monologue
夜明けに向けて
 

LA  


米国で製作した初の シングル盤レコード カリフォルニアサンシャイン に続いて次の シングル盤候補として製作レコーデイング した 歌 エルエーレインボー(L. A . R a i n b o w ) の画像を入れ替えてアップロードしました。L.A.とはロサンジェルスの略です。
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☆エルエーレインボー
               詞、曲 山下富美雄

   1 . 久しぶりの雨が降り、車はみんなスローダウン、ワイパー越しの街角に流れるきみのシルエット、夕べのいさかい尾を引いて素直に口をききにくい、ふっと見上げた目の中にかかったエルエーレインボー、 どちらともなくビューテイフル、心と心に架ける橋、エルエーレインボーエルエーレインボーW o o W o o、、シャ ダバダダ シャ ダバダダ

2, ダウンタウンをあとにして車は滑るフリーウエイ、カーステレオの音を上げ溢れるFMミュージック、きみの横顔和らいであの虹追ってゆきたいわ、辿りついた海岸で見上げるエルエーレインボー、やり直そうかと口にして心と心を重ねあう、 エルエーレインボーエルエーレインボー W o o W o o、シャ ダバダダ シャ ダバダダ
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fumio


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以前、歌詞付きでユーチューブにアップロードしていたシングルレコードカリフォルニアサンシャインのB面Say to me,my babyの画像を入れ替えて作り直した動画をSay to me,my babyとしてアップロードすると動画がずっと処理中となって残念ながら見られない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインのB面Say to me,my babyをユーチューブにアップしました。
fumio

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昨日、藤井聡太NHK杯21と佐々木勇気八段29とのNHK将棋選手権戦決勝対決が行われ、
先手の佐々木勇気八段が角換わりの最新形の研究手順をぶつけて逆転逆転の末最後に勝利を手にした。
優勝後佐々木八段の目に涙が浮かぶのが感動的だった。
最近はどのタイトル戦でも藤井八冠が勝つのを見るが当たり前なのでわれわれ将棋ファンにとっては意外な対局結果だった。
佐々木八段はイケメンなので将棋にもこれから女性ファンが増えそうだ。
fumio

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その頃、毎日新聞に、障がい者の作る詞にメロディをつけて競うコンテスト「第15回記念わたぼうし音楽祭」の作品募集が載った。大賞作品は2年後、1991年8月、シンガポール国立劇場、カランシアターで開催される「第一回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表となるということだった。
それでわたしは当時、反核劇の舞台稽古で頸椎損傷を負って障がい者というコンテスト応募資格を満たしていたのでMiyukiの歌をフィーチャーしてスタートしていた「水面に書いた物語」プロジェクトから数曲選んでカセットテープに入れて応募してみた。すると、「わかりあえる日まで」が予選に通って奈良で催された「第15回記念わたぼうし音楽祭」に出場することができた。そのコンテストで幸い、「わかりあえる日まで」が大賞に選ばれた。それで「第一回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」に日本代表として出場したのだったのである。
予言の民、ホピ族は、世界的音楽イベントに出場するTRUE WHITE BROHERたち三人(Romio Miyuki Fumio)はそれぞれに十、卍、☆のシンボルマークが見えるという。わたしは原宿竹下通りの声優とモデルのプロダクション「ホワイト・エレガンス」で活動していたのでWHITE BROHERらしい。
イントロのナレーション担当の少年Romioはバプティスト教会で洗礼を受けたので十字、リードシンガー,Myukiとわたしは卍や☆がシンボルマークになる。
日本語だけでは狭いので多くの国で通じる世界語としての英語ヴァージョンでも「わかりあえる日まで」By the day we see eye to eyeを歌った。
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<By the day we see eye to eye.>words and music fumio yamashita

“There is a tiny planet in the spacious universe from the long time before.
We all live on it that shines blue to the core.
Wish we’d be going together forevermore.”

Eyes are different,skins are different,faces arer diffrent.
Words are different,dreams are different,nations are diffrent.

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la

 Come to me here by my side, when you need someone to love.
And you feel all alone in the end of this world.

 Talk to me how you cried,talk to me how you tried.
Hold my hand see my eyes.
I’m gonna comfort you,my friend.with this song.

 Sing across the ages, jump across the places,
Sing across the races,by the day we  see eye to eye.

 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.

 Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histries,by the day we  touch heart to heart.

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la


 Sing across the fires, jump across the wires ,
Sing across the desires,by the day we  walk hand in hand.


 Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.

 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.
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fumio

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mid  


それから転院した武蔵村山病院リハビリ病棟にある日、劇団のスター、Miyukiが見舞いにやってきた。わたしがアメリカでロックミュージシャンとして活動してレコードやカセットテープを製作していた、と話すとMiyukiは「わたしにもオリジナルソングを作ってください」と言い出した。それでまず初めに「ミッドナイトブルー」を作った。しかし、Miyukiはその曲を歌うのを嫌がった。彼女の視線は日本国内に向いていたらしい。わたしの視野はユニヴァーサルでグローバル言語としての英語でサビのコーラスパートを作りセリフをラテン語にしたので歌う気にならなかったのだろう。現在わたしの歌った「ミッドナイトブルー」は多くのアクセスを集めている。もしMiyukiが歌っていればわたしのバージョンより多くの人に支持されていたのに…、と思う。
fumio


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妻にとってもそれは辛い試練の始まりだった。報せを受けて倒れようとする妻を小学4年生の息子が支えて「お母さん、しっかりして」と励ました。それで妻はハッとわれにかえった。それから妻はアメリカ時代と見違えるほど強くなった。
わたしは搬送された第三北品川病院で頸椎の緊急手術を受けてある程度回復すると武蔵村山病院のリハビリ病棟へ送られた。
fumio

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執刀  


 救急車で運ばれた北品川第三病院のICUで長時間に及ぶ手術が始まった。平井という若い医師がむづかしいけれどこれまでやったことのない方法を試すということだった。リスクが大きい方法をとったことをのちに他の医師が非難したが結果的にはその新手法を使用したことが良かったのである。
もし治っても一生寝たきりか良くても車椅子の生活ということだった。しかし、そのことを自分の将来像として現実感を伴って考えることはできなかった。手術後、麻酔が醒めて、まだ手足が動かないことを再確認した。のちに医師に聞いたところでは手術中に息を引き取らなかったのは腹式呼吸で鍛えていたからだそうだ。なるほどそんなものかと思った。なにが幸い 救急車で運ばれた北品川第三病院のICUで長時間に及ぶ手術が始まった。平井という若い医師が執刀してむづかしいけれどこれまでやったことのない方法を試すということだった。リスクが大きい方法をとったことをのちに他の医師が非難したが結果的にはその新手法を使用したことが良かったのである。
もし治っても一生寝たきりか良くても車椅子の生活ということだった。しかし、そのことを自分の将来像として現実感を伴って考えることはできなかった。手術後、麻酔が醒めて、まだ手足が動かないことを再確認した。のちに医師に聞いたところでは手術中に息を引き取らなかったのは腹式呼吸で鍛えていたからだそうだ。なるほどそんなものかと思った。なにが幸いするかわからない。
fumio


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試練  


その劇は原発問題を扱った作品で演出家は、原発ジプシーと呼ばれる者たちに核シェルターを設計した博士が投げ捨てられる、というフィナーレの場面を構想して稽古によって煮詰めていた。
その瞬間、目の前にあるはずの床が見えなくなった。おそらくまわりにいたすべての人々も一時的に視覚を失っていたことだろう。
博士役のわたしを原発ジプシー役の若者たちは何度も胴上げから放り投げた。そのたびにわたしは回転受け身をして立ち上がった。演出家はもっと幕切れにふさわしい、観客の網膜に残像が焼き付く方法を思いついて試したのである。わたしが空中に舞っている頂点で、稽古場の電灯を消すように指示したのだ。猫なら突然、光を消してもうまく着地するかも知れないが私の場合は闇になった途端、さっきまでのまわりの景色が消え空中での位置感覚が失せた。残念ながら猫が空中で体を立て直すようにはゆかなかった。 額が床にぶつかったのだ。勢いよく落下した全体重を受けて平気なほど首の骨は強靭ではないらしい。灯かりをつけた人々が目にしたものは倒れたまま動かないわたしの姿だった。抱き起こされたとき気絶していなかったらしく。受け答えはできたが首から下が動かなかった.。
そのとき、わたしはだれもがこの世で様々な形で受ける試練のひとつを体験していたのかもしれない。
fumio

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修業  



予言の民ホピ族によればわたしはTrue white brotherとして日の昇る国で修行して地球救済に任ることになっていた。わたしは以前は宗教の形で地球救済に携わったが、あまりうまくゆかなかった。それで、今回は渡米してアーティストとしてハリウッドでロックミュージシャン生活をしてレコード制作や映画関係に関わったりしていた。
日の昇る国での修行はなまやさしいものではなく厳しく過酷だった。
まず原宿竹下通りのホワイトエレガンスプロでオーデションに受かって声優として所属していると派生的にできた劇団での核反対の舞台稽古で
1988年9月14日午後9時過ぎ、反原子力関係の劇の舞台稽古中、窓からJRを臨む渋谷の稽古場で、原発ジプシーと呼ばれる役の若者たちが原子力博士役のわたしを何度も胴上げから放り投げた。
わたしは柔道の前方回転の要領で立ち上がり続けたのだが、それではなにか物足りなさを感じていたらしい舞台監督の演出家が、フィナーレの構想を練って、
わたしの身体が一番高く上がった時に電灯を消せば観客の目にその場面が焼き付いてフィナーレとしてふさわしいのではないかと思って試させたのである。
演出家が「電気を消せ」と指示した途端わたしの視界は真っ暗になって、わたしは自分の身体の位置がわからなくなって額から落ちて頸椎を損傷したのだった。

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カリフォルニアサンシャインagainその54
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《至高の国アトランティスの生残者(いわゆるマスター達)、子孫達に伝える。宇宙磁気線としての第三ショック・ウエーブの台頭があり(時期は1988年)その後にジャイアント・ロック(北米インディアン・ホピ族の言い伝え通り)は四分化されるだろう。 ☆の形としての本来の力が作動を始めるので霊的な指導者達、つまり黄金のどくろを持つ者達は眉間より発する至高の波動(紫波)を送りなさい》
チチカカ、ハオアイ-メヒコ、イナワシロ、トウキョウ
ツルガミネ、アソ、ロスアンジェルス、サンホセ
アリゾナ-マグア、キスコウ、シャンガイ、ルツ

 時を告げる鳥は放たれた、そしてその使命を全うする。

 4分化された「巨岩」は、その4分化されたことの意味を知り、
 砂州に広がる忘却の都市に、その意味を刻印するだろう。

---ARION,O∴O---
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予言の民ホピインデイアンは石板(テイポニ)に第一次世界大戦と第二次世界大戦を小さく書き、そこから少し離れた左下に第三次世界大戦を大きく丸く描いて、それでアメリカ合衆国が絶滅するという。
「時を告げる鳥」そして「ジャイアントロック」であるわたしはその予言を実現をさせないために地球救済委員会、アリオンの別動隊として1986年に「ひのもと」の国へ向い芸能関係の仕事を始めた。そして2年後ホピ族の予言通り宇宙磁気線としての第三ショック・ウエーブの台頭があり1988年9月14日9時に原発反対の舞台の稽古中に頸椎損傷事故に遭ったのである。その時はわからなかったがそれが使命を果たすための大きいプロットになっていたのだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその53
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その頃、わたしはアメリカでの夢をほとんど果たしていた。洋楽が好きでどうせステージでスタンダードやグループサウンズ、ソウルミュージックなどを英語で歌うのだったら本場アメリカで英語の歌を歌って暮らしたいという夢を抱いて渡米したのだ。
クラブでのエンターテイナーの仕事やバンドでの大学その他の宗教施設でのライブなど。ゴングショーという人気テレビにもオーデションに通って出演したし、そしてレコード制作など、ミュージシャンとしてやることはやったが
しかしながらなにかが足りない。そのままアメリカで生涯を過ごしてはいけなかった。わたしは日の本へ戻ることになっていたのだ。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその52
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 わたしたちの住んでいた家の日本人大家さん、エディ・辻本氏がその前年に老齢で亡くなりわたしはその柩を霊柩車に運び込み、仏式の葬式に出席した。それでこの十年間にアメリカで経験すべきことほとんどを済ませたようだった。そしてわたしたちは発展のために一旦日本に帰って再出発をすることを決めてあれこれ帰国の用意を始めていた。

 そんなある日、息子が「カラテキッド2」のオーデションの時に所属した事務所から電話がかかってきた。今度、エディー・マーフィー主演でゴールデン・チャイルド 役の子のスタント(代役)を息子にやってほしいというのだ。子役は学業などの関係でひとつの役を交代に演じるらしかった。

 チベットの少年僧の役なので頭を剃ってほしいという。たしかに坊主頭にしてしまえばみんな似たように見えるかも知れないと思った。でももうすぐ日本に帰国するつもりだし息子につきあっていると帰国が遅れるし、とちらっと考えた。それで息子に訊いてみた「頭を剃って映画に出る?」と。しかし息子は頭を剃るということがどういうことかピンとこないようなので「マルコメ味噌の宣伝の子供みたいな頭にして映画に出るかい?」と言い直した。するといやがった。こんな子供でもやっぱり坊主頭はいやなのかとちょっと感心しながら「息子はノー、といっています」とわたしはエージェントに伝えた。

 するとエージェントはあわてて、出演料は3000ドルですよ、と言い出した。その頃の3000ドルはかなり価値があった。しかしわたしは息子の意志を尊重してあらためて断った。何度も翻意を促そうとエージェントは3000ドルを繰り返していたが、わたしはこれでもう映画の撮影の関係で帰国予定が狂うことはない。あの撮影所に長時間縛られずにすむ、となんだかほっとしていた。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその51
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そのころのアメリカは子供の誘拐が流行っていて物騒だった。ミルクのパッケージに「ミッシング・チルドレン」として行方不明の子供たちの写真が印刷されていつも市民の情報を求めていた。それで親たちは自衛のためにキンダーガートゥンや小学校に子供を送り迎えしていた。わたしたちも息子の幼稚園小学校時代、送り迎えしていた。空手道場は小学校二年の子供が歩いて通うにはガラが悪い地区なのでその道場にも車で送っていった。映画「カラテキッド」の影響で道場は盛況だった。地区のせいかラテン系の生徒が多かった。そしてつぎにコリアン系が多く、黒人の生徒はひとりだった。わたしはいつも窓から稽古風景を見学していた。するとだんだんかれらの勢力図が見えてきた。先生のいうことをなかなかきかないラテン系のリーダーがいてみんなをしきっていた。どこにでも悪ガキはいる。

 ある日、そのラテン系の生徒に練習をまかせて先生が休んだことがあった。わたしがいつものように息子を連れて行くとかれはみんなで遊び始めた。空手ではなくレスリングのようにつかみ合いして投げ合うのだ。わたしを子供の送迎をする甘いただの「親ばか」とみなしてべつに目の前で遊ぼうが平気だったらしい。

  先生のいないのをいいことにわたしはその日初めてその道場に上がり、道着を貸してもらった。十数年ぶりに帯を締めてみんなにかかってこさせた。本気でつぎからつぎにつかみかかってくる生徒たちを全部柔道でひょいひょいと投げると、かれらはどうして歯が立たないのか不思議がっていた。わたしは中学高校と6年間柔道をやっただけだが日本でなんらかの武道の修業をした人にとってそんなことは不思議ではない。海外にいる日本人をみかけで判断するとえらい目にあう。かれらはサムライの魂をもって海外で活躍しているのだから。
fumio


 

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カリフォルニアサンシャインagainその50
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 宮下富実夫は81年に自分のユニット「富実夫FUMIO」をふたりの気のいい黒人、向かって左LANCE FOOKS(guitar) と右CALVIN HARDY(bass)とで結成して「DIGITAL CITY」というポップなアルバムを作った。「DIGITAL CITY」 の見本盤を見ると宮下は「to fumio yamashita family FUMIO富実夫1981 10 31 」と細いペンで手書きしている。そしてしばらくしてかれはアメリカを去った。それから日本での本格的活動が始まる。宮下の歩むべき道はアメリカではなく日本に用意されていたのである。
fumio



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