成で曲はまだ中途半端だったのであまりよく思えなかったことだろう。
そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。その「アメリカあげます」の中でコータローはわたしの相棒ギタリスト、中島茂男を名指しでがんばれ、と応援している。
そのコータロー自身アメリカでレコードを作ろうとしたがカラオケはできたけれど最後のヴォーカル録音で満足できる歌が録音できなかったので発売までゆけなかったという。2022年7月4日、山本コウタロー、73歳で脳内出血で死去。合掌。
fumio

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憧れ  


その頃、米国でハリウッド制作戦国ドラマ「Shogun」が大ヒットしていた。
そのヒロイン島田陽子も宮下フミオの自宅にやって来た.
映画「人間の証明」で主役の黒人ハーフの青年を演じたジョー山中は家が見つかるまで居候していた。わたしが相棒のシゲさんをエンターテイナーの仕事で迎えに行くと
「行ってらっしゃい」とわたしたちを送り出してくれた。すごく礼儀正しい好青年だった。クラブの仕事が終わってわたしが車でシゲさんを宮下家に送ってゆくと「おかえりなさい」とリビングルームで待っていたのである。
京都駅前のデパート「丸物」屋上の海外ニュースでよく動静を採り上げられていた、ミッキー・カーチスと「サムライ」もその頃ツアーで、ロサンジェルスに廻って来たのである。それでわたしがしばらくのちにプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を製作する時、宮下にプロデュースを頼みミッキーカーチスのバンドのツアーで来ていた島健にピアノを頼んだのだった。思えば、丸物デパートでの憧れがそんな風に実を結んだようだ。
fumio

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スリーフィンガーピッキングといえば加藤和彦を思い出す。
NHK教育テレビの「スリーフィンガーピッキング奏法講座」で弾き方を教えていた。おかげでわたしもスリーフィンガーピッキングができるようになったのだ。
日本中のフォーク系のギタリストの先生のような存在だった.音楽的感性が秀でていて「帰って来たヨッパライ」「あの素晴しい愛をもう一度」「タイムマシンにおねがい」など新たな感覚で時代を開く存在として生きた。ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」ではイギリスに行き活躍した。すごいと感心した。
 当時、加藤和彦の母校、龍谷大学の講堂でライブコンサートがよく開かれて、わたしがスリーフィンガーピッキングで歌った 「打ち上げ花火」を女性デュオで歌いたいというのでOKした。その頃はまだ二番までしかなかったがかの女たちの参加したコンサートを見に行くとでスリーフィンガー奏法で立派に演奏していた。男のわたしが歌うより詩情に溢れているような気がした。京都という土地柄、わたしの知らないうちにご当地フォークとしてかの女たちのまわりでヒットしていたようだった。加藤和彦が拡めたスリーフィンガーピッキングは日本国内にとどまらず多くのアーティストに受け継がれた。
わたしはアメリカのハイスクールでアルゼンチン娘、オルガのエキゾチック日本語発音の「打ち上げ花火」のバックをスリーフィンガーピッキング演奏してクラスメイトや学校中に大好評になって日本でデビューさせるといいと盛り上がったものだった。日本でヒットしたかも…。しかし、オルガはすぐに中国系アメリカ人と結婚してアメリカ永住権をとったので日本には来なかっただろうとふと思う。
fumio

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渡米  


その頃、京都駅前の丸物デパートの屋上の海外ニュースコーナーでミッキーカーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしているというニュースを読んで憧れたわたしは英語の歌を歌って生活するには本場アメリカでなければと思って渡米を決意して、ロサンジェルスのアソシエイテッドテクニカルカレッジに留学した。そしてすぐに転校したLAハイスクールのわたしたちのクラスにアルゼンチンから来たオルガ(OLGA GOMEZ)というかわいい白人系女生徒が入ってきた。アルゼンチンで撮ったフイルムを学校で映してみんなにアルゼンチンの紹介をしたりしてものおじしない外交的な性格だった。わたしがギターを弾くと知ると「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」や「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」「ウイ・アー・オール・アローン」などのバックを弾いてくれと頼んで歌った。声も良くてうまかった。歌手になりたいようだった。わたしの作った歌も歌いたがったので京都で女性フォークデュオが歌って人気があった「打ち上げ花火」の1番と2番をローマ字で書いて教えるとすぐにエキゾチックな香りのする発音の日本語で歌えるようになった。わたしはスリーフィンガーピッキングでバックを弾きながらコーラスしたのだった。
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十字屋楽器店が主催する音楽サークルの天下一を争う演奏コンテストの結果は次週の十字屋の広報誌に掲載された。
ナンバーワンは石塚成孝(いしづかしげたか),越智友嗣(おちゆうじ)、井上博(いのうえひろし)のフォークグループ「ザ・ヴァニティー」だった。そして2位はキーボードが口髭(マスタッシュ)を蓄えているのでタッシュグループと名付けた関西ナンバーワンのソウルロックバンドと謳われたバンド「タッシュグループ」
 「・高畑晃   バンド・リーダー。エレキ・ギター。
  ・荒木卓郎  パーカッション。ギター。
  ・河合循   オルガン。
  ・古城たかし ヴォーカル。
  ・小川修   ドラムス。
  ・葵和行   ベース。」であった。
かれらのパフォーマンスはオーティス・レディングの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」をスリードッグナイト風
に白熱演奏してすごかった。まだそのころ高価で普及していなかったテープエコーをマイクにつなぎヴォーカルのスリムな古城たかしが足踏みして踊りながら歌うのだがリーダーのギター高畑晃の合図でいっせいに決め(キメ)で盛り上げる。何度か繰り返し終わったかと思うとバックが再び決め(キメ)を演奏し、古城がはじけるように踊り息も絶え絶えに歌い上げる。オーティスやジェームス・ブラウンのステージをよく研究していたようだ。その圧倒的なステージにはだれもがスゴイものを見たと魅了された。わたしは古城たかしのリズム感とヴォーカルフィーリングに一目おいていた。古城は普段地味な青年で話をしていても控えめな態度だった。舞台に出て歌いだすと変貌するのである。かれらはのちに古城たかしとブルー・タッシュと名乗り京都レコードから「東京の夜に泣いている」をリリースしてレコードデビューした。
わたしはその演奏会に飛び入りのように参加して弟のギターの伴奏でアンチェインドメロデイを歌ったのである。作曲家山室紘一氏がサークルの顧問をしていて「ギター一本ではなくオーケストラのバックで聴きたい」とのコメントをくれたのを記憶している。しかしながら、その後わたしはアメリカでソウルやロックを歌って生活することを選択して渡米してクラブのエンターテイナーやレコード製作などミュージシャン活動したのだった。
fumio

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「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)」 という映画が1977年11月に公開された。翌年、その題名にちなんだような「エンカウンター(Encounter)」という日系の大型クラブがロサンジェルスのダウンタウンに開店するのでエンターティナーのオーディションがあるという噂が流れた。行くと多くのミュージシャンが集まっていた。
ロサンジジェルスのエンターティナーといっても色々でピアニスト、ギター奏者、ハープ奏者、ジャズバンド、マリアッチ、ロックバンドなどなど店や地区、人種によって様々である。当時エンターテイナーとして活躍していたロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストが集まって覇を競った。ピアニストが多くギターではレコード大賞を獲得した「シクラメンのかほり」を弾き語りする人が多かった。順番にパフォーマンスをしてゆき、わたしも順番が来ると「シクラメンのかほり」をギターで弾き語りした。支配人は一週間分のエンターティナーを選考してそれぞれに曜日をあてがった。選ばれたのはやはりほとんどがピアニストだった。日本でレコードを出している歌手もいた。結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれという。エンターティナーが二人でやるというのは聞いたことがない変な話しだったけれどバンドの入っている雰囲気がして店が華やぎ演奏が豪華になる。開店してしばらく店は大盛況だった。客が帰ったあと多くのホステスたちがチップの取り分争いでつかみ合いするのを目のあたりにして驚いたりしたものだった。
「エンカウンター」の支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してその開催したエンターテイナーオーデションはさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈して日頃顔を合わせることのない他のエンターテイナーと知り合ったりしてコンテスト独特のある種の高揚感に包まれて楽しかった。その様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したりしてアナウンサーが番組の中でわたしになにか歌えと所望するのでわたしはその日の担当のピアニストにバック伴奏を頼んで「また逢う日まで」をライブで歌ったものだった。ところが、開店当時大繁盛していたクラブ「エンカウンター」が経営不振で突然つぶれてしまったのである。それでわたしはシゲさんとふたりで働ける店を探してハリウッドのクラブ「蝶」やLAPD(ロス市警)の隣の店「燈り」やダウンタウンのリトルトーキョーの白龍飯店(インペリアルドラゴン)に一緒に出ることにした。それである日、中島の長屋でビートルズの「No where man」など数曲練習していると、ヨーロッパツアーを終えてアメリカツアーにやって来たファーイーストファミリーバンドの宮下フミオが生まれたばかりの子供(ジョデイー天空)を抱いてやってきた。それが宮の下と山の下のフミオと中を取持つ中の島で構成されるバンドSFの始まりだった。
fumio

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