monologue
夜明けに向けて
 



今朝、午前1時25分からNHKBShiで「ひめくり万葉集」という番組をやっていた。額田王が西暦668年五月五日、蒲生野の薬狩りの宴でライブで歌いパフォーマンスした♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪の歌を上代文学研究者、森陽香という方が採り上げて解説していた。これは偶然ではないのだろう。どうも額田さんはわたしにこの番組を見てほしかったようである。

 万葉の時代の歌のスーパースターで皇子たちとの恋のゴシップの女王でもあった額田王はその晩年をどのように過ごしたのか。かの女の終焉の地とされる栗原(おうばら)の里(奈良県桜井市大字粟原)に栗原寺と称する寺がある。それは中臣大嶋(なかとみのおおしま)が草壁皇子を偲び創立を誓願した寺であった。大嶋没後、引き継いだ比賣朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が持統8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成している。なんと22年もの月日を要して伽藍を建て、草壁皇子と共に大嶋の冥福をあわせて祈ったという。
 
 比賣朝臣額田、つまり額田王は栗原寺を建立して斉明、天智、天武という時代のヒーローヒロインを弔い、かれらとのかけがえのない思い出に最晩年を生きたのである。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




東アジア初の女性君主であった第33代推古天皇(すいこてんのう)の諱(いみな)、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)にちなんだペンネーム、額田王(ぬかのおおきみ)あるいは額田部姫王(ぬかたべのひめみこ)として知られ活躍した女性は壬申の乱の後、世間から離れて栗原(おうばら)の里(奈良県桜井市大字粟原)で ひっそり暮していた。

   そこに持統天皇が吉野川沿いの奈良県吉野町宮滝にあった吉野の宮に行幸した時随行した天武帝の息子、弓削皇子から歌が届く。
 
 吉野の宮に幸しし時、弓削皇子、額田王に贈る歌一首

 古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴濟遊久
 「古(いにしへ)に 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の
  御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く」
  
 額田王、和へ奉る歌一首

 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
「古(いにしへ)に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす)
 けだしや鳴きし わが念(も)へる如(ごと)」

 歌の先達として自分を思ってくれる弓削皇子の歌に対して、額田王は一度帝位を退いたのち復位を望んだ蜀の望帝が志を果たさないまま死してほととぎすと化し往時を偲んで昼夜分かたず鳴いたという故事をふまえて自らをほととぎすになぞらえて懐旧の念を歌っている。これが当時のヒット曲全集であった万葉集に収められたかの女の最期のヒットソングとなったのである。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 ♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪
♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪

*****************************

  額田王は668年の蒲生野の宴でのライブで大海人皇子が「紫のにほへる妹」と詠んだ時、この「妹」が自分のことと思っていたが実は「政権」を指すことを壬申の乱によって知ることになった。大海人皇子は「政権」に恋して娘である十市皇女の夫、大友皇子を滅ぼしてしまった。その頃、十市皇女と大友皇子の間には葛野王(かどののおおきみ)が産まれていた。

 それで壬申の乱の後、額田王と十市皇女と葛野王は助け出されて大海人皇子のもとに戻ってきたのだが大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、天智天皇の娘、鸕野讚良(うののさらら、またはうののささら)皇女が皇后に立てられ天武天皇の在位中、皇后はずっと天皇を助けた。かの女はのちに持統天皇として即位することになる。

 その頃、皇太子兄弟に愛され時代を画したシンガーソングライター額田王の役割はもうすでに終わっていた。そして歴史の舞台から静かに消えていったのである。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 ♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪
♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪

*****************************


  天智七年(668)五月五日、天智天皇が自らの権勢を誇るために催した額田王の出身地、蒲生野(近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる野)行幸中、設けた蒲生野特設ライブ会場で華やかに幕を開けた移籍お披露目の宴(うたげ)において額田王は♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪と歌い艶(あでや)かに舞い踊って人々を魅了した。かの女は子を生んでもなお才色が輝いていたのだ。それに返して♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪と感情を抑えつつも狂おしく歌い舞う大海人皇子の姿は観衆の心を撲(う)った。時の権力者とその弟君との美貌の人気シンガーソングライターを巡るスキャンダラスな三角関係をあからさまに詠んだこの二首の歌は近江京に集う都雀たちのもっぱらの話題となり大ヒットしたのである。このとき、大海人皇子が心にひめていたものが恋だけではないことは取り巻きやファンたちには通じていた。

 天智天皇はそれまでの同母兄弟間での皇位継承の慣例により同母弟の大海人皇子を一応皇位継承者としていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、それに代わって唐にならった嫡子相続制を導入して自分の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継者としようとした。天智天皇の意向が大友皇子への政権委譲であると知った大海人皇子は政権への意欲を見せれば自分の身が危険であると判断して心ならずも大友皇子を皇太子として推挙し出家を申し出て奈良県吉野の吉野宮に入った。まだ政権への意欲はひめ続けねばならなかったのである。我慢、我慢。いつか花が咲くその日まで。

  そして天智天皇10年12月3日(672年1月7日))、近江宮においてついに天智天皇が46歳で没して大友皇子が二十四才で政権を継いだ時、大海人皇子は兄の存命中ひめにひめてきた政権奪取の心を解き放ち天武天皇元年6月24日、吉野を出立した。各地で兵 を集め近江朝廷へと進撃したのである。瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町)の戦いで大友皇子が自決したことでこの壬申の乱は終結し、翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は都を飛鳥に戻し飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したのであった。かれは国を統治する者の呼称をそれまでの大王から天皇に改めて天武天皇と呼ばれることになった。

♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪という自作の歌は大海人皇子時代のかれを内側から支え続けたのだ。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





  西暦650年を過ぎた頃、額田王は、斉明天皇が舒明天皇の皇后として成した中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子、という皇族兄弟のうちの弟君である大海人皇子と恋仲になり結ばれ、十市皇女(とおちのひめみこ)を出産してかわいがっていた。その額田王に兄君、中大兄皇子が思いを寄せたことから史上最も有名な三角関係が始まったのである。

  西暦658年に謀殺された有間皇子のレクイエムを「♪莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本♪」と当時のアイドルシンガーソングライター額田王(ぬかたのおおきみ)が詠み歌った後しばらくして661年には斉明天皇が崩御し、中大兄皇子は663年、白村江の戦いに敗れ、667年には近江京に遷都し、668年についに天智として即位したのであった。

  大海人皇子は次々に政敵を倒してゆく兄の手法を目の当たりにして一家の安全を図り娘である十市皇女(とおちのひめみこ)を兄、中大兄皇子の子、大友皇子と娶(めあわ)せた。そして兄が思いを寄せる妻額田王と別れてしまう。それで額田王は側室兼側近歌人として宮廷に入ったのである。

 天智天皇は蒲生野(近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる野)行幸と称して天智七年(668)五月五日、大海人皇子、中臣鎌足ほか諸王群臣すべてを率いて薬狩りを催した。それは時の権力者といえど手の届かぬ人妻であり高嶺の花であったアイドルシンガーソングライター額田王の移籍発表のお披露目の宴であった。

天智天皇の求めに応じて額田王は以下のような歌をシンガーソングライターとして詠み歌い振りを付けて舞った。

皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌

♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪(万1-20)

標(しめ)を張った野は占有を示し、野の番人(天智)が見るではございませんか、あなたが袖を振って合図しているのをと前夫、大海人皇子に歌いかけた。それは政治的意図で娘ばかりではなく愛妻までも差しだした元夫への怨み節であったのである。

 それに対して大海人皇子は ♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪

と歌い兄のもとにいる元妻に対して人妻となってしまってもっと恋情が募ると伝えて許しを乞うしかなかったのであった。この時の大海人皇子のひめた心が後の「壬申の乱」の種となったのである。三角関係恐るべし。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「♪莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本♪」

 その時代の歌人とは現代でいえばシンガーソングライターのようなもので、額田王(ぬかたのおおきみ)は天皇側近の歌人として紀の湯に行幸中、有間皇子(ありまのみこ)に対してのレクイエムを詠み歌うことを求められたのである。

  歌とはもちろん歌うものでこの美貌の歌人はかの女一流のメロデイで
「♪木~のーくーに~のー負ーう~、名あ~につーめえ~つけー、わーが~せーこーの~ い~たたーせ~りけ~む、いーつかーしがも~~と~♪。」と心をこめて歌ったのだ。
これは現代人のように和歌を黙読して文字を目で追っているだけではわからない。声に出して歌ってみて初めて感じる感覚がある。その場にいた人々は当時随一の歌姫の歌声に感動したのだ。

  そしてその鎮魂歌を書き記す時、わかるものにはわかる工夫をしたのである。紀の国(木の国)をそのまま書かずヤマトの隣とひねった。そしてヤマトも「莫囂圓」と事件の騒ぎを匂わせる文字使いで表現した。そしてそれに関わったものとして大や兄の文字を使用して大兄と継承権者を示唆している。「い立せりけむ」を「射立為兼」としたのも矢的(ヤマト)を射てお立ちになったであろうという意味を込めたかったから。厳橿(いつかし)が本(もと)を「五可新何本」という文字で記したのは五つの可き新しい「何」つまり可き人の本、という意味を伝えたかったからであった。

 なにはともあれ千年以上前のシンガーソングライターの歌が現代に甦り、その意味が解かれたのは驚くべきことである。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本」

 この超難解歌を詠まなければならなかった稀代の天才歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)の心中にその時去来していたものは何であったのか。「莫囂圓」と文字を並べるだけで紀の湯に行幸中のその場にいた斉明天皇とまわりの人々にはすぐにその意味がわかり心情を共有できた。「囂」は中世までは「かしかまし」と発音された、騒がしいやかましいの意の文字である。どんなことが起きて騒がしかったのか。それは斉明天皇の弟である有間皇子(ありまのみこ)謀殺事件である。その事件が一行の紀の国滞在中に起こり一番の関心事だったのである。
  

  当時、斉明天皇の弟の子でありながら政権から離れていた有間皇子は、氣の病を装って紀州、牟婁(むろ)の湯に療養に行き、自分の病気が完治したと斉明天皇に伝えたので、斉明天皇は紀の湯に行幸することになったのであった。

  その頃、飛鳥で斉明天皇のかたわらで政治の実権を握っていたこの女帝の息子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は西暦645年の大化改新以来常に政敵を倒して政権を維持していた。かれは蘇我赤兄(そがのあかえ)をスパイとして有間皇子に近付かせ斉明天皇と中大兄皇子の打倒計画を立てさせた。そして赤兄はそれを密告して有間皇子は守大石・坂合部薬達とともに捕らえられた。斉明天皇一行の紀の国滞在中、斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問されたが、有間皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えた。しかしながら有間皇子は、その翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。

  この事件を知った額田王は斉明天皇とその取り巻きにはわかるが一般にはわからない暗号として「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」という上句を組み立てたのであった。謀殺とはまともにはいえない辛い苦心のほどが偲ばれる。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 絶世の美女とされる万葉歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)が斉明四年(658)十月から翌年一月にかけて斉明天皇と行幸した紀温泉、今の和歌山県白浜の湯崎温泉あたりで詠んだ「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之射立為兼五可新何本」という万葉集中の歌が難解意味不明で未来永劫(えいごう)解読できないだろうと言われていたという。あなたには解けるだろうか。その歌を佐々木泰造という方が毎日新聞の 万葉のとびら というコラムで解読されている。ここまで解読されたのはすごいことだ。額田王自身はどう思っているだろう。ピンポンッと微笑むか、それとももうちよっとと首をかしげるか。はたして?
fumio

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )