monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその10
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 わたしはアメリカのクリスマスに興味があった。盛大に祝うのだろうと期待していた。家庭では七面鳥を焼いて食べるのだろう。日本とどんなふうに違うのだろうと。12月に入ってしばらくすると学校でクリスマスパーテイがあった。アルコール類はなかったがダンスしたりパンチを飲んだり談笑していると先生たちがみんな若いことに気づいた。20代後半から30代の女性が主で校長と副校長ぐらいが50代だった。パーテイの最後あたりにしつらえられたにわかステージに登ってギターを抱えて、リクエストに応えて当時のヒット曲を歌った。一番受けたのはヒットチャート1位を走るロッド・スチュワートの「トゥナイツ・ザ・ナイト」 だった。若い先生達も一緒に手拍子して首をふりコーラスする。うれしかった。文化はすべての壁を破る。パーテイが終わると女の先生達が一斉にやってくる。「あなたレベルCクラスの生徒でしょ。どうしてレベルCなの。Aでしょ」ワイワイがやがやうるさく質問してくる。歌は発音をコピーして何度も稽古するのでほとんどそのまま歌える。その歌手が南部訛ならその発音のまま歌う。ビートルズも自分たちで喋るときは英国リヴァプール訛だったが歌うときは米国南部訛が多かった。先生達に答えようとすると言葉がうまく繋がらず、やっぱりレベルCであることが判明した。めでたしめでたし。
そろそろ世間の家庭でクリスマスツリーが飾られだしたことが報じられだした。みんな、この季節になるとマーケットの庭に並べられる樅の木を買って帰って居間に飾るらしい。もうすぐわたしのホームステイ家庭でも樅の木を買ってクリスマスツリーを飾るのかとアメリカの家庭で経験する初めてのクリスマスを楽しみにしていた。子供がふたりいるのでデコレーションに凝るだろうし手伝おうと思って待っていた。しかしいつになってもそれらしい気配はない。「うちはジューイッシュなので、クリスマスは祝わないの。」とある日奥さんが言う。それでユダヤ家庭にはクリスマスが無関係なことを知った。「そうかといって、わたしたちの世代はユダヤ教の儀式もしないの」そういえばこの家には宗教的なものがなにもないことに気づいた。人種としてはユダヤ人であっても無宗教で暮らしているらしかった。実際に一緒に生活すると映画や本でみるユダヤのイメージでは測れないものがあった。こうしてこの年のわたしの米国生活初のクリスマスは期待に反したものになった。
「でも、そのかわり、よく働いてくれるからプレゼントを買ってあげるわ」と車で丘を下りてZODYSと称する雑貨マーケットに連れて行ってくれた。そのとき白いコットンパンツとイーグルスのアルバム「ホテル・カリフォルニア」を買って帰った。コットンパンツの裾上げを自分でして縫っていると「ミシンがないからどうしようかと思ってたの、そうなの自分でできるの」と奥さんが驚く。日本で小学校の家庭科の時間に針と糸の使い方ぐらいは習ったから当たり前だった。アメリカではミシンがなければ裾も上げられないらしいことにこちらのほうが驚いた。このとき、手に入れた「ホテル・カリフォルニア」はこの日から計り知れない夢を与え続けてくれた。ドン・フェルダーがマリブの海に沈む夕陽を眺めながら紡ぎだした永久の回転を思わせるあのギター進行。理解できそうでできない歌詞、それらがわたしをとりこにした。わたしは文字通り「ホテル・カリフォルニア」の囚われ人となろうとしていたのだ。
アルバム「ホテル・カリフォルニア」からは先行シングルとしてまず「ニュー・キッド・イン・タウン」 がリリースされてヒットしていた。「ニュー・キッド・イン・タウン」はフミオのことね、とこの曲は奥さんのお気に入りだった。翌年にはヒットチャートのトップグループに入るほどになった。ところが第二弾シングルとして「ホテル・カリフォルニア」がラジオから流れ始めると奥さんの表情が曇るようになった。聴くのをいやがるのだ。なぜかわからなかった。「わたしは、こんなところ来たくなかった。ニュー・ヨークは良かった。窓から外を見てるだけでも毎日なにかがあって楽しかった。ここにはなにもない」と嘆き出す。こんなに素敵な所、という歌詞の内容に反発を感じているらしい。そういえば近所づき合いはないし、ゴミを外に出すときにも人に見られるのを嫌がる。「カリフォルニアは嫌いなの。ニュー・ヨークに帰りたい」と訴える。それを毎日ベッドルームで夫に言い続けているらしかった。「今度、ワシントンにハズバンドが仕事見つけに行くの。ここ以外で暮らしたいから頼んだの。あなたに壁を塗ってもらうのはこの家をきれいにして高く売るためなのよ。親に援助してもらって25万ドルで買ったの」。意外だった。カリフォルニアが嫌いとは…。そのうちに本当に夫は車でワシントンに仕事探しにでかけていった。病院巡りをしているらしくなかなか帰ってこない。この家には長くいられないらしいと感じた。
「昨夜、ワシントンから電話があったの。ハズバンドが働く病院がみつかったのよ。あなたも一緒に来てくれる」と奥さんが訊く。家族でもないのについて行くのはおかしい。学校で友達に相談する。すると一緒にホームスティ先探ししたひとり、エイブが日本人学生数人で一軒家をシェアしているので来い、という。なんだか一家に悪い気がしたがワシントンに行きたくないので医師が帰って来る前に慌ただしく奥さんに別れを告げた。壁はまだ全部は塗り終えてはいなかったがかなりきれいになっていた。すこしは値段が上がるかもしれなかった。
fumio


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「カリフォルニアサンシャイン」その9
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授業で自己紹介の時自分の星座を言わなければならないのでアクエリアス と言った。蟹座はキャンサーと教わった。ホームステイの話題が出た時、ユダヤの家庭だけには入りたくないという人が多かった。ユダヤの家に入るとこき使われるぞ、という。ユダヤについての知識はそういえばシェークスピアの「ベニスの商人」の強欲な商人がユダヤ人だったな、とか「アンネの日記」に代表される第二次世界大戦中のホロコーストの被害者ということぐらいだった。入りたくないといってもだれがユダヤ人かという見分け方も知らないし、わたしは漠然とそんなものかと思っていた。

 毎朝、6時頃起きて、裏のハリウッドサインを見上げると、たまになにか飛行機のようでそうでないような飛行体が上昇していった。この裏あたりがUFOの基地になっているのかも…、と思ったりした。黒かった壁に白いペンキを塗っていると奥さんがハズバンドはキャンサーという。初めは授業で習った蟹座のことかと思った。しかしそれは癌のことだった。かかっているのではなくUCLAの癌科の医師だったのだ。大変な職業だと思った。
可愛い息子がふたりいて食事中、叫び声が絶えなかった。夜、わたしが疲れて椅子にもたれて眠っていると足に小便してゆく。それに気づいた奥さんが「オー・マイ・ロード」と嘆声をあげる。いつもなにかあると「オー・マイ・ロード」だった。テレビや街では「オー・マイ・ゴッド」を聞くことが多かったので不思議だった。訊いてみると「うちはジューイッシュなので、『オー・マイ・ロード』というのよ」という。それでこの家はユダヤ人家庭なのだ、と初めてわかった。医師夫婦は仲が良くて子供達との喧噪の夕食後、わたしにギターの弾き語りを所望する。最近の曲がいいか、と訊くと「ラヴ・ミー・テンダー」がいい、という。それでギターを抱えて歌い始めると、抱き合って踊りだした。西洋人の年はわかりにくいがまだ30代前半で恋人気分が残っているらしかった。そしてある日奥さんが日本の歌も聴かせてよ、という。それで日本のカラオケのレコードをバックにしてわたしが歌ったカセットテープをかけた。ふーん、これが日本の音楽、とやはりあまり反応はかんばしくなかったがカスバの女 に大きく反応した。「これはジューイッシュ・メロデイよ。聴いたことがあるわ、どうして日本にユダヤの歌があるの」と訊く。わたしは返事のしようがなかった。ただなぜか最後の「外人部隊の白い服」という歌詞で映像が浮かんできて胸が迫る思いがするので選んで歌ってみただけだったから。この曲のもつ切ないともエキゾチックともやるせないともなんとも表現のしにくい雰囲気はジューイッシュ・メロデイだからなのか、と思った。
fumio


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