monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその48
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ある時、中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。アコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのうちラテンギター、ジャズギター、女性ピアノという変則的な編成のバンドのベース兼ヴォーカルを頼まれた。ロックも演歌も歌謡曲もラテンインストルメンタルもなんでもありだった。とにかく譜面をたくさんコピーしてきてなんでもやれるようにまわりもちでだれかの家に集まって練習した。のど自慢などの出場者のバック演奏も譜面通りではなくその人のキーにあわせてすぐ弾けなければいけない。審査の間にはわたしはゲストのプロとして演歌の「与作」を歌ってみせたりした。わたしの家の裏庭で日曜に機材を使用してみんなで稽古していると裏の長屋のメキシカンや黒人住民が石を投げ込んできた。休みの日にうるさいと腹が立ったのだろう。わたしにとってそれは幸せな日々であった、とにかく歌を歌って暮らせるのだから…。
それは幼い頃からの望みだった

 そのころ、島健 はジャズ雑誌のファン投票で上位に入るトランペッター、アル・ヴィズッティ (AL VIZZUTTI)のバンドでキーボードを弾いていたがそれだけでは生活できないのでクラブのピアニストも始めた。わたしはその店に仕事ではなく客のフリして訪れてかれの伴奏でスタンダードやポピュラーソングを歌ったりした。
 ある音響メーカーの新製品のPCMレコーダーがいかにクリアな音でデジタル録音できるかのテストと宣伝のためにジャズバンドの紹介を頼まれて、わたしはアル・ヴィズッティのバンド を紹介した。ひとり100ドルのペイで請け負って、ドラムス、ベース、ギター、キーボード、トランペットとプロユースのスタジオで時間をかけてPCM録音した。それが日本でその社の宣伝資材として使用されたのだろう。
そのとき、島健はキーボードをハモンドオルガンの名器B3の音が出る設定にしたと自慢していた。一般の人には、それがどうした、という話題だがわたしは感心してその音を聴いた。かれは仕事をまわしたお礼にわたしの曲をアレンジしてやる、といっていた。それはかれらにとっておいしい仕事だったのだろう。

 わたしは「カリフォルニア・サンシャイン」のシングルを作っている時、島にアレンジを頼んでアルにトランペットのソロを頼もうかと思ったが、それではあまりに人頼みに過ぎるので思いとどまった。今にして思えばそれも面白かったかも。なにしろ島がのちに日本でストリングスアレンジしたサザンオールスターズの「TSUNAMI」はレコード大賞を受賞したのだから…。
 やがてラテンギター、ジャズギター、女性ピアノにわたしのベース兼ヴォーカルのバンドもみんなのモチベーションが落ちて自然解消のようになった。日々の仕事をこなすだけでなにかの目標がないとバンドの維持はむづかしい。
中島茂男はいつのまにか、サンフランシスコから戻ってきていたがもうエンターティナーには戻る気はなく別の方向に転進していた。それでわたしは中古のギブソンレスポール・エレクトリックギターを購入してふたたびひとりでエンターティナーを始めた。どんな形態であろうと歌を歌い人を楽しませて暮らせることは幸せだった。
宮下富実夫、中島茂雄、山下富美雄、そして島健というバラバラな指向性をもつミュージシャンたちをほんの一瞬邂逅させてアルバム「プロセス」を作らせふたたびチリジリにした存在の意図は奈辺にあったのだろう。
fumio

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