monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその55
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ある日、息子が「カラテキッド2」のオーデションの時に所属した事務所から電話がかかってきた。今度、エディー・マーフィー主演で『ゴールデン・チャイルド』 という映画を撮ることになって、そのゴールデン・チャイルド 役の子のスタント(代役)を息子にやってほしいというのだ。子役は学業などの関係でひとつの役を交代に演じるらしかった。

 チベットの少年僧の役なので頭を剃ってほしいという。たしかに坊主頭にしてしまえばみんな似たように見えるかも知れないと思った。でももうすぐ日本に帰国するつもりだし息子につきあっていると帰国が遅れるし、とちらっと考えた。それで息子に訊いてみた「頭を剃って映画に出る?」と。しかし息子は頭を剃るということがどういうことかピンとこないようなので「マルコメ味噌の宣伝の子供みたいな頭にして映画に出るかい?」と言い直した。するといやがった。こんな子供でもやっぱり坊主頭はいやなのかとちょっと感心しながら「息子はノー、といっています」とわたしはエージェントに伝えた。

 するとエージェントはあわてて、出演料は3000ドルですよ、と言い出した。その頃の3000ドルはかなり価値があった。しかしわたしは息子の意志を尊重してあらためて断った。何度も翻意を促そうとエージェントは3000ドルを繰り返していたが、わたしはこれでもう映画の撮影の関係で帰国予定が狂うことはない。あの撮影所に長時間縛られずにすむ、となんだかほっとしていた。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその54
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 宮下富実夫は81年に自分のユニット「富実夫FUMIO」をふたりの気のいい黒人、向かって左LANCE FOOKS(guitar) と右CALVIN HARDY(bass)とで結成して「DIGITAL CITY」というポップなアルバムを作った。「DIGITAL CITY」 の見本盤を見ると宮下は「to fumio yamashita family FUMIO富実夫1981 10 31 」と細いペンで手書きしている。そしてしばらくしてかれはアメリカを去った。それから日本での本格的活動が始まる。宮下の歩むべき道はアメリカではなく日本に用意されていたのである。
fumio



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カリフォルニアサンシャインその53

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 シングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」ができあがると山崎豊子の「二つの祖国」のモデルになった、二大日本語新聞「加州毎日」社と「羅府新報」社に持っていって紹介記事を載せてもらった。二紙とも日頃ほとんど芸能記事は載らないので紙面がすこし華やいだ。
そのころ、日系人のオピニオンリーダー上手亦男(うわてまたお)氏が日曜日の朝9時から10時までやっていた「ラジオ小東京」という番組があった。かれの事務所兼ラジオスタジオに「カリフォルニア・サンシャイン」を持っていって聴いてもらった。かれは歌詞がいいと気に入ってくれた。それでそれからよく妻とその番組にリクエストしてかけてもらった。その番組は日系人、日本人の間で高聴取率だったのでフリーウエイ上で聴いたという人が多かった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその52
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  わたしはサンフランシスコ旅行中曲想を得た「カリフォルニア・サンシャイン」を宮下富実夫たちとのセッションで試しに披露すると宮下はタンバリンを叩き演奏に参加してくれて思いのほかみんなの評判が良かったのでレコード化を心に決めた。

 ベースとヴォーカルを頼まれていたバンドが解散状態になってひとりでエンターティナーの仕事をするようになると自由になったのでいよいよ宮下富実夫の使っていた多重録音機ティアック8トラック・レコーダーの後継機、タスカム8トラック・レコーダーとコンソール(調整卓)を購入した。
 そしてプロフェット5、ヤマハDX7などのシンセサイザーにMXRドラムマシンにスネアドラム、そしてエフェクター類、ノイマン・マイクなどの録音機材をスタジオと呼べるほど一通り揃えて「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音にとりかかった。
 物音のしない夜中に妻子が寝静まるのを待って自宅で「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音をするのだが幸いベースとギターは弾けるのでそれほど手こずらずにすんだ。一番むづかしかったのはヴォーカルだった。聴き直すと自分自身にOKがだせない。声がつぶれてこれ以上無理と判断すると他の調子のいい日にまわす。自宅だから時間を気にせず納得ゆくまでできた。当時はアナログからデジタルへの過渡期でミックスダウンはソニーのPCM変換器を使用してPCMデジタル録音した。 やっとマスターテープができあがると シングルレコードのマスターリング(レコードの溝をカットして原盤を作る作業)に当時ロサンジェルスで一番評判の良かった「マスターリング・ラボ」というスタジオに予約を入れようとした。すると「今週一杯は無理です。ピンク・フロイドのディヴィッド・ギルモアが個人アルバムのマスターリングでずっとリザーブしてますから」といわれた。それでしばらく待った。

 1984年2月7日、「マスターリング・ラボ」スタジオではPCM録音のデジタル音源は初めてでロックバンド「カンサス」もそのソニーのPCM変換器を使用した音源をマスターリングしてほしいといっているのでそれ用の器具を注文して手に入ったからその器具を使ってマスターリングするという。そしてわたしの目の前でその器具をマスターリングマシンに接続して作業を始めた。
ということでシングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」 は「マスターリング・ラボ」スタジオでデジタル音源をマスターリングした最初のレコードということになるのである。
費用は片面76ドルで両面ではタックス込み160ドル36セントだった。 
当時のロサンジェルスにはシングルレコードを作るような日本人ミュージシャンはほかにいなかったので普通レコード会社がやることをすべて自分でしなければならなかった。
アメリカのシングルレコードは無地の紙ジャケットに入っているだけで歌手の写真もなければ歌詞カードもついていない。実にあっさりしたものである。それではあまりにもあっけらかんとしているので日本のシングルレコード風に透明袋にジャケット写真兼歌詞カードを入れることにした。説明しにくいけれど表には妻に近所で撮ってもらった写真をあしらい、わたしは手書きでレタリングのように文字を描いた。その裏に歌詞を印刷してジャケット写真兼歌詞カードの一石二鳥の宣伝ポスターを作った。宣伝文句の部分を裁断してしまえばシングルレコードジャケットに見えるのだ。
SFのアルバム「プロセス」の写真は印刷業者の技術的問題で幻想的宇宙写真がただの青ベタになってしまった。何度やってもうまく出なかったという。写真を提供してくれた写真家堀山敏夫氏には悪いことをした。それで今度は別の業者を選び何度も足を運んで打ち合わせした。わたしもすこしずつ学習して進歩していた。人任せにしてほったらかしにしていると危ない。今度の業者はそんなレコードの仕事は初めてなので喜んでいた。担当の初老の婦人が自分は毛筆の字が得意なのでレタリング風文字のところを書いてやろうと何度も迫る。わたしは困ってやんわりと断った。あのとき、毛筆で「カリフォルニア・サンシャイン」と書いてもらっていればずいぶん感じが違っていたことだろう。
レーベル名をつけるとき、わたしたち夫婦の「FUMIO & RITSUKO YAMASHITA」の頭文字をとって「FRY」レコードにしたのだがだれかが「飛びそうな名前だね」と言っていた。でもフライはフライでも揚げるフライの綴りなのでフライパンをロゴマークにしてラベルを作った。

 
 Bill Smith というレコード製作工場に「マスターリング・ラボ」でマスターリングした、A面「カリフォルニア・サンシャイン」、B面「セイ・ツゥ・ミー・マイ・ベイビー」の各原盤(マスター)を持ち込むとまず「SHEFFIELD LAB MATRIX」社で表裏各181ドル5セント、両面計タックス込み345ドル34セントでレコードスタンパーを作ることになった。

 それから宣伝ポスターの不要部分を裁断したジャケット歌詞カードとまん中に貼るレーベル(ラベル)とナイロンレコードカバーを持っていってレコードプレスを頼むと1984年3月9日に片面661ドル5セント、両面でタックス込み1199ドル95セントで日本風シングルレコード1000枚がついに完成した。よく知らない作業もあったけれどそれは作詞作曲、演奏、歌、録音、その他、ほとんど全部手作りのレコードだった。前例がないことをやるのはだれかの真似ができないので失敗だらけでも面白い。もうレコードという形態の媒体の時代は終わって久しいのでこうしてアメリカでのレコード製作の手順と細かい値段などを記しておけば将来だれかの資料として役に立つかもしれない。


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  わたしはサンフランシスコ旅行中曲想を得た「カリフォルニア・サンシャイン」を宮下富実夫たちとのセッションで試しに披露すると宮下はタンバリンを叩き演奏に参加してくれて思いのほかみんなの評判が良かったのでレコード化を心に決めた。

 ベースとヴォーカルを頼まれていたバンドが解散状態になってひとりでエンターティナーの仕事をするようになると自由になったのでいよいよ宮下富実夫の使っていた多重録音機ティアック8トラック・レコーダーの後継機、タスカム8トラック・レコーダーとコンソール(調整卓)を購入した。

 そしてプロフェット5、ヤマハDX7などのシンセサイザーにMXRドラムマシンにスネアドラム、そしてエフェクター類、ノイマン・マイクなどの録音機材をスタジオと呼べるほど一通り揃えて「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音にとりかかった。


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 物音のしない夜中に妻子が寝静まるのを待って自宅で「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音をするのだが幸いベースとギターは弾けるのでそれほど手こずらずにすんだ。一番むづかしかったのはヴォーカルだった。聴き直すと自分自身にOKがだせない。声がつぶれてこれ以上無理と判断すると他の調子のいい日にまわす。自宅だから時間を気にせず納得ゆくまでできた。当時はアナログからデジタルへの過渡期でミックスダウンはソニーのPCM変換器を使用してPCMデジタル録音した。

 やっとマスターテープができあがると シングルレコードのマスターリング(レコードの溝をカットして原盤を作る作業)に当時ロサンジェルスで一番評判の良かった「マスターリング・ラボ」というスタジオに予約を入れようとした。すると「今週一杯は無理です。ピンク・フロイドのディヴィッド・ギルモアが個人アルバムのマスターリングでずっとリザーブしてますから」といわれた。それでしばらく待った。

 1984年2月7日、「マスターリング・ラボ」スタジオではPCM録音のデジタル音源は初めてでロックバンド「カンサス」もそのソニーのPCM変換器を使用した音源をマスターリングしてほしいといっているのでそれ用の器具を注文して手に入ったからその器具を使ってマスターリングするという。そしてわたしの目の前でその器具をマスターリングマシンに接続して作業を始めた。

 ということでシングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」 は「マスターリング・ラボ」スタジオでデジタル音源をマスターリングした最初のレコードということになるのである。
費用は片面76ドルで両面ではタックス込み160ドル36セントだった。


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当時のロサンジェルスにはシングルレコードを作るような日本人ミュージシャンはほかにいなかったので普通レコード会社がやることをすべて自分でしなければならなかった。
アメリカのシングルレコードは無地の紙ジャケットに入っているだけで歌手の写真もなければ歌詞カードもついていない。実にあっさりしたものである。

それではあまりにもあっけらかんとしているので日本のシングルレコード風に透明袋にジャケット写真兼歌詞カードを入れることにした。説明しにくいけれど表には妻に近所で撮ってもらった写真をあしらい、わたしは手書きでレタリングのように文字を描いた。その裏に歌詞を印刷してジャケット写真兼歌詞カードの一石二鳥の宣伝ポスターを作った。宣伝文句の部分を裁断してしまえばシングルレコードジャケットに見えるのだ。

 SFのアルバム「プロセス」の写真は印刷業者の技術的問題で幻想的宇宙写真がただの青ベタになってしまった。何度やってもうまく出なかったという。写真を提供してくれた写真家堀山敏夫氏には悪いことをした。それで今度は別の業者を選び何度も足を運んで打ち合わせした。わたしもすこしずつ学習して進歩していた。人任せにしてほったらかしにしていると危ない。今度の業者はそんなレコードの仕事は初めてなので喜んでいた。担当の初老の婦人が自分は毛筆の字が得意なのでレタリング風文字のところを書いてやろうと何度も迫る。わたしは困ってやんわりと断った。あのとき、毛筆で「カリフォルニア・サンシャイン」と書いてもらっていればずいぶん感じが違っていたことだろう。


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レーベル名をつけるとき、わたしたち夫婦の「FUMIO & RITSUKO YAMASHITA」の頭文字をとって「FRY」レコードにしたのだがだれかが「飛びそうな名前だね」と言っていた。でもフライはフライでも揚げるフライの綴りなのでフライパンをロゴマークにしてラベルを作った。

 
 Bill Smith というレコード製作工場に「マスターリング・ラボ」でマスターリングした、A面「カリフォルニア・サンシャイン」、B面「セイ・ツゥ・ミー・マイ・ベイビー」の各原盤(マスター)を持ち込むとまず「SHEFFIELD LAB MATRIX」社で表裏各181ドル5セント、両面計タックス込み345ドル34セントでレコードスタンパーを作ることになった。

 それから宣伝ポスターの不要部分を裁断したジャケット歌詞カードとまん中に貼るレーベル(ラベル)とナイロンレコードカバーを持っていってレコードプレスを頼むと1984年3月9日に片面661ドル5セント、両面でタックス込み1199ドル95セントで日本風シングルレコード1000枚がついに完成した。よく知らない作業もあったけれどそれは作詞作曲、演奏、歌、録音、その他、ほとんど全部手作りのレコードだった。前例がないことをやるのはだれかの真似ができないので失敗だらけでも面白い。もうレコードという形態の媒体の時代は終わって久しいのでこうしてアメリカでのレコード製作の手順と細かい値段などを記しておけば将来だれかの資料として役に立つかもしれない。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその51
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わたしは高校時代に好きだったリヴェリアス(Riverias)の『カリフォルニア・サン(California Sun) 』 、ママズ・アンド・パパスの『夢のカリフォルニア』 、そしてしばらくのちに大ヒットしたアルバート・ハモンドの『カリフォルニアの青い空』 、イーグルスの 『ホテル・カリフォルニア』、などのカリフォルニアを歌った名曲の数々に触発されて、自分自身のカリフォルニアの太陽讃歌を作りたいと常々願っていた。

 1981年9月29日、わたしと妻と息子はサンフランシスコへ家族ドライヴ旅行した。運転中、なぜかカリフォルニアの陽光の詞とメロディが流れこんでくる。宿泊した、ヒチコックの映画『サイコ』を思い出させる、ゴキブリの出没する安モテルのメモに走行中に浮かんだ詞を書きつけた。

 
 カリフォルニアは日本列島ほどの広さの州なので北海道と沖縄の気候が違うように北カリフォルニアと南カリフォルニアでは気候風土が異なる。サンフランシスコは南カリフォルニアに位置してロサンジェルスから車で約六時間ほどの距離である。

 坂道で息切れする愛車を叱咤してチャイナタウンや観光名所を巡ってゴールデンゲイト・ブリッジを見おろすリンカーン・パークで『咸臨丸入港百年記念碑 大阪市長中井光次書』と書かれた黒い碑を前にして感慨に耽った。前に座る当時4才であった息子の大きさとの比較で碑の大きさがわかるだろう。この異国の仮マホロバ(カリホロニア)の地(つち)の上に立って勝海舟をはじめとする幕末のサムライたちが真のマホロバであるべき日本(ひのもと)の祖国を思い、新時代を築く礎(いしづえ)となる決意をどのように固めたのかと…。
fumio

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