monologue
夜明けに向けて
 



































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このところ、愛し疲れてという曲に英語圏からのアクセスが多いので妻に聴かせると歌がずれている。リズムが合っていないから気持ち悪い。こんな歌はネットにあげるべきではないという。8分の6のリズムは慣れていないと合ってないように聞こえるのかも。だからといって削除するわけにはいかない。英語圏の人々は英語も入っていないのにフィーリングで聴くのだから置いておかないと…。
fumio

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(14)今の若い子たちは可哀想だ、彼らは『ゼンガクレン』も知らない。彼らは『ヒッピー』も『サイケ』も知らない。彼らはだから社会的なムーブメントが欲しい。それで『反原発』集会に何かを求めて集まる。『反原発』に異論は無い、あれも私達の別グループのムーブメントだからね。でも、反対しているだけで終わってしまわない様にしなくては彼らのムーブメントは私達のムーブメントの下地を作るためのものなんだからせっかくの下地を無駄にしないようにしなくてはね。これで理解して貰えたと思うけれど私達の動きは多岐に亙っていてそれらの総てが地球存続の為の動きだ。
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宇宙神霊ARIONがARION語録9で別グループのムーブメントとここで述べている原発反対運動には以下のよう形でわたしが関わっていた。
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 1988年9月14日午後9時過ぎ、窓からJRを臨む渋谷の稽古場でのことだった。
その瞬間、目の前にあるはずの床が見えなくなった。おそらくまわりにいたすべての人々も一時的に視覚を失っていたことだろう。
その劇は原発問題を扱った作品で演出家は、原発ジプシーと呼ばれる者たちに核シェルターを設計した博士が投げ捨てられる、というフィナーレの場面を構想して稽古によって煮詰めていた。
博士役のわたしを若者たちは何度も胴上げから放り投げた。そのたびにわたしは回転受け身をして立ち上がった。演出家はもっと幕切れにふさわしい、観客の網膜に残像が焼き付く方法を思いついて試した。わたしが空中に舞っている頂点で、稽古場の電灯を消すように指示したのである。猫なら突然、光を消してもうまく着地するかも知れない。闇になった途端、さっきまでのまわりの景色が消え空中での位置感覚が失せた。猫が空中で体を立て直すようにはゆかなかった。 額が床にぶつかった。勢いよく落下した全体重を受けて平気なほど首の骨は強靭ではないらしい。灯かりをつけた人々が目にしたものは倒れたまま動かないわたしの姿だった。
そのとき、わたしはだれもがこの世で様々な形で受ける試練のひとつを体験していた。抱き起こされたとき気絶していなかったらしく受け答えはできたが首から下が動かなかった。 救急車で運ばれた北品川第三病院のICUで長時間に及ぶ手術が始まった。医師はむづかしいけれどこれまでやったことのない方法を試すということだった。リスクが大きい方法をとったことをのちに他の医師が非難したが結果的にはその新手法を使用したことが良かった。
もし治っても一生寝たきりか良くても車椅子の生活ということだった。しかし、そのことを自分の将来像として現実感を伴って考えることはできなかった。手術後、麻酔が醒めて、まだ手足が動かないことを再確認した。のちに医師に聞いたところでは手術中に息を引き取らなかったのは腹式呼吸で鍛えていたからだそうだ。なるほどそんなものかと思った。なにが幸いするかわからない。
妻にとってもそれは辛い試練の始まりだった。報せを受けて倒れようとする妻を小学4年生の息子が支えて「お母さん、しっかりして」と励ました。それで妻はハッとわれにかえった。それから妻はアメリカ時代と見違えるほど強くなった。現在も日々の試練に耐えて生長を続けている。
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この頃、わたしはこの博士の役作りのために原子力に関するあらゆる本を図書館で借りて読みまくった。絶滅を回避するためには基礎知識がないと危ない。
fumio
  

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当時、東川口病院にはまだリハビリテーション科というセクションがなかったので脳内出血の治療後リハビリもせずフラフラしながら妻の運転で帰宅した。その頃、わたしは書院というワードプロセッサーにモデムをつけてその頃流行していたワープロ通信を始めていた。ニフテイのコミュニテイで文学フォーラムに入ってみたりしたがさっぱり面白くなくて他のフォーラムを探しているうちに世紀末という言葉に惹かれてFARIONAに入った。そのFARION(世紀末フォーラム)というフォーラムには宇宙神霊ARIONが待っていて次のようなハローメッセージというメッセージを毎日発していた。
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 92年05/01 ★世紀末フォーラム★へようこそ NAMEさん(*^^*)
93年08/02 龍神は目覚め水の変化を知り、麒麟は風の声に訪れを聞いた…
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手術後、見舞いに来た妻の記憶によると、わたしは病院で暴れて龍神、崇凰(すうおう)として勞(はたら)く、と宣言したというがこのハローメッセージはわたしに向けてのものだったらしいのであった。
わたしはそのフォーラムで『炎で書いた物語』というシリーズを連載することにしたのだが自分にそのような文章を綴る能力があるのか、なにか不安だった。それで近くの弁天様に百日詣りをすることにした。八月の暑い日から11月11日の満願達成の日まで毎朝6時にお参りした。その百日詣りをし終えた日「炎で書いた物語」のシリーズの番外編をSというハンドルネームでアップしたのだった。そういうことで『炎で書いた物語』は1995年の11月11日に以下の『炎で書いた物語』番外編から始まったのである。
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『炎で書いた物語』番外編


  わらべうたには意味がわかるようでわからないものがある。
別に気にも留めずに歌い遊んで大きくなって、いざ自分が子どもに教える立場になったとき、その意味を訊ねられても説明できないことにはじめて気がついて驚くことになる。
その代表が「かごめかごめ」と「とおりゃんせ」である。
このふたつのわらべ唄には時の封印がしてあった。
そのために、だれもが知っている唄でありながら説明を求められると、だれもが首をひねる、ということになった。
 
 わたしは以前、「かごめかごめ」は豊臣家再興の軍用金のありかをわらべ唄の暗号にして残してあって、それを解いた者が天下を取る、という伝説を聞いたことがある。
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かごめ、かごめ、かごの中の鳥はいついつ出やる
夜明けの晩にツルとカメがすべ った
うしろの正面だあれ
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 幼い頃の記憶の中に埋没していた、この一見、簡単そうで不可解な歌詞に秘められたロマンに心惹かれて様々な暗号解読の方法を鍵に使ってトライした。
だがどこにもピッタリの鍵はなかった。
「蔓と瓶が滑った」というのは、大阪城の篭の目のような形の井戸の底に鳥(財宝)を蔓と瓶で沈めたのだ、と考えたりした。それは残念ながらあまりにも的外れな解釈だった。
出発点から外れていては目的地にたどり着くわけがない。
どうどうめぐりをくりかえし、ついにはあきらめて、
いつしかそんなことに興味をもったことさえも忘れてしまった。
そして時は流れ、二十世紀も終ろうとする現在、様々な書籍やメディアで、かごめ唄の謎の解明が進むのを目にする時代に入った。時の封印がついに解けたのだ。
しかし、わたしはまだ「と おりゃんせ 」の解読にはお目にかかったことがない。
こちらはまだ封印が解けていないのだろうか。
そんなことをあれこれ考えているうちに、ワープロの画面を見疲れた目が痛くなってきたのでしばらく瞼を閉じた。すると朝が早かったせいか、うとうとしてきた。
そのとき、丸い日の輪のようなまぶしい光が瞼の裏にまで射し込んで眠気が失せてしまった。天気が良いので散歩に出ることにした。いつものコースより一足伸ばすと、お地蔵様の堂のような小さな祠があった。お辞儀し て、覗き込むと中に石が安置してある。よく見ると表面に弁財天と彫ってあった。
「あれっ弁天さんだったんですか。お地蔵様かと思いました。これは失礼しました。
ところで弁天さんは何の神様なんですか」と訊ねた。
「智恵を授けています。英語でいえば インスピレーションという形で与えます。
発明、発見、学問、芸術を司っています 」
「そうだったんですか。すみませんがわたしにも智恵をお分け下さい。今ちょっと財布を持ってきてないんで、お賽銭は払えないんですが」
奉納と書かれた賽銭箱に気づいてわたしは空のポケットを叩いた。

「わたしは自動販売機で はありません。小銭で智恵のパックが転がり出るわけではないのです。必要な人に必要な時、必要なだけ授けるのです」

 わたしは自分がどんな智恵を必要としているのか、すぐにはわからなかった。
「世界が動ような偉大なインスピレーションをいただけませんか」
とあつかましく頼んでみた。こんな機会はもう二度と来ない 、と思ったのだ。
「それはあなたの分ではありません。あなたには荷が重すぎます。分不相応です。あなたに今、必要なのは、(通りゃんせ)の謎解きでしょう」
「ああ、そうでした」
わたしはその用事でここに来たのだ、と思った。
すると 、辺りの小鳥の声が消えて車の騒音も途絶えた。
どこからか歌声が聞こえる。
それは鼓膜がふるえて聞こえる音ではなかった。
わたしの内側から聴こえてくるのだ。魂が共鳴している。
幼い頃、耳にした「通りゃんせ」とはまるでちがう澄んだ響きだった。
わたしは頭を垂れてうっとりと立ち尽くしていた 。
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とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの 細道 じ ゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
ご用のないもの通しゃせぬ
この子 の七つ のお祝いに
お札をおさめにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ通りゃんせ
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 弁天様がその歌声の裏でゆったりと語り始めた。
「この唄はあなたがたが実在界から現象界(この世)へ降りる際に開かれるセレモニーの唄なのです。みんな生まれる前にこの唄を聴いているのです。
まず、そのことを頭に置いてください。
そこから出発して考えれば、個々のことばの意味が自ずからほどけてきます」
と、弁天様は前置きした。わたしには実在界と現象界ということばの使い方がよくわからなかった。弁天様の口ぶりでは、弁天様がいるのが実在界で、わたしたち人間がいるのが現象界ということになる。
わたしたちたちは元々、弁天様と同じ世界に暮らしていてそこからこちらにやってきた、ということらしいのだ。その時、開かれる儀式の唄が(と おりゃんせ)である、という。
 わたしが一応、理解を示した様子を見届けて弁天様は続けた。
「かごめ唄もそうですがこの唄もほとんどの語が二重三重の意味をもっていて複雑にからみあっています。
(とおりゃんせ)------  表面上の意味は(お通りなさい)ですが陰意は(十理あんせ)です。
十理とは十の理、 十は神を示す印、縦の棒をカと発し、横棒がミ、カミの理(ことわり)ということです。かごめ唄の(かごの中の鳥)、鳥(トリ)すなわち、十理も同じことです。
(十理あんせ)とは神の理がありますように、という祈言(のりごと)、すなわち祈りのことばです。(十降りやんせ、十居りやんせ)と書けば見えてくる、(神様、降り てくだ さい、居てください)、という祈言でもあります。
意味を知らない子どもたちでも「とおりゃんせ」をくりかえして歌えば、
その音霊(おとだま)、言霊 (ことだ ま)は力を発し、神の理を実現するのです。
神の理とは物理を超える神理 (真理)です 。

(ここはどこのほそみちじゃ)----- (ほそみち)には多くの意味が隠されています。
まず、表面的には細い道、すなわち天神様への狭い参道ですが隠された文字は、臍道(ホゾミチ)なのです。ホゾとはヘソ、ありとあらゆるものの 中心、そこに天神様が座します。ミチは道、未知、霊智の意を含む深いことばです。天神さまの参道とはだれもが通ってくる、母の産道であることを知れば、細道が臍道であることが見えます。現象界は物質界なので現象界で働くには物質としての肉体が必要となり、魂の一生の乗り物として個々の肉体をいただいてこの世に下ってくるのです。
(ちょっと通して下しゃんせ)-------天界から臍道を通して地上界へ下(くだ)しあんせ、と頼んでいるのです。
(ご用のないもの通しゃせ ぬ)---------もちろん、だれでも用もないのにこの世に下ろしてもらえるわけではなくそれぞれの役目、使命、ご用を授かった人だけが選ばれて生まれてく るのです。
(行きはよいよい)----行きは息、生き、意気、の意を含んで、この世に生まれることの希望、喜びを指しています。
(帰りはこわい) ----- 行きの反対、帰り、すなわち死への畏れと、現世で犯した罪に対する死後の裁きの恐怖を顕しています
(こわいながらも通りゃんせ)----死や裁きがこわくとも覚悟を決めてお通りなさい、と念を押しているのです。すべての方は大切なご用を果たすために決心してこの現象界へ降りてきたのです。この世にある間にそれぞれのご用を立派に全うしてください。あなたがたが長い間、忘れてしまっていた、(とおりゃんせ)の様々な意味を時折、思い出して、気持ちを新たにしてくださ い。神理(真理)達成の時代は間近です」
 
わたしは椅子からずり落ちかけて、はっと目覚めた。うとうとしてからどれほどたったのだろうか。今のわたしの役目はこのことを書きとめておくことらしい。
わたしは瞼をこすりこすり、ワープロのキイを一つずつ確かめながら打ち始めた。「炎で書いた物語・番外編」と…。( 了)
***        ****       ***
fumio




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1991年11月29日午後3時

 その日、わたしは自宅で自作の歌を何度も録音し直してヘトヘトになって熱い風呂に入った。長くつかり過ぎていたらしい。湯あたりでボーとしてきた。風呂からあがろうとしても立ち上がれなくなっていた。頭がのぼせて足で風呂桶をまたぐのはもう無理になっていた。
そのまま洗い場に倒れ込んで脱出した。尺取虫のように壁際まで進んで湯気の中でのびていた。そのとき、息子が学校から帰ってきて風呂場に倒れているわたしを見つけソファベッドに横たえた。
 翌朝、妻はわたしが白眼をむいて尿失禁しているのに気づいて救急車を呼んだ。
妻が住所を教えて受話器を置く前に救急車のサイレンが聞こえた、という。
救急車の中で妻はなるべく費用の掛からない病院を探してくれ、と頼んだが救急隊員はそんな余裕はない、脈が弱まってとぎれかかっている、とあせって応えた。それで運び込まれた最寄りの病院が東川口病院だった。
藤原脳外科医師が頭を開くと血液が脳全体にまわっていた。脳内出血だった。妻はその血の量に愕然とした。出血後、二三時間置いておいても危ないのに一晩寝ていたので広範囲に血がまわってしまったらしい。妻が手術承認のサインをすると頭蓋骨を切り取り血を抜く手術が行われた。切り取られた骨は冷蔵庫などに保存するより自分の体にしまっておく方が腐敗などしにくいので右太腿部に埋めて保存された。
脳の中身が治るまでの間、右脚の太腿に貯蔵のために埋めてあった頭の骨を元の切り取った箇所に填(は)め込む手術はそれから約一か月後のクリスマスの日に行われたのであった。
手術後の回復期、わたしは「われは龍神、これから崇凰(すうおう)として勞(はたら)く」と宣言して大暴れした。それで点滴に鎮静剤を入れられておとなしくさせられたのである。
それが新たなプロジェクトの始まりだった。
fumio


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1991年8月21日(水)シンガポールKallang theatre(カラン・シアター)での音楽祭のあと、日本に帰国するとその模様が9月14日午後9時、
『ひびけ いのちの歌声 第1回アジアわたぼうし音楽祭』と題してNHKTVで放映された。そして東京、府中、八王子、日比谷、奈良、飛騨などあちこちのコンサートやゲストに招ばれて忙しかった。普通のストーリーならそれでめでたしめでたしのエンドマークが出て終わるのだろうがひとしきり引っ張りだこの波が去って治まった頃、思いもよらぬ意外な展開が用意されていたのである。
fumio

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アジア太平洋の広大なエリアには実に多くの音楽が繁栄している。中国といっても大陸、本土、台湾、上海、香港、等々それぞれの代表曲の醸す雰囲気肌合いがそれぞれ違って千差万別の趣を感じた。すべての出場国のパフォーマンスが終わってしばらくのパーテイのあと祭りの後の寂しさを感じる余裕もなくぐっすり眠りについた。

翌日、各国の人々が打ち解けるようにバスに乗っての市内巡りがあった。みんなギターなどの楽器を提げているので名所から名所へ巡る間バスの中は演奏会のようだった。音楽祭での
出場曲も世界的有名ヒット曲も次から次に演奏していた。わたしたち一行が香港チームと一緒のバスになった時だれかがビートルズのミッシェルのイントロをギターで弾き出した。それに他のメンバーが合わせ次々に音が重なってゆく。こんなところで耳にするといいな、いつもみんなで練習しているのだろうな、なかなかうまいなと心の中で思っているとだれか歌えという。演奏はかっこいいのだけど歌は歌えないらしかった。途中フランス語があるのでむづかしいのかも。それでギタリストがだれもが弾きたがる有名なイントロのクリシェのあと、わたしは思いを込めて歌い出した。演奏している人たちは日本人が英語とフランス語の混じった歌を歌うと思っていなかったようで意外そうだった。それでもわたしにはビートルズは基本なのでまともに歌い切った。それでわたしが英語の歌を歌えると知るとかれらは他の曲もセッションしようとするのでわたしはみんなが知っていて弾けそうなそうな有名曲「グリーングリーングラスオブホーム」をリクエストした。かれらのギターのバック伴奏や間奏とともに色々歌った。楽しいセッションだった。次の名所でバスを乗り換える時同じ停車場でバスを降りたマレーシアチームがわたしを見つけて寄ってきてみんなで日本代表曲「わかり合える日まで」のメロデイをコーラスで歌ってくれた。わたしはビックリした。どうして歌えるのだろうと不思議に思った。とにかくマレーシアは対日感情がいいということだけはわかった。どこの人々もみんなフレンドリーで楽しかった。しかしながら唯一韓国代表だけはわたしたちを避けているようだった。日本統治時代の記憶が完全に癒えるにはしばらくかかりそうだった。「時」という名前の薬や様々なアクテイビテイで意識が変化してゆく。国によって違う対日感情をアジア太平洋の現場で実際に肌で感じて学ぶことができたのだった。この旅でそんないい経験をさせてもらったのである。
fumio

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そして楽屋にやってきた手話通訳の背が高くて浅黒い肌の青年としばらく歌詞の打ち合わせをしてからいよいよ本番に臨んだ。そのうちに順番がきてステージ上でインタヴューされた時、この歌をアジアの人々に向けてばかりではなく宇宙全体(whole universe)に捧げます、と応えた。いつもパフォーマンスする時は天と地とそして宇宙の仲間を意識している。かれらは常にわれわれの動向をどこにいても注視して見守っているから。
fumio

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そして音楽祭会場であるカランシアターでリハーサルが行われた時用意してきた英語版代表曲を歌うと観客席にいたNHKのプロデューサーやデイレクターたちが難色を示しなにやら揉めているようだった。NHKは日本放送協会なので日本の視聴者を常に意識して番組作りするので英語では日本の視聴者に合わないと思ったのだろうがわたしたちは日本という狭いエリアを相手にするNHKの番組を制作するためにシンガポールにまできたのではなく「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」に出場するためにやってきたのだ。そこに集う広大なアジア太平洋地域の聴衆に向けてメッセージを発するつもりなので日本国内にほぼ限定される日本語より世界で通じる言語として英語の歌詞を選んだのだった。NHKの番組制作陣は日本語版を歌ってみせてほしいという。歌うとまた意見が対立して思案しているようなので日英両語版もあるというと聴かせてほしいという。それで日英両語版も歌ってみせたのであった。
fumio


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1991年になると「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」番組制作のためにNHKの撮影チームがやってきてわたしたちの家庭生活を収録した。練習風景を録っていた音声さんがわたしのドイツノイマンU87コンデンサマイクロフォンを見てNHKにない、といって羨ましがっていた。「水面に書いた物語」プロジェクトのカセットテープ収録曲中、どの曲がベストなのかと訊かれてわからなくて迷ったあげく「ネヴァー・ギヴ・アップ」と一応答えておいた。
8月になってシンガポールに出発する日にも空港に顔なじみになったデイレクターなどスタッフがやってきて撮影していた。シンガポールではどんなことに対しても「ノープロブレム(問題ない)」と応えるのでミスター・ノープロブレムと呼ばれている現地の音楽祭のマネージャーが仕切っていてまずある程度この国についての知識を持ってもらおうという方針のようで車で手分けして市内観光の案内をしていた。それであまり知識のなかったシンガポールという国のマーライオン以外の名所も一応見て知ることができたのだった。
fumio


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それで英語ヴァージョンの代表曲をみんなと本気で練習し始めたのだった。
そして日英混交ヴァージョンも作って一応用意して稽古した。
練習日には日本語ヴァージョン、混交ヴァージョン、英語ヴァージョンの3種類のヴァージョンを毎回練習した。myukiと息子とわたしの3人とも歌うことが好きなのでだれも嫌がらず満足できるまでくりかえした。混交ヴァージョンが一番むづかしくて歌っていると歌詞がこんがらかりそうになった。とはいえ英語ヴァージョンについてはリハーサルがかなり仕上がってきたのである。

fumio

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はたしてこれで英語圏の人々に受け入れられるかと思っていると、ある日ラッセル宣教師から、トップ40ソングファンの友だちの宣教師仲間が故郷から来たので今から一緒に行ってもいいか、と電話があった。やってきた二人の宣教師としばらくアメリカントップ40やオールデイズなどヒットソングの話題で盛り上がった。わたしはさまざまなヒット曲を口ずさみまな板に載せた。当時高校生であまり意味がわかっていなかったBarry McGuireのプロテストソングEve Of Destructionの話になるとジムすなわちジェイムス・ラッセル宣教師はいやな歌だったと嫌悪感を露わにしていた。大ヒットしたけれどアメリカ人には強いいやなインパクトがあったことがわかった。ふたりとも音楽がわかるので楽しくうれしかった。それから今度シンガポールで開催される音楽祭で日本を代表して歌うことになったと事情を話してカラオケをバックに英語版日本代表曲を歌って聴いてもらった。たったふたりの米国人聴衆の前でイントロのセリフからエンデイングまでできるだけのパフォーマンスした。するとその音楽好きの宣教師仲間がじっとしていられないように立ち上がって「It’s a hit(ヒット),it’s a hit」と興奮して大声で何度も何度も繰り返す。わたしはライムはどうだったか気になったが二人にはOKだった。
fumio


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歌詞を英語にするには意味を英語にそのまま翻訳するのではなく英詞の場合はライム(韻を踏むこと)が重要になってくる。メロデイにうまくはまるかどうか。なんども歌い書き直しやっとできた。
<By the day we see eye to eye.>


“There is a tiny planet in the spacious universe from the long time before.
We all live on it that shines blue to the core.
Wish we’d be going together forevermore.”

Eyes are different,skins are different,faces are different.
Words are different,dreams are different,nations are different.

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la

 Come to me here by my side, when you need someone to love.
And you feel all alone in the end of this world.

 Talk to me how you cried,talk to me how you tried.
Hold my hand see my eyes.
I’m gonna comfort you,my friend.with this song.

 Sing across the ages, jump across the places,
Sing across the races,by the day we  see eye to eye.

 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.

 Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histories,by the day we  touch heart to heart.

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la


 Sing across the fires, jump across the wires ,
Sing across the desires,by the day we  walk hand in hand.


 Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.

 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.

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 fumio









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そういうことでmyukiの歌の英語が大丈夫ならと1991年に予定されている「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の開催地が英語圏シンガポールなので日本代表曲も日本語そのままでは観客にわからないだろうし日本代表曲を世界に通じる言語英語にして歌うことにしたのである。
fumio

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ある時、劇団の青年にわたしのアルバム「カリフォルニアサンシャイン」のカセットテープを聴かせると映画のテーマソングになるような歌を作ってほしいと頼まれた。戦国時代の壮大なストーリーの終わりに流れるような英語入りバラードという注文だった。そういう名曲が頭にあるらしかった。それでわたしは「We all need love」という曲を作った。それを聴いたmyukiが自分も歌いたいというので録ってみたが英語の部分を米国人が聴いて大丈夫かどうか心配だった。
その頃、息子の友達の父がやっているバプテイスト系教会のジェームズ・ラッセル宣教師がよくわたしの家に来ていた。日本語がまだうまくないので英語で気兼ねなく喋れるわたしのところに来て宗教ではなく全米トップ40ヒットソングの話をよくしていたのだ。それでmyukiの歌うWe all need loveを聴いてもらった。すると「かの女はネイテイヴスピーカーなのか」とわたしに尋ねた。ラッセル宣教師がネイテイヴかと思うならmyukiがこれから英語の歌を歌っても大丈夫とわたしは判断したのだった。
fumio

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