monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその47
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1980年の終わりにアルバム「PROCESS」は完成して、そのころ流行の媒体、カセットテープの形でリリースした。翌年、仲間の芸術家集団の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海(MAIDEN VOYAGE)』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでこのアルバムの収録曲をライヴ演奏した。クラブ『処女航海』は昼間はバンドの練習スペースとして貸していた。それでわたしたちが到着した時アマチュアのバンドがまだ稽古していた。入れ替わりにジャズのクラブはこんなふうになっているのかと思いながら仲間と楽器と機材のセッティングをして開演を待つ。島健はピアノはスタジオミュージシャンとして手伝ったけれど自分は正式メンバーではないからと客席で見ていた。ごく普通にまるでいつもの仕事のようにライブは始まり普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。楽屋では仲間たちがドライアイスを買ってスモークマシーンに入れたり用意してわさわさしている。ライヴの後半、嵐 の曲で宮下富実夫が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。そのあとエンディングの「HOME TOWN」 を歌うと、冷たいガスがのどに入ってむせそうになって危うかった。ライヴではなにが起こるかわからない。演奏の稽古は充分したけれどドライアイスの煙を吸わないように歌う稽古はしていなかった。はじめからアンコールを求められることなど考えていなかったのでアンコールの声が沸いた時、困った。応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してごまかした。そしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。 そして、アルバム「PROCESS」 は80年代初頭には一部の支持者以外には全く理解されることなく20年の眠りについた。ふたたび目覚めるきっかけはわたしがアリオンの主宰する世紀末フォーラムに参加したことであった。そこで知り合った佐藤邦明氏の尽力によってCD化 されたのだ。デジタル化されたおかげでホームページ上にアップロードすることができたので不特定多数の人がその気になれば聴けるようになったのである。


fumio

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カリフォルニアサンシャインその46
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1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われた。今もあの時の感覚がわたしのどこかに残っている。
fumio


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