monologue
夜明けに向けて
 

ozaki  


わたしがこれまで一番歌がうまいと思った日本人歌手は尾崎紀世彦だった。
それでわたしは尾崎のアルバムの1曲「ジョージア・オン・マイ・マインド」を練習してNBCテレビの「ゴングショー」に出演したのだった。視聴者は日本人がどうしてジョージアの歌を歌うのか変に思っただろう。フミオ・フロム・トーキョー」と紹介されて、京都出身なので「キョートなのに」と思った。日本といえばトーキョーと言うのが決まり文句のようだった。
歌っている途中、司会も兼ねていた名プロデューサー、Chuck Barris(チャック・バリス)が女性と踊ってみせて、最後までゴングは鳴らされなかった。点数は審査員全員8点の札を上げてコメントは「ナイスバラード」だった。ジャパニーズイングリッシュと揶揄される日本的発音の言葉の訛りで途中で打ち切られなくてホッとした。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





わたしはダウンタウンのPawn shop(ポーンショップ)で中古アコースティックギターを買って学校に下げて行った。先生たちは別に怒ることがなかった。
それで休み時間にアルゼンチン娘、オルガが「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」「ウイ・アー・オール・アローン」などの伴奏してくれと頼むのでバックを弾くと思いのほか、声も良くてうまかった。

そして、わたしは自分の英語歌唱力の実力を正しく知るために米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」にオーディションを受けた。
その頃、米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」は新人芸能人の登竜門として人気で運のいい出場者はレコードデビューしてビルボードHot100に入ってゴングショー出身歌手として人気になった。歌、ダンス、ジョーク漫談など審査員の前で様々な芸を披露して競う。パフォーマンスが良くないか、あるいは面白くないと途中で判断されるとその時点で合図されてゴングを鳴らされて打ち切られる。その時の出場者の愕然とする反応がなんとも面白くて人気があったのだ。最後までゴングが鳴らされないとジューシー・モーガンなど4人の辛口、軽口の人気審査員たちがおもむろに点数札を上げてその点数の合計でその週の優勝者が決まる。賞金は500ドルでわたしの通ったLA HIGH(ロサンジェルス高校)外国人英語教育プログラムの同級生たちはみんなゴングショーのファンで、フミオも出演しろ、と勧める。この番組に日本人が出演するのは見たことなかったけれど貧乏留学生のわたしにとって500ドルは大金でもし賞金がとれればこの国で何か月か暮らせると思って応募することにした。わたしが応募した日のサンセット通りのNBCのオーディション会場にはスターを夢見る夥しい応募者がやってきて控え室はごった返して殺気だった雰囲気の出場者が真剣に踊りやパフォーマンスの稽古していた。そのオーデイションの空気は神経質でピリピリしていた。集まったシンガー達はスターを目指すだけあってさすがにみんな感心するほど歌がうまかった。順番にパフォーマンスしてゆき、わたしはギターを抱えて師と仰ぐレイ・チャールズのジョージア・オン・マイ・マインドを歌った。第1次選考に通って数日後、第2次選考に喚ばれて行くと今度は人が少なく、歌ってみせるとキーボード奏者が音合わせしてどういうふうにギターを弾くかとかオーケストラのキーの打ち合わせなどをしてOKが出て誓約書を渡された。本番の時、オーディションと同じ服装で出ることなど、こまごまとあってバラエテイなのであまり羽目を外し過ぎてショーをぶちこわさないように誓約させるらしかった。 放送には7秒ルールというのがあってライヴ放送でも7秒間遅らせて放送するのだと学校の先生が言っていた。それで突然の放送禁止用語にも対処できるし電波ジャックにもその7秒で対処するということだった。放送業界は表面上楽しそうでいて、いつも神経をとがらせているのだなあと感心したものだった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




のちにプログレッシヴロックグループSFでわたしの相棒となる中島茂男は淡谷のり子が審査委員長を務めたロサンジェルスでの「海外のど自慢大会」でフォークの歌を歌って優勝したこともあったがそれでもロサンジェルスの音楽関係ではなかなかいい仕事がなく、外に立っていると車上で銃を構えた男たちが射ってきて頭の上のガラスに弾丸の穴があくようなリッカーストア(酒屋)の店員をしたりしていた。あまりいい環境とはいえない地区だったのである。それで大型クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー募集のオーデションを受けたのだった。
昔、60年代後半から70年代初頭にかけてヤング720(ヤングセブンツウーオウ)という若者向け番組があった。今記憶している司会者は「関口宏、松山英太郎、竹脇無我、由美かおる、小川知子、大原麗子、吉沢京子、岡崎友紀 、黒澤久雄、目黒祐樹」 といった当時売り出しの若者たちだった。ヤング朝食会というトークコーナーには横尾忠則など当時を代表する新進気鋭の芸術家たちがでていた。グループサウンズブームのはしりのころで多くの若手バンドが出演していた。今も憶えているのはゴールデンカップス と改名する前の横浜のバンド「グループ アンド アイ」の演奏で日本のバンドと思えないリズム・アンド・ブルース・フィーリングをもっていて素晴らしかった。当時、若者であったわたしたちはこの番組によって時代の息吹を感じたものだ。
SFの相棒、中島茂男は日本時代、この番組に出演したりするミュージシャンだった。渡米後、ミュージシャン仲間だった泉谷しげるや井上陽水、山本コータロー、モップスの星勝 らが訪ねてゆくようになる。
鈴木ヒロミツが役者に転進して出身バンド「モップス」をおろそかにするようになってギターの星勝は「月光仮面の歌」を自分で歌ったりしたがアレンジを本格的に勉強して井上陽水のアレンジを担当することになって自分のアコースティックギターを中島茂男に貸しておいてロサンジェルスで仕事をする時、そのギターを使ってアレンジするようになったのである。それでわたしはホテルに中島とそのギターを運んだものだった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一瞬  


隣の席のアルゼンチン娘、オルガはある時、「男のものは日本語でどう言うの」と訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、あなたもきっと迷うように少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。おかげで一瞬見たその言葉は覚えることができなかった。残念なようなそうでもないような気がした。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




LAハイスクールのわたしたちのクラスに入って来た、かわいいアルゼンチン娘オルガ(OLGA GOMEZ)は英会話力も文章力もあるので先生たちが重宝して米国公共学校の英語コラムを書けと頼んだ。それまでは、どこから来た学生もコラムを頼まれると出身国の紹介をしていたのでオルガも喜んで受けてアルゼンチンのお国自慢のコラムを書いた。それでわたしはそれまでなにも知らなかったアルゼンチンという南米の共和国の基本的な知識を得たのだった。そのコラムの評判がとてもよかったので先生たちは、次はfumioが書けとわたしに書くように迫って来たのである。
わたしはこれまでの学生たちのコラムのように出身国の紹介をするほどの英語力がまだないのでまったく違う内容の「歌を作ろう。信じようと信じまいとだれでも作れる。あなたにもできる、とにかくやってみよう。」という英語コラムを書いてみた。
すると、予期せぬ題材で衝撃的だったようで次から次へと先生たちがやってきて「fumio、どうしたらいいの。わからない」と訴えてきたのだった。
それで「でたらめでもわけがわからなくてもなんでもかんでもまず歌ってみて」と励ましたのだった。あのコラムを読んだだれかがその方法で名曲を生んだかも…。今このブログを読んだあなたが名曲を作るかも。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


66  


一時、巨大竜巻がカリフォルニアで発生したことをよく報じていたことがある。ABCニュースではキャスター、ダイアン・ソウヤーが竜巻の被害に遭ったミズーリ州ジョプリンから中継してジョプリンの町を説明するのに「ルート66」の歌を覚えていますかと視聴者に尋ねた。
「ルート66」とはシカゴからカリフォルニアまで2000マイル以上も走って達するという歌でまずナット・キング・コールでヒットして
同名のテレビシリーズができた時、主題歌としてジョージ・マハリスがロック風に歌っていた。その歌詞は「ジョプリン・ミズーリ、オクラホマシテイ 」とジョプリンや、オクラホマシテイが途中で出てくるのである。オクラホマシテイにはライブハウスに息子が大学時代「エンプティカップ」というバンドで週末に出演していた。
わたしは息子のオクラホマの大学バンドメンバーマイケルやブランドンたちとMSNメッセンジャーで交流したとき、かれらは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとわたしに尋ねてきたりしてそれからセッションしたいというのでかれらの演奏を数曲聴かせてもらったあと、わたしにもなにか歌えという。
それで歌詞にかれらの町、オクラホマシティが出てくる「ルート66」を選んで伴奏を頼んだものだった。
まだADSLの時代でインターネットで米国で伴奏し日本で歌うのは太平洋をまたぐタイムラグがあってギターの音が微妙に遅れてリズムがとりにくかった。「ルート66」の最終地点サンタモニカの海岸からそのまま海に入り海底の太平洋プレート上を走れば日本に達するのだ。その日のわたしたちのパフォーマンスは本当の「ルート66」だったのである。
あの時のインターネットのチャットに集まりわたしと楽しい時間を共有した先進的なオクラホマの大学生たちは日本人は英語で普通に会話できてアメリカのテレビシリーズの主題歌程度なら原語で歌えるのだと思っただろうか。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




宮下フミオの自宅スタジオに集まるアーティストのひとり、「走れコウタロー」でヒットした山本コウタロー(本名・山本厚太郎)は1年間アメリカで暮らしていた。かれはパチンコが好きだったらしくリトルトーキョーでパチンコ台と玉を買ってきて遊んでいた。
その頃のロサンジェルスには梁山泊のような芸術家集団が共同で大きな家に暮らしていた。ある日、かれらがサンフランシスコに自生するマジックマッシュルームを採ってきてカレーを作ったことがあった。わたしがその家に行って将棋をしていると昼食を食べろというのでキノコが入っていることを知らず勧められるままに食べているところにコータローが来てかれも勧められて一緒にそのカレーを食べたのである。わたしは将棋をしているうちにそのキノコの成分が効いてなにがなんだかわからなくなっていつも勝つ相手に負けかけた。コータローはサンタモニカ海岸までドライブしてきて帰ってくると太陽がすごい勢いで海に落ちたように見えたという。やはり感覚がおかしくなったらしい。そして、一休みした時わたしが将棋を指そうか、というと嫌がったのだった。
それからある時かれはシゲ(中島茂男)とわたしがコンビで出演してるハリウッドのクラブを訪れてじっと聴いていた。わたしたちはその頃、今は日本でもCD化されているプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を作るために曲をクラブで実際に色々演奏しながら仕上げていたのだった。未完成で曲はまだ中途半端だったのであまりよく思えなかったことだろう。
そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。その「アメリカあげます」の中でコータローはわたしの相棒ギタリスト、中島茂男を名指しでがんばれ、と応援している。
そのコータロー自身アメリカでレコードを作ろうとしたがカラオケはできたけれど最後のヴォーカル録音で満足できる歌が録音できなかったので発売までゆけなかったという。2022年7月4日、山本コウタロー、73歳で脳内出血で死去。合掌。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


憧れ  


その頃、米国でハリウッド制作戦国ドラマ「Shogun」が大ヒットしていた。
そのヒロイン島田陽子も宮下フミオの自宅にやって来た.
映画「人間の証明」で主役の黒人ハーフの青年を演じたジョー山中は家が見つかるまで居候していた。わたしが相棒のシゲさんをエンターテイナーの仕事で迎えに行くと
「行ってらっしゃい」とわたしたちを送り出してくれた。すごく礼儀正しい好青年だった。クラブの仕事が終わってわたしが車でシゲさんを宮下家に送ってゆくと「おかえりなさい」とリビングルームで待っていたのである。
京都駅前のデパート「丸物」屋上の海外ニュースでよく動静を採り上げられていた、ミッキー・カーチスと「サムライ」もその頃ツアーで、ロサンジェルスに廻って来たのである。それでわたしがしばらくのちにプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を製作する時、宮下にプロデュースを頼みミッキーカーチスのバンドのツアーで来ていた島健にピアノを頼んだのだった。思えば、丸物デパートでの憧れがそんな風に実を結んだようだ。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




わたしは幼い頃、映画「スターウオーズ」のヨーダのモデルになった脚本家、依田義賢の依田家の嫁に入った富子叔母さんに連れられて太秦撮影所見学に行ったことがある。その時、新人、勝新太郎が遠山金四郎を演じていた。

そして時と場所は移り、後年渡米した勝新太郎は宮下フミオの自宅スタジオに居候していた時、映画「座頭市」の音楽としてティアック8トラック・レコーダーに三味線を弾いてレコーディングした。杵屋の跡取りとして修業していたので弾けたらしい。コードはE一発だった。わたしは宮下に請われてその三味線に合わせてベースをレコーディングしたことがあった。
芸能界で一番洋楽のスタンダードのうまい歌手は石原裕次郎か勝新太郎かということがよく話題になったが、その勝新太郎はたった一度、宮下フミオのアコースティックギターのバックでリトルトーキョー劇場でライヴを行ったというニュースが翌日の羅府新報に掲載されたものだった。
海外でも勝新太郎は人気でヨーダ依田義賢 が脚本を書いた映画「悪名」シリーズに勝新太郎演ずる八尾の朝吉親分が鉄砲光三郎の太鼓で河内音頭を唄う場面があった。それでわたしの息子の友達のオクラホマの大学生たちマイケルやブランドンたちは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとインターネットのチャットでわたしに尋ねてきた。かれらにとってはなにか、近寄りがたい存在のようだった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




わたしは英語の歌を歌って生活するために渡米したのだが働かなければ暮らしてゆけないので生活のために俳優の若山富三郎がオーナーのロイさんと親しいのでアメリカに来ると寄るというロサンジェルスのダウンタウンの「栄菊」というレストラン寿司店のエンターテイナーとしてギターの弾き語りに入った。そして、しばらくしてある時、クラブ「エンカウンター」という大型クラブのオーディションが催されてシゲさん「中島茂男と初めて会ったのである。二人でエンターテイナーをしているとヨーロッパツアーからアメリカツアーにやってきたファーイーストファミリーバンドの宮下フミオと会った。フランスではかれのバンドの曲がベストテンヒットに入ったと言っていた。別の国のことなのでそれがすごいことなのかどうかもその時はわからなかった。
宮下家は妻のリンダの才覚で維持されて来る者は拒まずだった。それで、その家は渡米した芸能関係の人々のたまり場のようになっていた。ジョー山中、ミッキーカーチス、勝新太郎、などなどが居候したりパーテイしたりレコーデイングしていたのである。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スリーフィンガーピッキングといえば加藤和彦を思い出す。
NHK教育テレビの「スリーフィンガーピッキング奏法講座」で弾き方を教えていた。おかげでわたしもスリーフィンガーピッキングができるようになったのだ。
日本中のフォーク系のギタリストの先生のような存在だった.音楽的感性が秀でていて「帰って来たヨッパライ」「あの素晴しい愛をもう一度」「タイムマシンにおねがい」など新たな感覚で時代を開く存在として生きた。ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」ではイギリスに行き活躍した。すごいと感心した。
 当時、加藤和彦の母校、龍谷大学の講堂でライブコンサートがよく開かれて、わたしがスリーフィンガーピッキングで歌った 「打ち上げ花火」を女性デュオで歌いたいというのでOKした。その頃はまだ二番までしかなかったがかの女たちの参加したコンサートを見に行くとでスリーフィンガー奏法で立派に演奏していた。男のわたしが歌うより詩情に溢れているような気がした。京都という土地柄、わたしの知らないうちにご当地フォークとしてかの女たちのまわりでヒットしていたようだった。加藤和彦が拡めたスリーフィンガーピッキングは日本国内にとどまらず多くのアーティストに受け継がれた。
わたしはアメリカのハイスクールでアルゼンチン娘、オルガのエキゾチック日本語発音の「打ち上げ花火」のバックをスリーフィンガーピッキング演奏してクラスメイトや学校中に大好評になって日本でデビューさせるといいと盛り上がったものだった。日本でヒットしたかも…。しかし、オルガはすぐに中国系アメリカ人と結婚してアメリカ永住権をとったので日本には来なかっただろうとふと思う。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


渡米  


その頃、京都駅前の丸物デパートの屋上の海外ニュースコーナーでミッキーカーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしているというニュースを読んで憧れたわたしは英語の歌を歌って生活するには本場アメリカでなければと思って渡米を決意して、ロサンジェルスのアソシエイテッドテクニカルカレッジに留学した。そしてすぐに転校したLAハイスクールのわたしたちのクラスにアルゼンチンから来たオルガ(OLGA GOMEZ)というかわいい白人系女生徒が入ってきた。アルゼンチンで撮ったフイルムを学校で映してみんなにアルゼンチンの紹介をしたりしてものおじしない外交的な性格だった。わたしがギターを弾くと知ると「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」や「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」「ウイ・アー・オール・アローン」などのバックを弾いてくれと頼んで歌った。声も良くてうまかった。歌手になりたいようだった。わたしの作った歌も歌いたがったので京都で女性フォークデュオが歌って人気があった「打ち上げ花火」の1番と2番をローマ字で書いて教えるとすぐにエキゾチックな香りのする発音の日本語で歌えるようになった。わたしはスリーフィンガーピッキングでバックを弾きながらコーラスしたのだった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





十字屋楽器店が主催する音楽サークルの天下一を争う演奏コンテストの結果は次週の十字屋の広報誌に掲載された。
ナンバーワンは石塚成孝(いしづかしげたか),越智友嗣(おちゆうじ)、井上博(いのうえひろし)のフォークグループ「ザ・ヴァニティー」だった。そして2位はキーボードが口髭(マスタッシュ)を蓄えているのでタッシュグループと名付けた関西ナンバーワンのソウルロックバンドと謳われたバンド「タッシュグループ」
 「・高畑晃   バンド・リーダー。エレキ・ギター。
  ・荒木卓郎  パーカッション。ギター。
  ・河合循   オルガン。
  ・古城たかし ヴォーカル。
  ・小川修   ドラムス。
  ・葵和行   ベース。」であった。
かれらのパフォーマンスはオーティス・レディングの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」をスリードッグナイト風
に白熱演奏してすごかった。まだそのころ高価で普及していなかったテープエコーをマイクにつなぎヴォーカルのスリムな古城たかしが足踏みして踊りながら歌うのだがリーダーのギター高畑晃の合図でいっせいに決め(キメ)で盛り上げる。何度か繰り返し終わったかと思うとバックが再び決め(キメ)を演奏し、古城がはじけるように踊り息も絶え絶えに歌い上げる。オーティスやジェームス・ブラウンのステージをよく研究していたようだ。その圧倒的なステージにはだれもがスゴイものを見たと魅了された。わたしは古城たかしのリズム感とヴォーカルフィーリングに一目おいていた。古城は普段地味な青年で話をしていても控えめな態度だった。舞台に出て歌いだすと変貌するのである。かれらはのちに古城たかしとブルー・タッシュと名乗り京都レコードから「東京の夜に泣いている」をリリースしてレコードデビューした。
わたしはその演奏会に飛び入りのように参加して弟のギターの伴奏でアンチェインドメロデイを歌ったのである。作曲家山室紘一氏がサークルの顧問をしていて「ギター一本ではなくオーケストラのバックで聴きたい」とのコメントをくれたのを記憶している。しかしながら、その後わたしはアメリカでソウルやロックを歌って生活することを選択して渡米してクラブのエンターテイナーやレコード製作などミュージシャン活動したのだった。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


saigo  



 1968年後半に日本のフォークグループの草分け「ザ・フォーク・クルセダーズ」が解散して同志社大学出身の端田宣彦(はしだのりひこ)がシューベルツを結成する時、同志社大学の後輩たちのフォークバンド「ザ・ヴァニティー」から越智友嗣(おちゆうじ)と井上博(いのうえひろし)をメンバーに加えた。石塚成孝(いしづかしげたか)だけは学業を優先した。
   そして,メンバーの抜けた「ザ・ヴァニティー」の方は石塚成孝(同志社大) 岡田恒夫(京都産大) 松田伸昭(大阪工大)という他校のメンバーとの「ザ・ヴァニティー」を再結成して1969年9月に「最後のお話」というシングルをキングレコードからリリースしている。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


isi  



大ヒットアニメ「ケイオン」のモデルになった十字屋楽器店からスタート。
1960年代後半のある日曜日、京都市内に遊びに行っている弟から電話があった。「今からギターを持って十字屋の二階に来い」という。京都の三条通にある十字屋楽器店が主催する音楽サークルの演奏会があったのだ。わたしはギブソンハミングバードギターを携えて三条通り新京極角の十字屋に入った。階段を登って会場に着くと多くの人々が楽しそうに演奏会を盛り上げている。ただのコンサートではなくコンテストのようだった。
わたしは弟を見つけて隣に座った。次々にバンドが出てきて得意曲を演奏すると作曲家の山室紘一がパフォーマンスを批評してゆく。先日は大阪で演奏会が開催されて谷村新司のアリスを見出してデビューさせることを決めたらしかった。
出演バンドのひとつに同志社大学在学中の学生たちの「ザ・ヴァニティー」というフォークバンドがあった。メンバーはギターとヴォーカル石塚成孝(いしづかしげたか),ギターとヴォーカル越智友嗣(おちゆうじ)、ウッドベースとヴォーカル井上博(いのうえひろし)の三人。得意曲サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」で聴かせた石塚のリードヴォーカルと切れの良いギターストローク、越智の柔らかいハーモニーの組み合わせは抜群だった。
そして、かれらは日本コロンビアからカレッジフォークとして「ザ・バニティー 愛に吹く風」 というシングルを発売したのだった。十字屋のサークルグループの演奏会は当時のミュージシャンの登竜門となっていたのだ。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ