monologue
夜明けに向けて
 



かつてLOVE&PEACEを目標に生きた時代があった。
60年代後半ベトナム戦争介入の泥沼化を背景に、反戦機運が高まりヒッピームーブメントが生まれた。
アメリカの消費文化に対する対抗するカウンター・カルチャーとしてサンフランシスコのベイエリアを拠点にカリフォルニアから発信された。
ドラッグ、ロック、フォーク、サイケ、フラワー・チルドレン「自然に還ろう」のメッセージなどなどが渾然一体となって時代をリードした。
そのひとつの象徴のようなフェスティバルがウッドストックで開催されたのであった。
そのとき人々は本気でLOVE&PEACEの時代の幕開け」を信じた。時代は確実に進んでいたのだ。

1963年、ワシントンD.C.リンカーンメモリアルで
マーティン・ルーサー・キング牧師( Dr. Martin L. King Jr.)は歴史に残るI HAVE A DREAMと呼ばれる 演説を行った。
I have a dream
that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed; we hold these truths to be self-evident that all men are created equal.
「ある日、この国が蜂起(ほうき)して
全人類が平等に創造されたという自明の真実の真の意味をまっとうすることを。」

I have a dream,
that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.
「ある日、赤い丘の上のジョージアの奴隷達の息子らと主人の息子らがともに兄弟のテーブルの席につくことを。」
I have a dream,
that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.
「ある日、不公平の熱にうだり抑圧の熱にうだるミシシッピ州でさえも自由と正義のオアシスに変容することを。」

I have a dream,
that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.
 「わたしの四人の子供たちがある日、その性格の内容によってでなく皮膚の色によって判定されない国に住むことを」

 このように「I HAVE A DREAMわたしは夢を持っている。」と黒人と白人そして全人類が分けへ立てなく暮らす社会の建設を訴えたが1968年4月4日に、テネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーで暗殺された。
常に時代を変革しようとする動きとそれを止めようとする勢力がせめぎあっている。
LOVE&PEACEを忘れてはならない。
今年またわたしたちはふたたびLOVE&PEACEを目標に生きなければならない時代に入った。
この目標のためにわれわれは集められたのだから。
fumio




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 12月8日に起こった事件、事故として、
太平洋戦争勃発、ジョン・レノン射殺、高速増殖炉「もんじゅ」事故について述べたが
戦後日本最大のヒーロー、力道山のことを書き漏らしていたので今回述べておこう。
かれは1963年12月8日に、赤坂のキャバレーで暴力団員に刺されて入院、その傷が元で12月15日に他界した。

朝鮮日報は「薜景求(ソル・ギョング)、中谷美紀主演の映画『力道山』は日本の配給会社関係者から最高の賛辞を得たのに続き、9日に行われた釜山国際映画祭の公式イベント「力道山の夜」以降、米国やヨーロッパの映画会社からもラブコールが殺到している。 戦後、日本で英雄として称えられた韓国人プロレスラー力道山の生涯を描いた映画『力道山』は、8月15日にクランクアップして現在は編集作業などが行われており、力道山の41回目の命日にあたる12月15日に公開される予定だ」と報じている。
日本では来年、2006年3月4日より全国ロードショーということである。

 力道山本人は自分でも数々の映画に出演していた。
1955年「力道山物語 怒涛の男」
1956年「力道山 男の魂」
「1956年怒れ!力道山」
1957年「純情部隊」 など。
先日、BSでかれの出演作を一挙に放映していた。
そのうち「怒れ!力道山」では鉄砲、日本刀で武装したヤクザとキャバレーで格闘して力道山が負傷する場面があった。まるでその7年後の事件を前もって演じているようで不思議な気がした。映画では回復したが現実は違う結末を用意していた。深傷(ふかで)ではなかっはずなのにあの鍛え抜かれた男があっけなく亡くなってしまった。
 その経歴は
公称では 大正13(1924)年11月14日生まれとなっているが
朝鮮半島時代に結婚し、妻子があったことから公称生年月日より早く生まれている可能性がある。
公称身長は180cm、実際には176cm116kg。
本名、金信洛「キム・シンラク(シルラクと発音)」。
金信洛から姓が金村になり
長崎県大村市の農家百田家と養子縁組をして百田光浩となる。
出身地 長崎県大村市(旧 長崎県東彼杵郡、
出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道(旧 朝鮮咸鏡南道))
昭和15(1946)年に二所ノ関部屋に入門し初土俵。
24(1949)年に関脇に昇進するが、翌25(1950)年に自ら包丁で 髷(まげ)を切り廃業。
廃業直前の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。大関取りの場所前の突然の廃業の理由ははっきりしないが、日本人でなければ横綱にはなれない、という民族の「壁」と目されている。
力士廃業後、昭和(26(1951)年にプロレスに転向する。1952年に渡米し、翌年帰国して日本プロレス協会を設立する。昭和28(1953)年にテレビ放送の草創期が重なり伝家の宝刀、空手チョップで日本中のヒーローとなる。
 かれ力道山は朝鮮半島出身であることを周囲に隠して生きていた。
実の息子、百田義浩、百田光雄両氏は父の死後にそのことを知ったということである。

 この話しにわたしは目頭が熱くなる。敗戦後の日本人に夢を与えたスーパーヒーロー力道山は自分の子供たちにも自らの故郷を明かすことができなかった。そんな時代であった。
リング上で映画の中でかれは正義の日本人としての自身のペルソナを演じ実生活でも演じきったのである。
相撲界も今は様変わりして外国人横綱が当たり前になってしまった。力道山が格闘した民族の壁など見当たらない。しかしその壁がプロレスという新しいスポーツを日本に導入するきっかけになったのだから今頃、かれは苦笑しているだろうか。なにか新しい物が生まれるときは大きな障害が必要なのだろう。それを超えたときなにかが始まるのだ。
fumio
 

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先日、BSニュースで今年のノーベル文学賞に選ばれた英国の劇作家、ハロルド・ピンター(Harold Pinter)氏(75)の受賞記念講演の模様が流れた。かれはガンで入院中なのだが「芸術、真実、政治」というテーマで車椅子で講演した。
ブッシュ大統領とブレア首相の二人をサダム・フセイン政権の大量破壊兵器保有をでっち上げ無辜の市民を大量殺人をした廉(かど)により、「戦争犯罪人」として国際刑事裁判所(International Criminal Court )に訴追するよう呼びかけていた。一般の反戦家ではなくノーベル賞作家が公然とこういうことを表明したのであきらめかけた民衆や世界の識者の正義感を覚醒させた。

 かれハロルド・・ピンター氏の経歴をみると
1930年10月10日、ロンドン東部ハックニー(Hacney)で、ユダヤ系ポルトガル人の洋服屋の息子として生まれる。
第2次世界大戦中には疎開し、14歳の時にロンドンに戻ってくる。
1949年には兵役を拒否し、危うく投獄されそうになるが罰金で許されている。
1951年に舞台俳優となった後、1957年に戯曲「部屋」(The Room)で劇作家に転身。
アパートの一室の占有権をめぐる3人の争いを描いた59年の「管理人」で、劇作家としての地位を確立。
代表作に「昔の日々」(70年)、「誰もいない国」(74年)「料理昇降機」(57年)などがある。 映画のシナリオやラジオの台本も手掛ける。

 そして近年政治的活動にかかわり、99年の北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴスラビア空爆に抗議。01年のアフガニスタン空爆やブッシュ政権のイラク侵攻をナチス・ドイツにたとえてイラク開戦に反対の立場を鮮明にし、反戦集会で自作の詩を読む。
今年2月、劇作からの引退を表明し、イラクからの英軍撤退を求める政治活動に専念すると発表。
そして今年10月13日に
スウェーデン・アカデミーは、今年のノーベル文学賞をハロルド・ピンター氏に授与すると発表したのであった。

 こうして見てみると、かれは突然、あの講演でブッシュ大統領とブレア首相を批判したわけではなかった。
ユダヤ系ポルトガル人として生まれ差別を受けてナチスの迫害を生き延びたのだ。
かれを育てたものはそんな逆境だったのだろう。戦争を好む為政者たちを常に批判の目で見て生きてきたのだ。
:現代も為政者たちは様々な口実を設けて戦争を起こし民衆を騙(だま)し侵略をつづける。
そしてピンター氏は今ガンの病床にあっても人々の目を覚まさせようと「芸術、真実、政治」のメッセージを発し続ける。このような病人に任せきりにせずわたしたちも自立してかれら現代の為政者の為すことの正否をはっきり見分けなければ申し訳ない。
fumio



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 毎年12月8日には太平洋戦争が勃発したので開戦関連番組が制作される。
今年もNHKが「その時歴史が動いた」で「山本五十六」を特集していた。
戦争の悲惨さ虚しさについて人々に考えさせ意味がある企画である。
1980年のこの日には、ジョン・レノンが射殺されたことで以来世界のファンが集会を開いて平和を祈る。
これも素晴らしいことだ。
人類は過去を振り返り反省し明日の糧として生きている。
失敗をしても繰り返さなければ前進できるのだ。

 そして1995年のこの日には、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故が発生しているのだが
その失敗がどのように生かされたのかというと現在再開に向けての工事が進められているという。
世界が原子力発電からの脱却を優先している時代に驚かされる。時代錯誤も甚だしい。
ドイツのメルケル首相は原発政策についての新政府の対応を迫られていたが就任後、これまで通り原発からの脱却の方針を堅持することを表明した。

 液体ナトリウムは水に触れると爆発的に反応するので高速増殖炉を手がけた世界各国でもナトリウム漏れ火災事故が問題になった。
一般の原発では低速中性子を使用するのだが高速増殖炉では制御が難しい高速中性子を使うので
燃料溶融や暴走しやすいのだ。
高速増殖炉を稼働すると原爆の材料になる核兵器に適した超高純度のプルトニウムが大量に生成されるので
日本も核兵器を保有したいという勢力が推進していると陰で噂されてきた。
はたしてこのまま工事をつづけて再開することになるのだろうか。

 わたしは首の骨を折って回復期にリハビリ施設に移ったとき、毎日顔を合わせる老人がいた。
一見威厳があって怖そうで近寄りたがったが毎日毎日黙々と苦しいリハビリに取り組む姿勢に感心して声をかけた。
するとその方は長年電力会社の中枢で働いておられたという。
わたしはおそるおそる原子力発電について訊いてみた。すると「早く代替エネルギーに切り替えなければいけないのですがね」とおっしゃった。
意外だった。電力会社の人は原子力発電推進派と勝手に思いこんでいたのだった。
そうだったのだ。電力会社の幹部の方たちは事実をまっすぐ直視しておられるのだ。
わが国の原子力行政に問題があったのである。そんなことに初めて気が付いたのであった。
一日も早く原発を廃止してしまわないと地球が危ない。代替エネルギーがまだないという理由で絶滅しては
意味がない。温暖化防止、化石エネルギーの枯渇、様々な難問がつきつけられるがそれをクリアしてこそ未来がある。人類にはもちろんそのすべてをクリアする鍵が足元に与えられている。
その鍵に気づいた時わたしたちはもう一段階上がることができるのである。
12月8日は「もんじゅ事故記念日」として原発のことを真摯に考え核廃絶を祈りたい。
fumio



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1979年から90年まで英保守党政権を担い「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャー英元首相(80)が現在本も読めない状態であるという。「文末まで読むうちに文章の始めを忘れてしまう」ため、あまり文章を読まなくなったとのことだ。
かの女は軽い脳卒中を起こして2002年に政界を事実上引退している。
脳卒中の後遺症のようだが、
わたしはふと先日見た映画「きみに読む物語」を思い出した。

原作はニコラス・パークスのベストセラー小説「Note Book」。
老いて認知症になった妻の治療のために夫が自分たちの若き恋人時代の愛の物語を読んで聞かせ続ける。というものなのだが果たしてこの妻がサッチャー英元首相の状態であればこの物語は成立しないのでは、と思った。
記憶にはパソコンのメモリーのように短期記憶、長期記憶があってそれぞれに格納する脳の部位が異なる。
脳卒中とはどういうものかわたしの経験を「炎で書いた物語」から以下にコピーしておく。
**************************
1991年11月29日午後三時

 その日、ぼくは自宅で自作の歌を何度も録音し直してヘトヘトになった。
これだけ歌っても満足できるものが録れないのは早い話が歌が下手なのだ、
という簡単な結論にたどり着いて熱い風呂に入った。
長くつかり過ぎていたらしい。
湯あたりでボーとしてきた。風呂からあがろうとしても立ち上がれなくなっていた。
どうしたことか足が風呂桶の高さを越えない。
否応なく腿上げ運動を果てしなく続ける羽目に陥った。
このとき、ぼくの心臓はフル回転していたことだろう。
まわりのありとあらゆるものにすがりつきもがいた。
それまで蟻地獄に堕ちた蟻の気持ちを察してやるほどの
やさしさはもちあわせてなかったが、
今は少しは察してやることができそうだ。
頭がのぼせて足で風呂桶をまたぐのはもう無理になっていた。
そのまま洗い場に倒れ込んで脱出した。

「鳥人ブブカでさえ予選のバーが越えられない日もあるのだ」
尺取虫のように壁際まで進んで湯気の中でのびていた。
そのとき、息子が学校から帰ってきて風呂場に倒れているぼくを見つけた。
ぼくは頭が痛いと訴えたという。痛かったかどうか、はっきりしない。
ソファベッドに横たえられてそのまま寝入った。

 翌朝、妻と息子はいつも朝早く起きるぼくがいつまでも寝たままなので不審に思った。
ぼくの顔を覗き込むと白眼をむいている。
息子はぼくが冗談でやっているのか、と怪しんだという。
普段、そのくらいのことはしかねないと思われている。
それはこんなとき、まずい。

 それでも、尿失禁に気づいたとき、
いくらなんでもそこまでは冗談をしないと思ったことだろう。
妻が住所を教えて受話器を置く前に救急車のサイレンが聞こえた、という。
救急車の中で妻はなるべく費用の掛からない病院を探してくれ、と頼んだ。
救急隊員はそんな余裕はない、脈が弱まってとぎれかかっている、とあせって応えた。
それで運び込まれた最寄りの病院が東川口病院であった。

 医師が頭を開くと血液が脳全体にまわっていた。
脳内出血だった。妻はその血の量に愕然とした。
出血後、二三時間置いておいても危ないのに一晩寝ていたので広範囲に血がまわってしまったらしい。
息子は子供だということでぼくの脳を見せてもらえなかったことを悔しがっていた。
人の脳の内部を眼にする機会というのはそうはないだろう。
別にそんなもの見たところでどうということはないと思うが
かれの無念さがある程度理解できなくもない。

 脳の手術中、息子は妻に不安そうに尋ねた。
「お父さん、レナードみたいになるの?」
レナードとは、少し前に観た映画「レナードの朝」の主人公のことだった。
ロバート・デニーロが脳の機能がうまくはたらかない人を好演していたので
息子にはその姿が衝撃的に焼き付いていた。
妻は答えに困った。ふたりで不安を抱えて手術の終わるのを待った。
手術後の回復期、ぼくは大暴れして人々に迷惑をかけたという。
点滴に鎮静剤を入れられておとなしくさせられた。
幸い都合の悪いことはなにも憶えていない。
「退院したら、ぼくは崇凰(すうおう)という名前で龍神として勞(はたら)く」
と見舞いに来た妻に宣言したことは憶えている。
妻は、とりたてて驚くでもなく、ああそう、とあっさり受け流した。
それだけでしまいだった。それで充分だった。
結局、退院後もそんな名前は使用したことがないのだから…。
一時の気の迷いだったのか。

 脳の中身が治るまでの間、右脚の太腿に貯蔵のために埋めてあった頭の骨を
元の切り取った箇所に填(は)め込む手術はクリスマスの日に行われた。
切り取られた骨は冷蔵庫などに保存するより自分の体にしまっておく方が腐敗などしにくいので
太腿に埋めて保存してあったのだ。
将来いつの時代にかぼくの頭蓋骨が土から掘り出されるようなことがあれば
この時代にもこれだけの脳手術をするだけの技術があったとの見本にされるだろう。
それとも、やはり二十世紀にはこんな野蛮な方法で頭の骨を切っていたと思われるか。
 今でもあの時、麻酔が効くまでの間に見つめた無影灯が眼に浮かぶ。
この世で最後に見る灯かりかも知れないとなんとはなしに不安を感じたのだ。
時折、今もあのまま目覚めていないのではないか、とフト思う。

こうして、ぼくは頚椎損傷の後遺症に加えて脳卒中の後遺症も抱えて
その後の人生を生きることになった。
なんのこっちゃ、
これではとうてい、めでたしめでたし、とは言えないようだ。
*********************
以上、これがわたしの場合の体験なのだが
記憶がどうなったかといえば毎日使用していた音楽コンピューターに音符をどのように打ち込めばいいのか忘れた。そして部屋の蛍光灯が暗く感じて妻に全部取り替えて貰った。世界全体が暗く感じたようである。
明暗を感じる部分がおかしくなったらしかった。
少しずつ少しずつ進む毎日を積み重ねて現在は、ショートメモリーもロングメモリーも回復してこうして文章を書いている。
脳は損傷して一時的に使用不能に陥っても欠けた部分を他の部分が補ってくれるようだ。
どんなときもあきらめずになにかをやりつづけていればいつかは報われる。
「きみに読む物語」の夫のだれも回復しないと思う認知症の妻に物語を読んで聞かせ続ける行為はそのことを示していた。他人から見て虚しい努力も実は計り知れない希望への扉なのだ。
fumio



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「宇宙戦争」(The War of the Worlds)といえば幼い頃に読んだH.G.ウェルズ(Herbert George Wells)の本と往年の白黒映画を思い出す。「透明人間」( Invisible Man)とか「タイムマシン」(The Time Machine)とか胸をときめかせながら読んだものだった。
あの頃はとても読めなかった英文原作から興味を惹かれた初めの部分をふりかえってみよう。
それがこの作品の通奏低音のように響いて作者の創作意図であったように感じるのだ。
こんな書き出しである。
The War of the Worlds
by H. G. Wells [1898]
But who shall dwell in these worlds if they be inhabited? . . . Are we or they Lords of the World? . . . And how are all things made for man?-- KEPLER (quoted in The Anatomy of Melancholy)
( 意訳)
「しかしながら、だれがこの世界に生きながらえるのだろうか、もしかれらが住むとしたら?
世界の主はわれわれかさもなくばかれらなのか?
そしていかにしてすべてのものが人類のために作られたというのか?」

 英国国教会の聖職者ロバート・バートン(Robert Burton)の1621年出版の書籍 The Anatomy of Melancholy(憂鬱の研究)からケプラーが引用したこの意味深長なフレーズから小説は始まる。
このフレーズは人々の空想を刺激するので
バート・ゴードン(Bert I. Gordon)監督の巨大ネズミが人を襲うB級映画「The Food of the Gods」(神の食物)にも使用された。

そして小説は以下のように続く。
BOOK ONE (書一)
THE COMING OF THE MARTIANS (火星人襲来)
CHAPTER ONE (第一章)
THE EVE OF THE WAR (開戦前夜)
No one would have believed in the last years of the nineteenth century that this world was being watched keenly and closely by intelligences greater than man's and yet as mortal as his own; that as men busied themselves about their various concerns they were scrutinised and studied, perhaps almost as narrowly as a man with a microscope might scrutinise the transient creatures that swarm and multiply in a drop of water.
(意訳)
「だれも19世紀の最後の年々に世界が人類より高等な知性体によって熱心に厳密に見つめられていたとは信じなかっただろう。人が顕微鏡で一滴の水の中て群をなし増殖した微生物を仔細に観察するように人々は自身が滅ぶべき運命にあるというのに(異星人によって)綿密に調べ研究された、さまざまな関心事にいそがしくしていた」
  映画の導入部はこの描写に忠実に顕微鏡で観察する微生物の拡大シーンが使用されていたのだった。
あとのストーリーはさまざまなシチュエーションで主人公たちが異星人と戦い逃げ延びるというパニックものの典型なのだがわたしにはこの英文で引用した部分が最も重要だった。

 ウェルズには特別な勘があった。
かれが小説「開放された世界」(TheWorld Set Free)でラジウムの崩壊加速による核反応が新型爆弾になると書いたことから1942年12月2日マンハッタン計画の中心物理学者レオ・シラードLeo Szilardとエンリコ・フエルミはシカゴ大で最初の制御された連鎖反応炉を作り原爆を開発したのであった。
「事実は小説より奇なり」というがウェルズの小説は時代を先走りリードするものであった。

 こんなこと」をいうとトンデモということにされるが一部の人の間ではもう常識だから書いておく。
「宇宙戦争」に描かれた異星人も実際には「デ・ゼビアス・デニアス・アイ」別名「クリル」(リトル・グレイ)のことである。映画の中では百万年前から地球に来てマシーンを埋めて時を待っていたことになっているが
クリルは3億年前から地球に目をつけ観察を続けていた。そして約一万年前から実際的に干渉をしてきた。
そのこと」をウェルズは知っていたのか、感じていたのか。
アメリカ政府の要人はもちろんそのことを知っているがけっして明かさないので言えばトンデモ情報ということで嗤われるような仕組みができあがっている。
スピルバーグ監督は「未知との遭遇」でも「ET」でも「宇宙戦争」でもスレスレの話しをエンターティメントに仕立て上げているのである。
人類がかれらから自立するときそのことは明らかになる。
fumio


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 今日は、ジョン・レノンの命日。胸がつまる。
 1980年12月、あの朝、八十歳を過ぎた大家さんが
「ジョン・レノンが殺されましたで」といって新聞(ロス・アンジェルス・タイムス)を見せてくれた。
呆然として記事を何度も読み直した。何度読んでも意味がつかめない。
全世界の人が呆然というときを持ったことだろう。
犯人、マーク・チャップマンは犯行前、アパートでヨハネの福音書一章、
「神は言なり」のページを開いてレノンを讃える儀式をしていたという。
犯行後、現場に残ってサリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」に読みふけっていたという。
 チャップマンは The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)の主人公と自分を重ね合わせていた。
その主人公は「夕空晴れて」と始まるスコットランド民謡「故郷の空」(Comin' thro' the Rye)が好きでライ麦畑で遊ぶ子供達を見守り、もしだれかが崖から落ちそうになれば救う者になりたがっていた。
ところがかれの実際にとった行動ははジョンを射殺することだった。
 
 「ダブルファンタジィ」アルバムにサインをしてやったあと、どうして射殺されなければならなかったのか。
ジョン・レノンはまさにヨハネ・霊音(レノン)だった。かれこそが子供達を救う者であり
マークには救う者としての資格が欠けていた。だれにも分というものがある。
わたしにはチャップマンがジョンからその資格を奪い取ろうとしたのだと思えるのだ。

 レノンは「平和をわれらに」と非暴力、無抵抗の戦いをベッド・インで訴え、
「イマジン」と世界がひとつになる日を夢見させた。
わたしが首の骨を折って入院したとき、家族は「イマジン」のLPを聴き直して涙した。
肉体は去ってもかれの魂は今もわれわれの心に生き続け、力を与えてくれる。
人類がつづくかぎり…。Thanks John!
fumio



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BSニュースで静岡市立安東中学1年の大石悠太君が静岡市議会の市民委員会で
「路上や公園などでの喫煙を禁止する条例を制定してほしい」と訴えてこの請願を全員一致で採択した、というニュースが流れた。それでネットを検索すると以下のような記事にぶつかった。
********************************
(2005.12.6)  歩きたばこ禁止条例 中学生が議会で請願を説明 静岡新聞 SBS 動画ニュース 12月6日
路上や公園などでの喫煙を禁止する条例を制定してほしいと訴えている中学
   生が6日、静岡市議会の市民委員会で請願について説明しました。歩きたば
こ禁止条例」の制定を請願しているのは静岡市立安東中学1年の大石悠太君
   (12)です。

大石君はぜんそくの持病があり、信号待ちの時、たばこを吸われると息をとめているという普段の生活や、これまで進めて来たたばこの害の研究、署名の成果を織り込みながら、受動喫煙や歩きたばこの火が危険なことなどを訴えました。委員の間では罰則を盛り込むかで意見が分かれましたが、大石君の熱意には全員が賞賛の声を送り、請願を全員一致で採択しました。
    請願は15日の市議会本会議でも検討されます。

   SBS静岡放送

   ***********************************************
 
 父母が「専売局」(JTの前々身)で職場結婚して生まれたのがわたしなので
タバコについてはあまり偉そうなことはいえないのだが最近タバコはよく問題になるので採り上げよう。

わが川口市でもことし五月に「路上喫煙の防止等の条例」を施行し、
川口駅周辺では東西の駅前交通広場約一万   五千平方メートル、
ペデストリアンデッキ全部の延長約三百八十メートル、川口西公園の一部、
周辺道路延長約千二百十メートル。西川口駅周辺では東西駅前交通広場約四千百平方メートル、周辺道路延長約八百メートルを「路上喫煙禁止地区」に指定して
十二月一日から本格的に実施された。

 わたしは以前、大宮ソニックシティという全館禁煙ビルで働く人が
受動喫煙で苦しんでいたり、妊娠中の婦人が店から逃げて帰った、
という話しを聞いて電話したりメールしたりして全館禁煙の徹底を訴えた。

しかし、「公共貸出施設につきましては「禁煙」とさせていただいておりますが、
ビル内のショップを含む各テナントの対応につきましては、特段の定めがございません。」
とのことで終わりだった。

 タバコの問題は以前は喫煙者非喫煙者の対立という構図だったが
今では加害者と被害者という図式で考えねばならない時代に入った。
自分の愉(たの)しみのために被害者が出るようではいけない。
 もう、アメリカ先住民の宗教儀式に使用されたようなものに縛られなくてもいいのではないか。
それが良い物なら伝統として残せばいいが世界中が人類に悪影響を及ぼすと認めているものは止めてしまうべきでニコチンごときに囚われている時ではないはずだ。
人類はいよいよ自立を果たすのだから。
わたしはタバコのおかげで生まれたようなものだけどそれとこれとは別、悪い物は悪いとこの機会に言い切ってしまおう。
fumio


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 「ブログ普及委員会」なるものが発足した。
ブログの女王、眞鍋かをり氏を委員長としてニフティが立ち上げた企画。
後援のニフティは、11月24日より、ブログの新サービス「ココログフリー」を提供している。
ニフティといえば先日から運営する「ココログ」の異常な重さに批判が集中していた。
世間はその対応に注目していた。
ニフティのその件に対する説明を以下に引用する。
*********************
ココログに対するお叱りの声について

ココログのサービスに対して皆さんのお叱りをトラックバックで頂いています。

お叱りを頂いている第一の点は、既存のココログベーシック、プラス、プロの性能問題についてです。
特に夜間のピーク時間帯での投稿時、レスポンスが大幅に悪くなり皆様にご迷惑をおかけしています。
この主な原因は大量のスパムトラックバックによるもので、いろいろな対応策を試みていますが、まだ十分な効果は出てきていません。

ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。
性能改善策、スパムトラックバック対策に全力を挙げておりますので、今しばらく時間がかかることをお許し下さい。

第二の点は、新しく始めたココログフリーの方が、既存のココログベーシックより多機能な点についてです。

まず、ココログフリーのビジネスモデルをみなさんに十分説明できていないことを反省しています。
ココログフリーの運用費用は、利用者の方々のココログに自動的に表示させていただく広告による収入でまかなわれます。従って、ココログフリーでは利用者の方々の意志とは関係のない広告が自動的に表示され、利用者側では削除できないというデメリットがあります。

既存のココログで、性能対策、スパム対策に追われてバージョンアップの計画が遅れているなか、ココログフリーだけ先行して新しいバージョンで提供いたしました。
その結果、今までココログをご利用いただいている方々に大変ご不快な思いをさせてしまいました。

既存のお客様への配慮が欠けていたことを反省しています。申し訳ありません。


以上2点、ニフティとしての対策と思慮が不十分であったことを、遅ればせながら、深くお詫び申し上げます。
早急に対策を立て実施してまいります。しばらくお時間を頂くことをお許しください。
*************************************


 そして111月30日にはニフティの古河建純社長が、ブログサービス「ココログ」のレスポンスや機能に関して、自身のココログで状況を説明、謝罪した。以下に引用する。

***********************
ココログの性能問題への対応状況

ココログでご迷惑をおかけしております。

ココログの性能問題については引き続き対策を検討しております。考えられる対策を順次行なっておりますが、残念ながらまだ有効な実施策を打てておりません。

現在、スパムのブラックリスト生成、サーバ増設、トラックバック処理の性能改善、等を行なっています。

また、今回の性能問題が、ココログフリー開始によるものではないかというご指摘がありますが、既存のココログとココログフリーは別システムで提供しているので、性能面で相互に影響を及ぼすことはありません。

多くの方々にご迷惑をおかけしており申し訳ありません。

全力で対策に取り組んでおります。
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多機能の「ココログフリー」だけ先行して新しいバージョンで提供し今までの「ココログ」のレスポンスの悪さの対策の遅れに対しての抗議から大騒ぎに発展してしまったらしい。

 今やスパムは抗議の武器のひとつとなってきた。会社を動かすことができたのだ。
大量のスパム攻撃に対しての対策は困難である。
これはどこのブログサービスでも同じで有名人のサイトは常に攻撃の対象になっている。
昔はファンレターを書くことぐらいでしか接触できなかったのが今ではパソコンでもケータイでも容易につながり意見を聞いてもらえる。無視されるのが当たり前だったファンレターの時代から普通の人が、アクセスする不特定多数の読者を勝ち得ることができる時代に変わった。スパムであってもなんらかの影響を与えることができる。これは大きなことだ。

 真鍋かをり氏といえば11月24日に
コンピュータ・アソシエイツ(CA、三ッ森隆司社長)が真鍋かをりを「スパイウェア撲滅隊隊長」に任命して
「スパイウェア撲滅キャンペーン」が開始している。

 だれもがかの女を現代のジャンヌ・ダルクとして前面に押し立てて戦いに臨もうとしているようだ。
これもまた女性枢軸の時代のひとつの形なのか。
fumio




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2003/02/25 1:18のタイムスタンプで宮下富実夫からメールがあった。
ところがそれは英語で記載されていた。
それは本人からではなく宮下の妻、リンダが夫の死を告げるものであった。
わたしは呆然としてなにかの冗談かと思いネットのニュースを検索してその事実を確認した。
すると宮下富実夫は平成15年2月6日(木)午前2時26分に肺ガンで亡くなっていた。
かの女は夫が亡くなってしばらく日が経って気が落ちついてからメールをくれたようであった。
わたしは気を取り直してすぐにかの女に電話して故人の冥福を祈った。

 宮下のホームページのプロフィールには以下のように記載されている。
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1949年、長野県生まれ。
音楽家。ミュージックセラピスト。
1965年より音楽活動を開始。全世界同時公演ミュージカル「ヘアー」に出演した後、
プログレッシブロックグループ「ファーイーストファミリーバンド」を主宰。
欧米ツアー、アルバムの世界発売など積極的に活動する。1977年アメリカへ移住し、
アメリカツアーを開始するが、そのツアー中に、自身の腰の鍼治療から東洋医学に出会う。
その後、仏教、中国の五行説、インド哲学などの東洋哲学に学び、シンセサイザーを使った
ミュージックセラピーの研究をはじめる。

1981年帰国後、信州飯綱高原に琵琶スタジオを設立。
精神と肉体の解放をテーマに現代人の心を癒すサウンド・メッセージを送り続ける。
以降、60万枚のロングセラーである「瞑想」、30万枚の「誕生」、「やすらぎ」をはじめ、
ヒーリングミュージックCD・ビデオを多数リリース。
全国各地でのヒーリング・コンサート、伊勢神宮、橿原神宮、天河大弁財天女社 などでの
奉納演奏、スポーツ選手のメンタルトレーニング、講演など、各界からの賛同を得て多彩な活動を続ける。
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 わたしは1976年にアメリカに留学していたので
77年にやってきたかれとロサンジェルスで出会ったのである。
わたしが相棒シゲ・中島とやっていたバンドでパーティなどの仕事が入ると宮下にドラムを叩いてもらった。
かれが各地のコンベションセンターなどで演奏するときにはシゲ・中島がギターを弾き、島健がキーボードでわたしがベースを担当したりした。島健は妻の島田歌穂さんとともに現在も音楽界で活躍中である。
そしてシゲ・中島とSFというプロジェクトでアルバム「プロセス」を作るとき、宮下にプロデュースを頼んだのであった。
その後しばらくしてかれはアメリカを去り奈良の天河神宮の裏にあたる長野の戸隠高原飯綱に居を定め活動を始めることにした。そのときかれはまず地主神として尊信されている九頭竜社に詣ったのだ。

 以後、ヒーリング・ミュージックの分野を開拓して生涯の仕事にした。
わたしが日本に帰国して飯綱高原のかれのスタジオを訪ねたとき、
リンダはダイダラボッチという巨人が飯綱山を作る
とき、片足を沼池に落としてできたという 伝説が残る大座法師池まで迎えに来てくれたのだった。
そこで宮下は自身の成功のきっかけは安彦良和のアニメーション「アリオン」をテーマにアルバム(徳間ジャパン)を制作したことだった言っていた。
一見、無作為に散らばっているように思えるこれらのキーワードを集めると「弁天、ダイダラボッチ、九頭竜、飯綱、アリオン、」となる。これらはすべてニギハヤヒ関連の単語なのである。
かれがfumio miyashitaでありわたしがfumio yamashitaであること、
互いの妻の名前がカタカナの「リ」で始まり不動産の売買を仕事にしていること、
宮下がわたしの誕生日2月6日に亡くなったこと、すべてが裏と表で仕組まれていたように思えるのである。
死ねば永眠したというが、別に永遠に眠るわけではない。どうしようもないと判断された魂はパソコンのゴミ箱のように削除して完全に無にされるが、有益な魂は一時休憩の後に次の仕事を与えられる。
宮下はもうなにか使命を帯びて働いているようにいつも感じるのだ。
だから「やすらかに眠れ」とは呼びかけない。
「ともにがんばろう」と励ましあいたい。
fumio
  
 

   MIND SHIP

  It has no prologue.
  So does no epilogue.
  It’s a pleasure, but an agony too.
  It’s the spirit of enterprise
  that longs to know something.
  It’s the curious mind of the lewd.
  Seems like an ordinary mind.





 心船

始まりもなく終わりもなく
喜びであるばかりか苦しみでもあり
一見、ごくありふれた好き者たちの好奇的な
なにかを知りたがる冒険精神



アルバム「プロセス」から「心船」を聴く




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11月17日に姉歯建築設計事務所(千葉県市川市)の姉歯秀次(あねは・ひでつぐ)一級建築士による構造計算書の偽造問題について国土交通省が発表してから国中が揺れている。
初めは千葉県のことで他人事(ひとごと)と思っていたらどんどん波及して全国で208件ということになってしまった。
わが川口市でも、建築主が不動産会社「ヒューザー」(東京都千代田区)の
 姉歯建築設計事務所が関与した川口市原町の分譲マンション「グランドステージ川口」(11階建て、21世帯)を指定確認検査機関「日本ERI」が建築確認をしたが11月22日には「改ざんはなかった」と報告していた。ところが12月1日、日本ERIが再計算したところ、震度6強の地震を想定した耐震強度の基準値1.0を下回る0.56だったので震度5強で倒壊の恐れがあると発表した。
埼玉の不動産業界もまともにあおりを受けてマンション売買契約のキャンセルが相次いでいる。

 この件について「報道ステーション」で取材調査中の長野智子さんがブログに
「1999年に建設された、ヒューザー&姉歯によるグランドステージ江川と、2004年に建設され、今回耐震強度が偽装されたグランドステージ東向島を、専門家と検証したのですが、まったく造りが違うんです。
グランドステージ江川は、検査機関が民間に移行する直前の物件で、川崎市がしっかり配筋検査をしたようです。」と書いたのだが、その後、
ヒューザーは「グランドステージ江川」も建築基準法上の耐力を有していない建物だということが判明したと、発表した。これでは一体何を調査したのかということになる。
それでかの女のブログは大荒れに荒れてしまった。昨日はアクセス過多でパンクしてアクセスできなかったほどだ。
ヒューザー側が以前に「江川については、川崎市が構造計算書を再調査し、偽造はなかったことが確認されている」と住民側に説明していたことを鵜呑みにしてそんな危ういところから出発した報道だったので基礎工事がまともにされていない建物は倒れることをブログで図らずも実証してしまったわけだ。

 今、世間の人々の心配はこのような行為をするのは姉歯秀次一級建築士だけなのかということである。
普通一般の人は人命を犠牲にしてまでも金のために書類を偽造することはないはずである。だれもが、かれ姉歯秀次一級建築士だけが特別であってほしいと願う。

 ところが、そうはいってもこれは今に始まったことではなくわが国は古代から偽造、偽装が当たり前だった。
日本の歴史自身が「記紀」という虚構の基礎の上に建てられた高層建築なのである。
時の権力者の都合の良いように削除改竄(かいざん)された歴史を
学者が認定して正史として「古事記」「日本書紀」と名付けてきたのであった。
 どんなことでも基礎が大切でしっかりしていないとまともなものはできない。
このままではいつの日か倒壊する。
この機会に日本の正しい歴史を見直して基礎固めをしておきたいものだ。
わたしたちのより良い歴史を創造するために
fumio



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わたしは「スター・ウォーズ」を見るたびにストーリーに集中できなくなって困ってしまう。
ヨーダが出てくると親戚の依田家の人たちを思い出してしまうのだ。
 世間で噂されているようにジェダイ・マスター、ヨーダのモデルは脚本家、依田義賢氏である。
70年代、依田の娘さんはサンフランシスコ近郊バークレーのカレッジに留学していた。
ある映画関係者にシナリオライター、Yoshikata Yodaの娘である、とうち明けると、依田のサンフランシスコでのフィルムアーカイブ講演会の企画がもち挙がった。そして開催された講演会の場にフランシス・フォード・コッポラ監督も出席した。それで友達のジョージ・ルーカスを招んだのであった。
ルーカスは依田の風貌、動作、耳の形や話しぶり、機知に富んだ表現に感銘を受けた。それがあのヨーダの立ち居振る舞い、言動に結晶したのだ。

 その依田義賢(よだ よしかた)の経歴は
1909年4月14日/京都市生まれ平成3年(1991)11月14日に永眠。
京都市立第二商を27年に卒業後家の事情で銀行へ勤めるが左翼運動に傾倒し、退社。文芸の道に進むことを決心し、30年日活入社。31年処女作「競馬と女房」を書く。36年「浪華悲歌」以来溝口健二監督とコンビを組み、「残菊物語」、「元禄忠臣蔵」などを書く。戦後は「女優須磨子の恋」、「雨月物語」、「近松物語」「悪名シリーズ」などなど。海外のサイトを検索すると膨大な作品群とその好評価に出会う。
 日本では忘れられていても海外で、より有名な人なのである。
大阪芸術大学映像学科の名物教授として活躍していたこともあって
依田の薫陶を受けた生徒達はヨーダの出演場面を眼にするとかつての授業が甦るだろう。
わたしは平成十四年8月19日に京都の依田家の菩提寺に行って母の妹が入った依田家の墓にお参りした。

 ルーカス監督は世界中のあらゆる神話伝説を元にして壮大なストーリーを作り上げたというが
 C3POとR2D2は「隠し砦の三悪人」の千秋実と藤原鎌足だしダース・ベーダーは三船敏郎だし、
ルーク・スカイウォーカーは同じ黒澤監督の「姿三四郎」の三四郎でヨーダは矢野師範であるという説が海外のウェブサイトでも定説になっている。
 黒澤監督はジョン・フォード監督の影響を受け、コッポラやルーカス監督は黒澤や依田の影響を受け、
手塚治虫はウォルト・ディズニーに影響され、世界のアニメ界は手塚に影響されと芸術界は常に回転している。
fumio


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2005年11月30日
 将棋第18期竜王戦七番勝負(読売新聞社主催)第4局で渡辺明竜王(21)が挑戦者木村一基七段32)を101手で破り四連勝で、竜王位を初防衛した。
渡辺明竜王は11月17日付けで八段に昇段したところだったが竜王位2期獲得により、九段昇段も決まった。
まだ21歳7カ月という。これは谷川浩司九段の21歳11カ月を抜く最年少記録である。
このニュースが新聞テレビ、インターネットで大きく報道された。
渡辺明竜王の経歴は
1993年小学三年の時小学生名人戦でベスト8、
 翌年、優勝して、その年の秋、奨励会を受験。
1994年 6級、 1997年、初段、そして2000年中学3年生で四段に昇り
「中学生プロ棋士誕生」と話題を呼んだ。
 神武以来の天才と騒がれた加藤一二三、谷川浩司、羽生善治に続く史上四人目。
それぞれ後に名人位を獲得している。早熟の天才たちの系譜を継ぐ者である。
2003年、羽生善治王座に挑戦し、2勝3敗で惜敗したとき
最期の手を指す羽生王座の手がふるえたのが人々の記憶に印象的に残っている。
そして翌2004年、森内俊之竜王より4勝3敗で竜王位奪取。今年の初防衛へとつながる。
昇段履歴をみると
1994年 6級
1997年 初段
2000年4月1日 四段
2003年4月1日 五段
2004年10月1日 六段
2005年10月1日 七段
2005年11月17日 八段
2005年11月30日 九段
となっている。
プロ棋士となって一、二年勝てない時期があったが近年の充実ぶりは眼を見瞠らせる。
今年は、第13回銀河戦 そして第36回新人王戦 に優勝している。
将棋が強いばかりではなく毎日ブログを更新するなど現代将棋界の旗手の役割を担っている。
シリーズ中にBS囲碁将棋ジャーナルで竜王戦第一局の自戦解説をするなどこれまでの常識にとらわれない姿勢がファンを喜ばせた。
 この間、プロ入りを決めて話題をさらった瀬川晶司氏は年齢制限の壁を一旦ずり落ちてよじ登り遅れてきたスターだった。
渡辺竜王はその対極にあって階段を使わずにエレベーターで各階を通過して昇った。
一般のファンはそのどちらにもドラマを感じて応援する。
囲碁将棋界の話題が一般のニュースに採り上げられることは珍しいことなのだから今年この二人が投げた波紋は大きい。
 将棋連盟会長米長邦雄氏は名人位をとる前に月読命を信奉して全国各地を巡り、
鑑真和上で知られる唐招提寺に詣でた。
その講堂中央須弥壇の弥勒如来座像の光背に鳥が彫られていた。
米長氏は鑑真和上の像の前で瞑想中にその鳥迦陵頻伽(かりょうびんが)の鳴き声を聴いたという。
小学館、大辞泉によれば 迦陵頻伽は梵語のkalavinkaの音写であり、
雅楽の舞曲では迦陵頻(かりょうびん)と略されている。
雪山あるいは極楽浄土にいるという想像上の鳥で聞いて飽きることのない美声によって法を説くとされる。
火の鳥のモデルのようでもある。
会長就任後の米長会長の耳に将棋界の改革再生の法を囁いたのだろうか。
伝統社会の中にも新たな潮流が生まれようとしている。
fumio



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 今日12月1日は映画の日だそうだ。
1980年に公開された劇場用アニメ映画
「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」
総監督手塚治虫 監督杉山卓
という作品をご存知だろうか。
わたしはこの映画をUCLAの講堂で鑑賞した。
その日、手塚治虫氏がUCLAを訪れて上映後シンポジウムが開催されたのであった。
集まった米国のファンが手塚氏とこの作品に限らず楽しくアニメの話しをした。
わたしはこの作品の前に1978年公開の
市川崑監督の実写映画「火の鳥 黎明編」を見ていたのでこのふたつの作品のコンセプトの違いを尋ねた。
すると、手塚氏は市川崑作品には自分は関わっていない。一緒に論じないでほしい、と語気を強められた。
アニメではある程度自分の意図に忠実に描けても実写版では原作者ではあっても思いは表現されなかったようだ。
 見たことがない方にはネタバレになるが失礼して
あらすじを紹介しておくと
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 その頃、地球は断末魔の状態にあった。
エネルギー不足を補うために人工的に火山爆発を起こさせ地熱発電していた政治センターのロック・クロック長官は、不老不死の血液をもっている未確認宇宙物体ナンバー2772の宇宙鳥を手に入れようとして、
育児ロボット、オルガに試験管ベビーとして育てられた、ゴドーに宇宙鳥の生け捕りを命じる。
 ゴドーは政府に批判的な学者サルタと意気投合してオルガとともに伝説の鳥を求めて飛び立つ。
そして三人は、宇宙鳥を発見するのだがサルタは宇宙鳥の火に焼かれて死に、オルガもロボットの機能を失う。
 ゴドーが炎の中でオルガの修理をしていると、宇宙鳥の声が、宇宙も地球も生きていることを教える。
地球の再生を図ってゴドーとオルガが地球に帰ったとき、
宇宙鳥を渡せとロックはゴドーに迫るが地球は大爆発を繰り返し
ゴドーとロックは死んでいった。
 オルガがゴドーの亡骸を砂浜に横たえ、傍に寝ころぶと
やがて、オルガの身体は光の玉となり、翼がはえて、空高く舞い上がる。
そして時を経て、ゴドーは赤ん坊になり、オルガは人間になる。
再生した地球で親子として新たなスタートを切ることを暗示して終わる。
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以上、火の鳥のモデルは南米に実在するキヌバネドリ目キヌバネドリ科の鳥ケツァールとされるが
伝説上の鳳凰、火焔鳥、フェニックスらの特性を併せ持ち100年に一度自らを火で焼いて再生するという生命の根源の象徴的存在である。時、所、を変えて様々なシチュエーションで命の意味を問う。繰り返し登場する人物の名前サルタは、韓国語で「生きる」の意味がある。

 わたしにはこの作品「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」の内容が今の時代と重なってみえるのだ。
試験管ベビーも育児ロボットも夢ではなくなった。地球環境がいよいよ危機的状況に陥ってきた。
地球も人類も再生を図り新たなスタートを切るときがきたようである。
fumio








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